さよならラミィ

斑目蓮司

第1話日常1

「あの子ってなんかきもいよね」

 

 この五年二組の教室の隅から聞こえてくる声に私はどきりとした。休み時間の喧騒の中にあっても、それは粒立って聞こえた。私が「きもい」という言葉に鋭敏になっていたからかもしれない。


「わかる、なんか誰にでも媚びている感じがする」

 

 別の声が同調する。自分のことを噂しているのではないかという懸念が私の頭をかすめる。おおかたの人間に当てはまるような曖昧な内容のものだ。しかしだからこそ私のことでないという保証もない。騒々しい叫び声や甲高い笑い声の中、私は耳をそばだてた。自分は関係ないという確証を得て、せかすような鼓動を鎮めたかった。


「あの子、そういえば……」


「えー、やばっ」

 

 どれほど耳を澄ましても、とぎれとぎれにしか聞こえない。もどかしさがつのる。

「あの子、前のクラスでもね……」

 

 やっと聞き取れたその言葉に私の心臓は、飛び上がった。まさか去年の私を知っているのか。ありえないことではない。たった一二〇人程度しかいないこの学年で噂が回るのは一瞬だ。もしかしたらクラス全員がもう知っているのかもしれない。みんな私のことを陰で馬鹿にしているのかもしれない。不安が渦巻いて、頭の中は絵を描いた後の筆洗いバケツのようにぐちゃぐちゃだった。


 あの声の主たちは悪口が佳境に入ったらしく、くすくすと意地悪げに笑っている。私は自らの呼吸音が不規則になっていることに気づいた。それと同時に息苦しさが押し寄せてくる。吸っても吸っても空気が体内に入ってこない。まずい、またあの感覚だ。たまらず席を立ち、教室をあとにした。

 

 そして足早に廊下をぬけて、逃げ込んだのは人がいない別棟のトイレの中だった。タイル張りの壁で周囲から隔絶されたそこはひんやりとしている。深く息を吸い込むと甘ったるい芳香剤のにおいが肺いっぱいに広がった。ここにいるときは誰にも見られない。その事実はなにより私を落ち着かせた。

 

 冷静さを取り戻すと、いささか自意識過剰だったことに気づく。あの会話の中で私のことだと断定できる根拠はひとつもなく、勝手にそう思い込んだのだ。だいたい話したこともない子が私のことなど気に掛けるだろうか。それに思い至ったとき、自分のイタさにいたたまれなくなった。みんなが自分に注目しているなんて身の程知らずの思い上がりだ。

 

 しかしわかっていても被害妄想が一度騒ぎ出せばそれに支配されてしまう。私は過敏な自分自身を持て余していた。以前はこんなバカみたいなことで悩んでいなかった。全部あの出来事のせいだ。私はなんど思い返しても生々しい陰鬱さを覚える去年の夏を心の底から恨んでいた。

 

 それはもう少しで夏休みという時期だった。私はそのころふたりの女の子と一緒に過ごすことが多かった。澪と柚葉。彼女らとは三年生の時に知り合った。たんに席が近いというだけだったが、それなりに信用していた。

 

 なにより彼女らと一緒に居れば、一人にならずに済んだ。流行りの服やお化粧に興味を持つようになっていった二人と次第に話が合わなくなっていったことにも気づかないふりをした。私はひとりになるのが怖かった。


 そしてそれは私にとっては突然だった。彼女らの間ではすでにそのときなんらかの話が交わされていたのかもしれない。しかし私は全く気づいていなかった。

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