私の為の花
全てを捨ててでも私は帰りたい場所があるような気がしていた。自分を押し殺してでも愛されたい気持ちがあったような気がしていた。けれど、十年以上の時間があれから流れた今、私は私としてきちんと立って歩いて行くしかないように思えている。いつかに出会った誰か、いつしか出会う誰かに自分を寄り掛からせ、依存して生きて行く生き方がきっと私はしたかったのだろうと思うものの、それは必ずしも幸福とはならないと今では思う。
心の奥底に沈む一輪の向日葵の花や一枚の金貨、もう思い出すことも忘れてしまった遠い日の思い出を私はずっと無意識的に大切にしているような気がする。それを振り切って未来へと進まなければと考える一方で、どうしても私は何かがあると其処へと立ち戻る癖があるようだ。懐かしい母のこと、父のこと、弟のこと。幼稚園や小学校でのこと。夢を得た日、花を見付けた日、涙した日。そういった一切の思い出をどうして私は今も大事に抱えているのか、時々、自分でも良く分からなくなることがある。全てを持って此処まで来たような気もするし、場合によって何かを失い、何かを捨てて来たようにも思う。それでも私は忘れることの出来ない思い出のかけらを未来の自分へと届ける為に此処に立っているように思う。
私が本当にしたいことというのは、物語を書くことだと思う。文章を織ることだと思う。そして、それが誰かの心に少しでも届いたらとても嬉しいと思う。けれど、ふと振り返った時に私は不安になる。突き上げる寂しさ、寄る辺ない孤独、頼りのない自分。このまま、こうして歩いて行って良いのかどうか私は立ち所に不安になる。皆、こんな気持ちを抱えて生きているのだろうか。皆、何もない顔で街を歩いている。皆、問題などないといった風で生活している。もしかして、私だけが? そんな思いに駆られてしまう。
だが、きっと多くの人が不安や悲しみを過去から抱えて生きているだろうと私は思う。陰と陽のように、裏と表のように、人は皆、一人でも悲しみと喜びを持っているだろうと思う。私だけではない筈だ。
私は、もうそろそろ自分自身の幼い思い出とさようならをしようかと近頃、迷っている。もう大人なのだから、決別すべき時なのではないかと。いつまでも得られなかったものを思い、蹲うずくまっている場合ではないように思う。或いは、先へと進んではいても私の奥底にある思い出の一片を手離さないでいることは、良くないのではないかと思う。そう思っても、何が良いか良くないかは個々人の判断によるもので……というもっともらしい言い訳を私は用意してしまう。
有り体に言えば、私は寂しいのだろうと思う。これまでに出会った全ての人が私の中ではすれ違っただけの人でしかなく、瞬間の喜びや悲しみを瞬間的に共有するだけで。本当の意味での友人など一人もいないのかもしれないと。そう思う時もある。誰にも真実など分かりはしないだろう。
これだけの愛を謳う物語が溢れる中、私はこのままずっと一人で何処までも何処までも歩いて行くのかと考え込んでしまう。心の奥にある思い出が、私を未来への道へ促す。それでも決定的な寂しさが私を包んでしまう。どれだけの物語を書こうとも、私は雫のように一人だと。しかし、私は此処までやって来た。多くの人の力を借りて、此処まで歩いて来たのだ。その道のりの中で星の数のような出来事があり、その数以上の感情を私は生み、笑ったり泣いたりを繰り返して来た。誰にも愛されなかったわけではない。だが、不意に近付いた距離と心は錯覚だったとでも言うかのように今はもう私の傍にはない。それは結果であり、過程の全てを否定することには繋がらない。ただ、冷たい氷のような棘が残った。また、温かい灯りも残った。
思い出から生じている思いを私は捨て去れば楽になるかもしれない。家庭の思い出、学校生活の思い出、好きだった人との思い出。そこから生まれているシンプルな渇望とでも言うべき感情を、此処に置いて先へ進もうかと私は悩んでいる。もうこの世にいない人、この世にいても二度と会えない人、そういった人達への願いのように湧き出る感情を私は本当はもう抱えていることがつらいのかもしれない。それは、愛情であったり恋情であったり、ただただ悲しみであったりする。人は思い出と共に生きて行く者かもしれないが、私はその思い出が多すぎるのかもしれない。
――此処で、さようならをしようか。そんな思いに駆られる。けれど、思い出は未だに様々に光っている。その光のかけらを土に還すことが、どうしてか私には決断出来ない。つらいなら、手を離せば良いのに。
思い出とそれに纏わる私の感情は、確かに私自身の姿と私の歩く道を照らして来た。街灯のように、航海灯のように、月や星のように其処にあった。私にはいつか行きたい場所があって、数多くの思いは確かに其処までの道先を照らし私を導いて来た。だからこそ愛着もあり、だからこそもう限界かもしれないとも思うのだろう。幼い頃の私と手を繋いで行くことが良いことなのかも、もう分からなくなって来ている。忘れてしまった思いすら、私の中にはきっと堆積している。飽和している。そんな気がする。
だが、と思う。私は此処で昔の私を置いて行ってしまったら、遠いいつかに思うだろう。あれで良かったのだろうか、と。無論、このまま抱えて行くことを是とする自信はない。これからもそれは生まれないだろう。しかし、私が此処まで私足り得たのは思い出を抱え、幼い私と一緒に歩いて来たからだろうとは思う。それの善し悪しは分からない。ただ、事実としてある。私がこれからも私という連続性を以て進んで行くには、きっと全ての思いが必要かもしれない――今の段階では希望を込めた仮定に過ぎないが――と私は考える。
季節が移り行く中で二度と同じ日は来ないように、一瞬とて同じ私はいないだろう。秒単位で私は変化し、いつかの日の為に夢を追い、呼吸をしている。この先に私の希求するものがあるかは分からない。歩いても歩いても求めている花は咲いていないかもしれない。だが、それでも私は先へと進んで行く。振り返ることはしても戻ろうとは思わないだろう。そう、思いたい。
近いような遠いような未来、私の為に待ってくれている花があると信じている。
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