第7話 魔伎のうわさ
人の生き死には、いまだ定義のさだまらない問題である。
一応医学的には、大脳、小脳、脳幹が不可逆的に停止した状態を脳死と呼んで死と断定する。ただこの脳死すら、死とするか否か、議論は余地を残し、人の死という定義はむずかしい。
だが誤解を恐れずに言うなら、蘇州についた真備は死んでいた。
或いは、緩やかに人としての活動を止めている、と言い換えてもいい。彼は死罪に等しい島流しに遭い、最後の最後にうすく張り詰めていた自尊心の膜さえ、自らの洞察で破いてしまったのだ。生き甲斐さえなくなったばかりか、死に甲斐さえも失なった彼は廃人も同然だった。
そんな彼のもとに、ひょっこり大伴古麻呂が尋ねてきたのは、蘇州について半月が過ぎたころだった。
「
彼は口を開くなり、そう言った。どういう風の吹き回しか、真備の起居する四合院づくりの正房までやって来て、唐の大道芸を一緒に見ようと誘うのだ。
「蘇州についてからというもの、書見に淫して、いたずらに経を誦し、日に日にやつれておられる御様子。このままでは大役を終えず、病で倒れてしまう」
古麻呂がいうように、真備の渋紙色の顔は、いまや蝋のように白くなり、朽ちかけの柳のようだった。それでいて、元来、大唐を縦横無尽に駆けずり廻った丈夫な身体を持ち得ているから、その頃の余塵を残すように、目だけが炯々と光って、どこか不気味である。現代でいうなら、うつ病と診断されるだろう。
古麻呂は同じ副使として彼の気鬱をみかねて、声をかけたらしかった。
「それに戯場はあの寒山寺ですぞ」
「寒山、あの風狂僧の?」
真備のしろじろとした顔に、わずかに表情をよべる起伏が浮上した。
隋唐の時代、粛然たる振る舞いのなかに悟りを見出す仏僧の中にあって、仏戒をやぶる奇矯な振る舞いから悟りを探究する
その中でも寒山という総髪矮躯の禅僧が有名で、超俗無欲で洞窟に棲まい、自らを文殊菩薩の化身と称した。そんな彼が寺内に草庵を結んだことにあやかって、その禅寺は「寒山寺」と改めていた。
古麻呂は、石仏のような真備が、わずかながらも興味を示しているのを感得して、目を外に向けさせるべく、蘇州城内外の街並みについても熱く語って聞かせた。
「蘇州の街は、どこか日本の港町を思わせます。振り売りの声はたかく、魚醤の匂いもして、軒下で女が魚を
「それは?」
「この蘇州は大蓮池である。そう俺は感得いたしました」古麻呂は鼻息荒く説明する。「この蘇州は『鎮』と呼ばれる小村の集まりが無数にあるのです。それがひとつの蓮葉で、その葉と葉の隙間に水路が走っている。ときに葉のない湖面があって、そこにアメンボのような蟲蟲が泳いでいる。これが船だ。色艶が異なる葉があるように、各鎮も特色がある。ときに湖賊の縄張りなんかもあります」
「おそろしいですな」
「たしかに凶賊というのは鬼面人を驚かすような雰囲気がありますが、存外、そういうところのほうが面白い奇談も聞ける」
「奇談ですか?」
「何を隠そう、その摩訶不思議な話を聞きつけたからこそ、こうして真備殿をお呼び立てしたのです」
「なにやら随分、勿体つける」
「ですが、ご興味がわいた様子」
「いやはや、それは」
「きくによれば、真備殿は呪詛禁厭を一顧だにせず、人血で記された木簡を書机において、漢籍の栞としたとか」
「若気の至りでございます」
真備の口元に苦笑がこぼれた。
この吉備真備という男、神仏邪魅なんでもござれの上代のひとでありながら、現代にも通じるほどの思慮をそなえていた。とくに蠱毒厭魅および
真備曰く、
「生老病死は自然の摂理であって呪詛で変わることなどなく、もし呪詛が作用するなら、なぜ呪術師の子孫が若く死んだり、貧しい者がいるのか。わが身に得ないものが他人の願いを叶えることが出来ようか――」
と、いまにも通用しうる反駁を、一三〇〇年前に説いている。
「どうも私は、あるものをないと言ったり、ないものをあると言うような人間に対して、用なき詮索をしてしまう性分でして」
「それなら益々適任だ」
古麻呂はニヤリとする。
「なんでも今日、寒山寺で演じる縄伎の達人は、とある魔伎を披露するらしい」
「とある魔伎?」
「聞けばその男、もとは
「それはなんとも――」
胡散臭い、と喉まで出掛かった。
しかし、それを言うのは野暮というものだ。まして古麻呂は観覧の肴として酒家に
真備は
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