第10話 兄と妹
不知宰吾には、中学三年生の妹がいる。
「美蕾、やっぱり修学旅行は行ってみないか……?」
宰吾のその言葉で始まった会話は、遡ること二週間前、二人が暮らすマンションのリビングでのことだった。
「……嫌だ。行きたくない」
夕飯の食器を洗いながら話す宰吾の話を、食卓でノートに向かう美蕾は突っぱねた。ノートの横には、小学六年生の算数の教科書。
「修学旅行なら、授業の進度も関係ないし、見たことないものばかりできっと楽しいぞ」
美蕾は他の同級生に比べて、勉強が著しく遅れている。皆、高校受験に向けて勉強している中、美蕾だけ小学校の教科書を使って自宅学習をしている。所謂、不登校だ。
理由は、彼女の患う病気にある。
「なあ、もう半年は普通に眠れてるし、大丈夫だって」
反復性過眠症。別名、眠れる森の美女症候群。一日に二十時間近く眠ってしまう期間が数日から数週間続くのが、定期的に起きる病。睡眠の他にも、起きてる間の意識が混濁していたり、過食症になったり、認知機能が低下したり、うつ症状が出たり……生活にとてつもない影響を及ぼす病気だ。
美蕾の眠れる森の美女症候群が発症したのは、両親が亡くなってから半年後。八歳の頃である。
「……この間だって四カ月大丈夫だったけど、その後また二週間も寝ちゃったもん」
二週間。中学生にとって、それは決して短くない時間だ。想像できるだろうか。眠りに就いて、目を覚ましたら十四日もカレンダーの数字が進んでいるということを。
「だからって……このまま家にずっといるんじゃ、置いていかれてばっかりだぞ。もし、病気が治ったとき、できるだけみんなに追いつきたいって言ってたじゃないか」
宰吾はできるだけ優しい口調で、話す。言葉を発するときは、洗い物の手を止めている。
「ホントに治るのかな……怖い……怖いよお兄ちゃん」
美蕾がキッチンへ入ってきて、宰吾の目を見上げた。
「大丈夫、きっと治るって。だから、あんまり悲観するな」
宰吾は美蕾の頭を撫でようとして、自分の手が泡まみれだったことに気づくと、苦笑いをした。つられて美蕾の顔もほころぶ。
決して心が壊れてしまっているわけではない。ただ、自信がないだけなんだろう、皆より何歩も遅れてしまっている自分に。
「お兄ちゃん最近忙しそうだよね、何か無理とか、してないよね」
宰吾の手が止まる。美蕾は、宰吾がヒーロー活動をしていることを知らない。言えない。美蕾に心配をかけたくない。だが……美蕾を守るためにも続けなければならない。
「……お兄ちゃんは、いなくならないでね」
弱々しい声が、宰吾の背中で聞こえた。体温が伝わる。この温もりは、失うわけにはいかない。
「いなくならないよ」
その言葉に安心したのか、美蕾はリビングの食卓に戻る。そして、『修学旅行のお知らせ』のプリントを取り出して、言った。
「……もし、修学旅行中に眠っちゃったら……どうなるんだろう。先生は傍にいてくれるのかな。またクラスの皆に笑われたりしないかな……」
不安な声色が、次第に涙声に変わる。
きっと、初めて眠れる森の美女症候群が発症した日のことを思い出しているのだろう。あれは、日差しの温かい冬だった。
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