第4話 不知ぬが仏の散歩道②
「古い言い伝えも、あながち出鱈目とは言えなさそうだ。啓介くん、気付いたかね?」
「へ……何がです?」
「後ろを見てみたまえ」
九郎に言われて振り返ると、怪異に慣れていない啓介にも違和感が理解できる。先程まで人や車の往来が耐えなかった道が、静まり返っているのだ。
「そんな馬鹿な……!」
「以前ホテルに潜入した時にも、全く騒ぎにならなかったのを憶えているかね? 君や首吊り死体が、散々叫び散らかしたにも関わらずだ」
「言われてみれば……」
「あれはボク達が、所謂〈神隠し〉の状態になっていたからなのだよ。今いる場所も現実世界ではなく、〈現実世界にそっくりなもう一つの異世界〉だと考えたまえ」
「つまり……私達はもう既に、神隠しに遭ってしまっているという事ですか⁉︎」
「そゆこと」
早くも膝から崩れ落ちそうな啓介であったが、間一髪で持ち堪えた。
「九郎さん。一刻も早く終わらせて帰りましょう!」
「その意気だよ。幸い人目を気にする必要も無くなったし、遠慮無くお邪魔しようじゃないかね」
九郎は長い脚を柔らかく上げて軽く奥の塀を乗り越え、竹林へと入っていく。啓介も全身でやっと塀を越えると、九郎は立ち止まって奥を見ていた。
「見たまえ啓介くん。森の主人がボク達を招いている」
彼女の視線の先では竹の茂みが真っ二つに割れ、歩けそうな道が開いている。驚くべきはそれが、到底二十メートルどころではない先までずっと続いている事だ。
「さっきまでは道なんて無かったのに……!」
「神の世界には物理法則なんて存在しない。主人が『そうあれかし』と望めば、全てが思うがままさ。大切なのは、疑わない事だよ」
竹藪の中を歩くと、入り口でも感じた香りが一層強くなってくる。啓介はそれが、枝豆に似ていると感じた。周囲を囲う竹の壁はその奥に獣の気配を錯覚させ、人間の根源的な恐怖を煽る。臆病な啓介は、度々背後を振り返りながら進んでいく。
「この光景も撮りますか……?」
「勿論。ただ奥まで撮ると別の場所だと思われそうだから、竹だけを撮って見せようか」
啓介は指示通りに写真を撮り、チャネラー達に提供する。
七師「中に入りました。歩き辛い!」
七師「うおおおお!」
七師「勇者過ぎる」
七師「外には出れそう?」
七師「引き返せば直ぐに出られそうですけどね。まだ後ろに道路も見えるし」
大師「無理はしないでほしいけど、奥が気になる」
七師「底無し沼とか毒ガスが出てるって噂もあるから、本当に気を付けて」
七師「今のところ、変な臭いとかはしないです。強いて言うなら竹の香りが凄い」
七師「竹以外のものは何か無いの? 人が昔に入った痕跡とか」
七師「探してみます」
啓介はゴミでも落ちていないかと辺りの茂みを眺めてみたが、どうもそういった痕跡は無い。
「九郎さん、そういえば一つ気になる事が」
「何だね?」
「私と九郎さんは、異空間に入れる力が有るんですよね?」
「そうだね。大体その認識で構わないよ」
「だとしたら、かつてこの竹藪で神隠しに遭った人達も同じ力を持っていたんでしょうか?」
「可能性が無いとは言えないね。ただ、神の世界に迷い込んでしまうのは力を持つ人間だけとは限らないのだよ」
「そうなんですか……?」
「ボクと啓介は、招待無しに自分から神の世界へ足を踏み入れられるだけだ。主人が望むなら、人を迷い込ませるなんて実に容易い事だろうね」
九郎はふと立ち止まると、頭上を指で示す。その竹は、よく見ると僅かな違和感が有った。背の高い所に、何かが引っ掛かっているのだ。
「……まさか」
目を凝らすと、それは片側だけのスニーカーに見えた。
「おそらくは、この場所で亡くなった先客のものだ」
「亡くなったって……あんな場所でどうやって死ぬんです⁉︎」
「死んだのは地上……もしくは地下だよ、啓介くん。当時タケノコだったものが成長して、靴だけをあの位置まで運んだのさ」
「……さっき、七師さんが『底無し沼とか毒ガスに気を付けろ』って言ってました」
「念の為、この道から外には出ない方がいい。ああなりたくなければね」
その時。啓介は茂みの中から、微かな唸り声を聞く。そして、湿った音を。
「九郎さん、何かいます」
「ほう。ボクには聞こえなかったよ」
「さっきからずっと、何かに見られているような気がするんですよ……!」
その予感は、直ぐに現実へと変わる。一帯の地面で、何かがぐちょぐちょと蠢き始めたのだ。
「……成程。これが底無し沼の正体かね」
二人を取り囲んだのは、人間と同等の背丈を持つ、幾つもの泥の塊だった。それには顔など存在しないが、明確に此方へ意識を向けているのだと感じ取れる。
「かっ、囲まれてる! どうするんですか九郎さぁん!」
「良い声で鳴くね、啓介くん。今の君、とっても愛おしいよ」
「言ってる場合ですか!」
九郎は腕を交差させると、黒い羽を散らして二振りの刀を出現させる。
「むらくも。くさなぎ。——出番だよ」
九郎が刀を帯びると同時に、その脅威を感じ取ったのか、泥人形達はくぐもった叫びを上げ始める。それらは九郎目掛けて襲い掛かるも、真っ先に飛び掛かった一体を彼女は十文字の軌跡で切り裂いた。
「遅い、そんなのじゃボクは感じないよ」
舞うように回転しながら全方位を捕捉し、九郎は近付いてきた敵から順に葬り去っていく。だがその脅威的な動体視力と距離感覚が故に、彼女には一点の死角が生じた。
「うわあああああっ!」
少し離れた位置で、啓介が泥人形の一体に襲われていたのだ。泥人形は押し倒した啓介を竹藪へと運び、地面の中に沈めようとする。
「ふむ。歴代の犠牲者は、そうやって殺されたのだね。考え無しに竹藪へ入っていったのではなかった訳だ」
「ひいいいい! 助けてえええ!!」
「おや。そういえば、感心している場合ではなかったか」
九郎は勢いを付けて跳躍すると、頭を下にして地面へと飛び込んでいく。そのまま啓介の真上で十文字を振り抜き、身体の発条で宙返りすると、竹を蹴って道の上へと戻った。
泥人形は崩れ落ちたが、啓介の身体はゆっくりと底無し沼に沈んでいく。
「九郎さぁん! 助けてくださいよぉ!」
必死に助けを求める啓介だが、九郎は彼のそばを素通りした。
「助かりたければ、動かない事だ。君の余計な動きが、自分で沼を奥へと掻き分けているのだよ」
九郎は残りの泥人形に飛び掛かり、積極的に殲滅を開始する。だがその光景が見えない啓介の胸中では、自分が見捨てられたのではないかという恐怖ばかりが膨らんでいく。
「こんな仕事受けなければよかった……! 大人しく家に引き篭もっていれば、死にはしなかったのに……!」
耳の裏へと泥が触れ、啓介はいよいよ己の無様な死に方に気が狂いそうになる。
「自分なんか信じるからだ……! あれだけ自分は愚かで無能だと、周囲が教えてくれていたじゃないか。どうして何かが変わるかもだなんて勘違いしたんだ……!」
啓介という人間の悲しき性。自分をこんな場所へ連れてきた挙句に見捨てた九郎に対する怒りさえも、ほんの数瞬で自分に対する不信感へと矛先が変わる、病的な自責思考。
これは啓介という人間が〈自分の境遇に無理やり納得する〉為に生み出された、自滅的な防衛反応であった。
絶望する啓介の視界に、上からずいっと九郎が覆い被さってくる。
「そんなのは、ボクの欲しい君じゃない」
九郎は白けて少し眉を顰めた表情で、失望を露わにしている。啓介は返す言葉も無く、ただ口を開いて呆然と続きを待つ。
「言った筈だ。ボクが欲しいのは、真実の恐怖だと。死に際の感情を偽るだなんて、命に対する冒涜だよ」
「なっ、何を言ってるのか分から——」
「理解する必要なんて無い。君はただ、信じればいい。〈正しさ〉とはそういうものだよ。盲目的で、不条理で、凡ゆる合理に優先する。自分を信じられないのなら、ボクを信仰したまえ。君の命の意味を、ボクが与えてあげるから」
九郎はそう言って、不安定な体勢で上半身を乗り出す。笑みを浮かべた彼女の顔が、啓介に肉薄して瞳を覗き込んだ。
「ほら、ボクを抱きたまえ。腕はまだ動くだろう?」
「で、でも……」
九郎にしがみ付けば、彼女を沼の中へと引き摺り込む形になる。
「信じて」
ただ一言。九郎の言葉には説明も理屈も存在しない。これ以上の問答は無駄だと悟った啓介は、自分が助かる為に腕を伸ばす。そして渾身の力で、彼女の身体に体重を預けた。
その瞬間に、啓介は異変に気付く。九郎の身体はまるで鉄骨のように、彼がぶら下がっても微動だにしなかったのだ。そのまま九郎が身体を起こすと、いとも容易く啓介は沼の中から引き摺り出される。
二人は泥まみれになって、安全な道へと戻ってきた。
「すっかり汚れてしまったねぇ。もっとラフな格好で来ればよかったよ」
「すみません……私がドジなせいで」
「構わないよ。ボクはスーパーマンが欲しくて君を雇った訳ではないのだからね。寧ろ啓介くんには、囚われのお姫様でいてもらわなければ」
すると九郎は突然服を脱ぎ始める。汚れたコートだけかと思いきや、まだ無事なセーターやジーンズまでも、啓介の前で躊躇い無く脱いで下着姿になった。青い血管と胸元に黒子の浮く巨大な乳房がレース付きの黒いブラジャーをはち切れさせんばかりに実り、腕から背中にかけて広がる鴉羽の刺青も、彼女の白い肌に映えて美しい。程よく割れた腹筋の臍には銀のピアスが付いており、その肉体美に啓介は一瞬見惚れてしまう。
「……な、何してるんですか九郎さん!」
「ほら、啓介くんも脱ぎたまえ。そんな格好で車に乗られたら、シートが駄目になってしまうよ」
それはつまり、九郎は啓介に自分の服を着ろと言っているのだ。
「だ、駄目ですよ! 私なら歩いて帰りますから!」
「何が駄目なのかね? サイズなら問題無い筈だよ。ボクは君より身体も大きいだろう」
「そうじゃなくて! 九郎さんが下着姿になっちゃうじゃありませんか!」
「ボクなら大丈夫だとも。嘘を吐けばいいからね」
そう言って、九郎はべろんと長い舌を出す。八重歯の尖る白い歯から覗く淫靡な肉は銀色のピアスで飾られ、そこを起点に舌の先がべろんと二つに分かれた。
「ボクは服を着ている」
一言の嘘が黒い羽根となって二枚舌の間から舞い散り、九郎の全身を包んでいく。そして、ものの数秒で衣服を復元したのである。
「んなっ……! どうなってるんですかそれ……!」
「【
九郎は啓介の手首を掴むと、引き寄せて自分の胸を揉ませる。柔らかなセーター生地に包まれた乳房の手触りが、啓介の手に伝わってきた。
「うわわわっ! ま、また!」
「くふふ。君は揶揄い甲斐があって面白いね。さ、服を着たまえ。調査を続行するよ」
九郎の服に着替えた啓介は泥だらけのスーツを一旦その場に残し、奥へと進む彼女の後を追う。
「化け物を退治する時の刀も、さっきの力で作ってるって事ですか……?」
「いかにも。ま、君が想像している程、使い勝手の良い力でもないのだけどね」
そこから先は、そう長くはなかった。道が開けた場所で、九郎は立ち止まる。
そこは窪地になっており、鬱蒼とした竹林の中で不自然に草木が排されていた。日光が差し込んで明るくなった空間の中心に、二人の視線は吸い込まれる。
古びて苔に侵食された、小さな社だ。その前に甲冑の鎧武者が座り、訪問者を見つめていた。彼は九郎達に小さく頭を下げると、そのまま薄れて姿を消す。
気付けば二人は鳥居を潜って直ぐの場所に戻っており、目の前の社も新しいものへと代わっていた。
「どうやら、お役御免という事らしいね。強制的に外へ追い出されてしまった」
「何か目的が有って、私達を中へ招いたんでしょうか」
「境内の泥人形を始末させたかったのだろうね。不知ず森神社で行方不明者を生み出していたのは、あの泥人形だ。中に人間の骨が入っていたのは気付いたかね?」
九郎の指摘に、啓介は背中へぞわっと悪寒が奔る。
「骨⁉︎ 確かに人の手で押さえ込まれているような感覚はありましたけど……」
「歴代の犠牲者が泥人形になって、新たな犠牲者を襲っていたのだよ」
「私もあと少しでそうなっていたと思うと、ぞっとしますね……」
「ま、当分は神隠しも起こらないだろう。無闇に神の不興を買うような真似さえしなければね」
「触らぬ神に祟り無し……ってやつですね」
後日、奥の竹藪に引っ掛かった持ち主不明のスーツが見つかって大騒ぎになるのは、また別のお話である。
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