第38話 いともたやすく行われるえげつない行為

 シャルロッテが少し言いよどんだのは、やはりレブストルにおける禁忌――門徒の出自や家族に関わる部分に触れることをおもんぱかってのことであった。しかし結局口にすると判断したのは、自分に真剣に関わろうとするアイラに報いたいとの思いゆえである。


「今朝アイラと別れたあとに、そいつの方からあたしを見つけて突っかかってきてさ。そんときに自分から『お姉ちゃんになんたらしてもらうから』とか言ってきたんだよ」


 ここでアイラは、シャルロッテが一瞬固まって見えた今朝のことを思い出した。彼女がアイラの背後に見たのは、恐らく今問題となっている、第一学寮時代の同級生の姿だったのだろう。


「じゃあ、その子からシャルのことを聞いてて、ほんとにシャルを嫌がらせようって思ってこんなことやったんだね、その事務員さんは」


「そうだと思う。なんか、作業するとき他の人にバレないように、コソコソ人払いしてたしな」


 シャルロッテの返答にアイラは目を怒らせて、改めて滅茶苦茶な赤い刺繍を見た。


 なんという人がいたものだ、それもこの学院の職員に。


 アイラはこれまで周囲の大人たちの親切に守られて過ごしてきただけに、かほどに邪悪な大人に対してどういう気持ちでいたらよいか、まるでわからなかった。


 しかし頭ではわからないながらも、彼女は心の奥底から邪悪に屈するを拒んでいたし、また『友を助けてこそ真の友たるものだ』というかつての父の言葉が、彼女の背中を押し、かつてないまでに奮い立たせていた。


「ねえシャル、すっごく腹が立つけど、とりあえずこの糸、私たちで取っちゃおうよ。そのあとで綺麗に縫い直すのはどう?」


 アイラは自分で口にした通り実際に相手をしてやりたい気分だったが、相手が大人だと分かって、やり方は考えねばならないと思った。


 そして、とにかく、この見目の悪い学年標章だけは早く何とかしてあげたいという思いで提案した。


「もし縫い方に規則があるにしても、まさかこんな乱暴なのが普通ってことはないだろうし、調べたら自分たちでもできるんじゃ……」


 しかしシャルロッテは首を振った。


「それは私も最初に考えたよ。でも、できないんだ」


「できない……?」


「そう。これを見て」


 シャルロッテは腰に手をやると、制服の裾で隠れていた部分から自前の工具を取り出した。フリージアで出会った日に身に付けていた、あの工具ベルトからである。


 シャルロッテは先端の鋭い、金属製のものを握り込むと、自分の制服の胸の部分に押し当て、赤い刺繍糸の下に滑り込ませようとした。


 ぐっ、と彼女が力を入れるのが、アイラにも手の動きで分かった。


 しかし、工具の先端は微動だにせず、刺繍糸には一分の隙も生まれることはなかった。


「えッ!? これって……」


「たぶん、魔法がかかってる」


 シャルロッテの導いた結論に、アイラは愕然とした。


 魔法。私たちがこれから学ぶ魔法。試験に向けて必死に覚えた魔法。夢のために必要な魔法。レオンハルトが教鞭をとり、サイサリスや、パルマージや、カーリマンが一番を追い求める魔法。不思議で、きらきらで、呪いは怖いけど、きっとその力で人々を豊かにすると言われている、魔法。


 それが単なる嫌がらせに使われているという事実は、アイラの胸に重くのしかかった。


「信じられない……」


 そしてまたその重みが、アイラの心の火に大いに油を注ぐこととなった。


「……シャル、私は怒ったよ」


 アイラはすっくと立ちあがると、そこから見えていた学院内の時計塔を睨むように見据えた。


「シャルが我慢することなんて、何にも無いんだからね。私が絶対、なんとかする」


 そして未だ腰掛けたままのシャルロッテに振り返ると、眼差しは強いままに、しかし頬は和らげて、こう提案した。


「シャル、図書館へ行こう!」


「図書館?」


 シャルロッテはぽかんとしながらアイラを見上げたが、アイラはさも当然という体で頷くのみだった。


「困ったときは図書館だよ。図書館には、なんでもあるからね」


 もちろんこれはアイラの実感に基づく極めて個人的な物言いだったが、いつもは弱々しいアイラがこうまでいきり立っているのがシャルロッテにはおかしくて、またそれが頼もしくて、少しだけ彼女の表情を明るくさせた。


「いや、なんでもはないだろ……」


「あーるーの! 行こ!」


 立ち上がったシャルロッテの手を握って、アイラは時計塔の方へと駆け出した。その階下に位置する、レブストルの図書館を目指して。

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