第2話①
新宿という街はあまり好きではない。正直に言えば嫌い類いだと思う。
この街はいつも美夜を惑わせる。
人間かそれ以外か、それすらもわからないほどのヒトの群れ。
見上げても先の見えないビル。どんなに奇抜な形をしていても、誰も見上げたりはしない。新宿にはそんな無情さがある。
誰かが何日も何ヶ月も何年もかけて作り出した作品が、道端に転がる石ころのようにぞんざいに扱われるのだ。
しかし、美夜は新宿に来ることをやめることはできなかった。
この街には情を求められることがない。何者かになる必要もなかった。たとえ美夜が少し失敗をして普通の人間らしからぬ行動を取ったところで、三歩も歩けばみんなの記憶から消えている。
誰にも見つけられないバケモノにでもなったような居心地の悪さと、無色透明になったことへの安心感が同居していた。
そんな新宿を空から見下ろす神になる日が来ると、誰が想像しただろうか。
精巧なジオラマを作ったと言われたほうが納得できる。
ミヤはベッドから降りると、窓の下を覗き込んだ。
「やあ! ミヤはお寝坊さんだネ! そろそろ起きて!」
軽やかな声と共にウィリアムが部屋の扉を開けた。
立ちこめる牛丼の甘い汁の香り。記憶に新しいのは、昨夜嗅いだばかりだからだ。新宿が一望できる部屋には不釣り合いな安っぽい匂い。
ウィリアムが手にしているビニール袋が振り子のように揺れた。容器の中の汁が波打つのを想像して、美夜は頬を引きつらせる。
「僕はもうお腹ペコペコだよ」
「……あんた、誰だ?」
ウィリアムは腹を押さえて空腹を主張する。その姿に美夜は眉を寄せた。
金の髪も、整った顔も昨夜と何も変わりない。しかし、まとう空気が違うのだ。肌で感じていた禍々しさがすっきりと抜け落ちている。
なにより、目が青い。
「だから、僕はウィリアムだよ」
「どういうことだ? 俺は吸血鬼の家に泊まったと思ったんだが。……あんたは昨日展示を見に来たウィリアムだ」
「ミヤは難しいことを言うネ。目が青くても赤くても僕は僕さ」
ウィリアムは歯を見せて笑った。妙に尖った犬歯すらなりを潜め、芸能人のように綺麗な白い歯が並んでいる。
しかし、その陽気な笑みは吸血鬼のウィリアムと何ら変わりなかった。
「僕は人間で、そして、吸血鬼なんだ」
「そんなの、あり得ないだろ」
「それがどういうわけかあり得るんだよ。君が他人とは違うように、僕も他とは違うってだけだヨ」
ウィリアムは笑みを深め、目を三日月のように細めた。昼の空に浮かぶ二つの三日月は、それ以上何も聞くなと言っている。
厄介な奴の手を取ってしまったと思った。
しかし、物は考えようだ。人間の手を取ったと思ったら吸血鬼だったのであれば、「詐欺だ」と憤慨するだろう。
美夜はその逆だ。
吸血鬼の手を取ったら、半分は人間だった。まだこちら側に近づいたのだから、幸運だったのではないか。
少なくとも、目が青いときは血を啜られる心配をしなくてもいいのだから。
「ミヤの大好きな牛丼大盛りツユダクだよ」
「……好きとは言っていない」
むしろ、久しぶりに食べたまともな食事が牛丼だったせいで、胃もたれを起こしているくらいだ。匂いを嗅いだだけで、二日酔いのように胃の辺りが違和感を主張する。
ウィリアムは金の髪を揺らして首を傾げた。
「あんなに美味しそうに食べてたのに? ま、いいや。ダイニングで食べよう」
ウィリアムは牛丼の香りを引き連れてダイニングルームへと向かった。
タワーマンションの最上階は無駄に広い。
部屋が二十部屋くらいあるらしい。何十畳かわからないリビングルーム。晩餐会でも開くのかというほど広いダイニングルーム。中から死体の一つでも出て来そうな多さの業務用冷蔵庫。
数えてはいないが、風呂だけで五つあるらしい。
美夜は裸足のままウィリアムを追った。
二人には広すぎるダイニングテーブルには、丁寧にランチョンマットが敷かれ牛丼のテイクアウト用の容器が置かれていた。
「ほら、ご飯を食べよう! 僕も食べてみたかったんだ。この、牛丼大盛り。ツユダク?ツユダクって、『汁をだくだくと入れる』って意味らしいヨ。知ってた?」
「へぇ」
「持ち帰りもできるなんて、便利になったよね。しかも、持ち帰りのほうがちょっと安いんだって。店員さんが教えてくれたヨ」
「そりゃあ、よかったな」
牛丼屋がよほど気に入った様子で、手に入れた情報をペラペラと語るウィリアムに対し、美夜は適当に相槌を打った。
ウィリアムの向かいに美夜は座る。
綺麗な顔の西洋人と、ボサボサの髪の日本人が向かい合う食卓。なんと歪な景色だろうか。目の前には容器のままの牛丼。横を向けば新宿の街が一望できる。
牛丼もこんな空の上で食べられるとは、思ってもみなかっただろう。
美夜は箸で牛肉を一枚取って口に入れた。
昨日ほど腹が減っていないせいか、ゆっくりと噛んだ。咀嚼すればするほど肉と汁の甘みが口に広がる。
ウィリアムは何度も噛みながら目を瞑り、真剣に味わっている様子だった。
「吸血鬼でも飯を食うんだな」
「陽の出ているうちは人間だからね。ご飯を食べなきゃ死んじゃうヨ」
「ふーん。昼に飯を食べて、夜は血を啜るのか?」
「そうだよ」
「不便だな」
「そんなことはないさ。人間だって三食食べるだろ? 僕はその一回を血液に変えるだけだから」
「ふーん」
そんなものかと、美夜は相槌を打って牛丼を口に運ぶ。人間の分と吸血鬼の分で倍食べるのかと思ったが、合わせて一日分なら人間とほとんど変わりないということなのだろう。
飯を食っている時は自然に無口になるものだ。しかし、この無言の時間が昔から苦痛だった。あれやこれやと考えてしまう。
静けさは相手の思考をむやみに想像させる。しかも、なぜか悪いことばかりが浮かぶのだ。
「どんな仕事をしたらこんなところに住めるんだ?」
「んー。色々だよ。今はインターネットで何でもできるイイ時代になったよネ」
「色々……か」
ウィリアムが人間のように真面目にサラリーマンをしている姿は想像できない。スーツを着てビジネスバッグを持ち、満員電車に揺られる彼を想像して、美夜は肩を揺らして笑った。
そんな窮屈な生活をするような奴がこんな空の上で暮らしていたら、世も末だ。
「ナニ? ミヤは僕に興味アリ?」
「いや、ない。まったく」
「そんなキッパリ拒否するなんてひどいな~。ミヤは短気な上に冷たいヨ」
「そんなことより、今後の予定は? バケモノを探すんだろ? 歌舞伎町に現れる十二単のバケモノだっけ?」
牛丼の共に出されたのは珈琲だった。「牛丼には味噌汁だろ」と悪態を吐きながらも美夜は珈琲を口に含んだ。
甘みに真っ向から対抗した苦みと酸味が口の中で戦いを繰り広げる。
勝利した苦みが舌の上で踊った。何ともあっけない戦いだ。
「そうそう。最近、噂になってるんだ。夜になると十二単のオンナが現れるって。でも、なかなか会えないんだよネ」
「ただのコスプレじゃないのか?」
「コスプレならSNSに一枚くらい写真が上がるヨ」
「そうだな」
美夜はポケットからスマートフォンを取り出した。真っ黒の画面には何も映らない。昨日の朝から充電していないから電池が切れたのだろう。
小さくため息を吐き、テーブルの上に放り投げる。
「ワオ! ミヤはスマホまでボロボロだね!」
「六年前のだからな」
「へぇ! スマホって六年も使えるんだネ」
ウィリアムは感動したようにスマートフォンを色々な角度から眺めた。角が掛け、そこからひびが入ったせいで画面のガラスが割れてボロボロだ。
「ミヤ! 画面が蜘蛛の巣ダヨ!」
「ああ、特別仕様だからな」
「ワオ! お洒落だネ。僕も欲しいな~」
「ただ壊れているだけだし、見づらいからやめとけ」
洗礼された雰囲気を持っているウィリアムが、ひび割れたスマートフォンを片手に持つのは滑稽だ。
ウィリアムは珈琲を飲み干すと、満面の笑みを浮かべた。
「今日の予定を決めたヨ! 買い物をしよう!」
「いってらっしゃい」
妖怪探しをしないのであれば、美夜の出番ではないのだろう。妖怪は夜を好む。探すにしても夜からだとすれば、昼間は用なしである。
美夜は二度寝を決意した。
「何言ってるの。ミヤの物を買うんだからミヤも一緒サ!」
「……は?」
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