眠宿
堀川士朗
第一話
「眠宿」(第一話)
堀川士朗
長編連載小説『ジョリーぺッターと双子のヒロシ』の原稿が上がり、入稿して久しぶりに外出しようという気分になった私は旅に出た。
東京にひとり、妻を残して。
寝台特急コキュートス号に乗って。
目指す地はネルネ共和国温泉郷タマノイ。
一泊二日の車中泊。
良い列車だ。
個室タイプの座席を取った。
部屋番号はキオミの201番。
落ち着いた良い部屋だ。
布団がこの上なくフカフカだ。
私は子供のように手触りを確かめた。
温泉郷タマノイ中央駅に着いた。
様々な宿が駅の近くから数多く並んでいる。
ひと気のないひなびた温泉宿が良いなあ。
山の方へと歩く。
当てどもなく飛び込みで宿に泊まろうと思った。
その宿の玄関の白いのれんには紺色の文字で『ムシ屋』と刺繍が施されていた。
そうか。ここはムシ屋か。
そうなのか。
民宿だ。
ここにしよう。
とりあえずこの宿には三泊泊まろうと思った。気に入ればもう少し伸ばしても良い。
一泊二食付きで二万二千リュウト。
前払いで三泊分を支払う。
宿の旦那さんは中年の背の高い男だった。
「いらっしゃいませ。ここはね、眠ると不思議な夢を見られる民宿なんですよ」
「そうですか。楽しみだな」
部屋番号はキオミの201番。
落ち着いた良い部屋だ。
布団がこの上なくフカフカだ。
私は子供のように手触りを確かめた。
露天風呂はないが、檜のちょうど良い内風呂で塩梅が良い。
源泉掛け流しの湯だ。
後で入ろう。
ロビーに行く。
スマートボールが置かれている。多分五十年ぐらい前の台だ。
台は錆び付いて、色がくすんでいる。
これも後でやろう。
夜。部屋の電気を消さずに内風呂に入って、さて部屋に戻ったら窓に色々な形と種類の虫がびっしり張り付いていた。
近くに森が広がっているからかもしれない。
網戸があって良かった。入られたらたまったもんじゃない。
ムシ屋の土産物売り場で『ザ・ネルネ』と書かれたホワイトチョコレートを買って、食事が来るまでの繋ぎとして部屋で食べる。
外の草っぱらから聴こえてくる虫の音が怖いくらいだ。
晩飯の時間になった。
部屋への食事の配膳は旦那さんの娘さんがしてくれた。
私は心ばかりのチップを娘さんに包んだ。剥き出しの三千リュウト札。
娘さんは
「お困りになられます」
と変な言葉で言ったが、二三の応酬の末に有り難く頂戴した。
娘さんの顔立ちは八十年代アイドルの『タ・イラーヒナター』ちゃんみたいな眉毛の太い男顔で素朴でかわいい。
背も高かった。旦那さんに似たのだろう。
さて食事だ!
お膳にはライ麦を使ってる感じの少し硬いパンと、ホンビノス貝のお造り、あと『ザンバ汁』と呼ばれているミネストローネみたいなスープがあった。
うん。どれも美味い!
食べ終わって、しばらくしてお膳を下げに来た娘さんに美味である事を告げると、娘さんは喜んでいた。
笑顔がかわいい。
ネルネ共和国で流れているテレビ番組を観たが、情報統制とコンプライアンスでガチガチの日本の番組に比べて、どれもとても自由で面白い番組だった事に驚いた。
これがテレビなんだよなあ。
懐かしくなった。
日本は何を得て、何を失ったのだろうとか大層な事は考えないようにしよう。これは旅だ。
夜よ夜。
瓶で頼んだ赤ジンジャービールの酔いが回って私は眠くなってしまった。
赤ちゃんは寝る前にグズって泣くが、あれは脳が眠りにつく前に出す一種の不穏な状態に対し、そのストレスで泣くのだそうだ。
夢の世界に、確かに『持って行かれる』からな、あれは。
私は眠りについた。
“オロロ…………!”
朝、外を歩くと樹に止まっている虫が寝ていた。虫も眠るのか、知らなかった。
この宿は、旦那さん、奥さん、その娘さんの三人で切り盛りしているそうだ。
奥さんの姿はなかった。見ていない。
娘さんはまだ若い。若くて綺麗だ。
ムシ屋の庭に水をやる娘さんの姿があった。
こんにちはと声をかけようかと思ったら向こうから急にこちらに近づいてきて私は強く抱きしめられた。
「ねえ。東京に連れていって」
何か。何か。娘さんの顔に死相が浮いている。
あれこれ夢だっけ。
何だっけ。
現実だっけ。
現実って何だったっけ。
夢でも構うものか。
顔も分からなくなってしまった妻の事など忘れて、この子と恋に堕ち、溺れるのもこれまた一興!
東京でひとり待つ妻。
いやさ、待つ身のつらさなど知るものか。
私は「うん良いよ」と言おうとしたら娘さんは私から遠く離れ、
「もーう真に受けちゃって、冗談ですよーお客さーん」
と言って声に出して笑った。
やべえ。完全に小悪魔だ。
だが嫌いではない。
続く
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