出会い
ひとめ惚れというのは、相手が人間でなくても起こることなのだなと、
就職してひと月たったばかりのこと。休日、デパートへ買い物に出た彼女は、たまたま通りかかった
何気なく目に入ったグラスに、ドキンと脈が跳ねるような衝撃を感じた。
吸い寄せられるようにして会場へ入り、そのグラスの前から動けなくなってしまったのだ。
ちょうどチューリップの花のような曲線を描いたロックグラス。飲み口と底は波打つ淡い桃色のグラデーションになっていて、まんなかに細かいカットの模様が帯のように刻まれていた。
そのカットされたガラスが、斜め上からのライトに照らされて、キラキラとまばゆい輝きを放っていた。
まわりにもたくさん美しいグラスがあって、そのグラスが特別目立っているというわけでもなかった。
むしろ控え目でおとなしい印象だったのだが、綾子の目にはそのグラスだけが、特別な存在のように浮きあがって見えたのだった。
「お気に召しましたか」
背後からやわらかい声がして、綾子は振り向いた。
会場の係員だろうか、年の頃は三十過ぎくらいの男性が立っていて、柔和なほほえみを浮かべていた。
「ええ。なぜか目が離せなくなって。お邪魔でしたね」
気がつけば小一時間ほどもグラスに見惚れていた。
他のお客様の邪魔になっていたかと、綾子が申しわけなさそう答えると、男性は一層笑みを深くした。
「いえいえ、とんでもない。ゆっくりご覧ください」
男性は、このグラスの模様は「菊つなぎ紋」という伝統的なカットだと教えてくれた。
直線を組みあわせて、菊の花を連ねたような繊細な模様が刻まれていた。単純そうに見えて職人の腕が試される模様なんですよ、とは男性の言葉だった。
刻まれた線の微妙な角度が、光を受けて宝石のように輝いていた。
綾子はほうっと息をはいて、あらためてグラスをながめた。
「このグラスで、どんなお酒を飲むのがふさわしいかしら」
綾子のぼんやりした問いに、男性はうれしそうに答えた。
「そうですね。ロックグラスですからウイスキーの琥珀色と合わせると引き立ちますけれど。そうだ、ハイボールは? 炭酸の泡が江戸切子のカットに反射して美しいと思います」
「そうですね。泡が立ちのぼるようすは、見ていてきれいかも」
「そうそう、炭酸なら日本酒のスパークリングタイプも良いかもしれません。お嬢様のような若い女性にも飲みやすい甘口のお酒もありますよ」
「そうなんですね。ありがとうございます。お酒ほとんど飲まないので」
「飲みたくなりました?」
男性はイタズラっぽい口調になって聞いてきた。
「ええ、とても。このグラスで飲んでみたくてお酒を買うなんて、おかしいですよね」
「おかしくなんてありませんよ。このグラスを作った作者冥利に尽きます」
男性は胸に手を当てて深々と頭を下げた。
「え? もしかして?」
綾子は、ハッと思い当たって男性の顔を見あげた。
「はい。このグラスの作者です」
結局、綾子はこのロックグラスを購入した。
もらったばかりの初任給の三分の一以上も支払ってしまったのだが、後悔はなかった。
ここで手にしなかったら、もう二度と出会うことがないだろうと感じてしまったからだ。
そして、帰りにリカーショップへ寄ったのは言うまでもないことだった。
やがてわかるのだが、この時が綾子と将来の夫との出会いの日でもあった。
この日以来江戸切子に魅了された彼女が、とある工房へ見学に行った時、二度目の出会いがあったからだ。
彼女が惚れ込んだグラスは、生涯綾子のかたわらにあって、夫と共に人生の伴侶となった。
(終)
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NOVELDAYSの短編コンテストに応募した作品です。
テーマは「お酒が飲みたくなる話」
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