伯爵令嬢は満月の夜に目を覚ます
北里のえ
第1話
そのとき、アリシア・スウィフトは死を覚悟した。
彼女は由緒正しいれっきとした伯爵令嬢である。
しかし、幼い頃に母を亡くし、父が後に再婚した継母のグレースは意地悪で、その連れ子である継姉イザベラは更に輪をかけて性格が悪かった。
スウィフト伯爵家は古い名家であるが、父はギャレット侯爵家という高位貴族からの圧力に負けた。
グレースはギャレット侯爵家の令嬢だったが、離婚して婚家から追い出され子連れで侯爵家に戻ってきた。そして、侯爵家でも彼女の処遇には頭を悩ませていたのである。
父はそのグレース・ギャレットと再婚させられたのだ。
もし、アリシアが地球という惑星で生まれていたら『シンデレラ』という言葉を思い浮かべていたであろう。
彼女は継母と継姉に虐待され、更に唯一の命綱だった父親とも死に別れてしまった。
アリシアは完全に継母グレースと継姉イザベラの支配下に置かれた。
朝から晩までメイドどころか下働きとしてこき使われる。
ボロボロの衣服で食べ物も碌に与えられず、時には地面に皿を置き、這いつくばって食べるよう命じられることさえあった。
ちょっとしたことで叱責を受け、鞭で打たれる。
悲惨な生活を送っていたアリシアだったが、最後の希望は幼い頃に決められた婚約者の存在だった。
大人になったら彼と結婚して、この生活から逃れられる。
婚約者は亡くなった母の親戚であるサイクス侯爵家の次男ジョシュアであった。
ジョシュアは強面で無愛想で何を考えているのか分からないと人は言う。若くして厳しい近衛騎士団の副団長になったジョシュアは、剣の鍛錬にしか興味がない朴念仁で怖いという令嬢も多い。
しかし、幼馴染であるアリシアは武骨な顔の下にある彼の不器用な優しさを理解して密かに心を寄せていた。
アリシアは将来ジョシュアに恥をかかせないように勉強も魔法も護身術も毎日欠かさず努力を続けていた。
また、サイクス侯爵家からの財政支援はスウィフト伯爵家にとっては有難いものだった。
父が再婚して以来、スウィフト伯爵家の財産は贅沢を好む継母と継姉に食いつぶされてしまっている。
また、二人はアリシアが母親から遺された大切な宝石やドレスも全て奪っていった。
しかし、継母グレースと継姉イザベラは上辺を取り繕うのが上手い。
特にジョシュアと会う時は体裁を整えるためにイザベラのお古のドレスを着せられ、余計なことを喋ったら殺すと脅されて、カチコチに緊張しながら彼の前に現れるのだ。
そんな状況なのでアリシアは常に緊張していて、ジョシュアを楽しませるような会話ができるはずもない。
元々大人しく内気な性質なので、自分と一緒にいてもジョシュアにはつまらないのではないか、という不安は常につきまとっていた。
**
ある日、意地悪な継姉イザベラが嬉しそうにニヤニヤしながら近づいてきた。
「あのね、ジョシュア様があんたじゃなくて、私と結婚したいんだって!あんたとの婚約を破棄したいっていう連絡が来たわ!」
(まさか・・!?あの誠実な人が・・・!?)
とても信じられなかったが、本人に直接問い合わせた手紙の返信には確かに彼の筆跡で婚約破棄を受け入れたと書いてある。
地面に飲み込まれるような絶望の中でアリシアは思った。
(もうここから出て行こう・・・)
幼馴染のジョシュアにすら見捨てられてしまった自分の身の上を考えると足がガクガクと震えて止まらない。
その日の晩、アリシアは辛い気持ちを思う存分日記にしたため、翌日には一人で屋敷を出て行こうと心に決めてベッドに入った。
*****
真夜中、アリシアは異変を感じて目を覚ました。
今夜は満月で外でも十分に明るい。
(あれ・・・?外・・・?私、外にいるの?ここはどこ?私はなにを・・・?)
頭に靄がかかったようで脳が働かない。
誰か・・・知らない男が自分を担いで走っているようだ。その人間が走るのに合わせてガクガクと体が揺れる。
体の自由が全く利かない。
アリシアは眠っている最中に何者かに強い薬を嗅がされ、そのまま肩に担いで攫われたのだ。
(攫われた・・・攫われている最中ってこと?・・・どこに行くの?)
朦朧とした意識の中、周囲を見回すと伯爵邸の裏手にある森の中を走っているようだ。
アリシアは男が走る方向にもう使われていない古井戸があることを思い出した。水も枯れてしまい、誰も使っていない井戸だ。
存在すら忘れ去られている古井戸はまるで自分みたいだとアリシアは自嘲した。
(私をどこかに攫って誰が得をする?身代金を払ってくれる家族なんていないのに・・・・ああ、そうか。私が邪魔だから殺そうとしているのかな?・・・自殺に見せかけたいのかしら?ちょうど私は婚約破棄されて絶望しているところだし・・・)
機能しない頭に様々な可能性が浮かんだが、どう考えても良い方向に進みそうにない。
相変わらず体は動かない。
(私が死んだら・・・ミリーは泣くかもしれないな・・・ごめんね)
アリシアは継母や継姉だけでなく多くの使用人からも辛く当たられていたが、数は少ないけれど優しくしてくれる人もいた。
「奥様と旦那様が生きていらしたら・・・」
と泣いてくれたのは侍女頭のミリーだ。
新しく継母グレースに雇用された侍女たちは、一緒になってアリシアを小バカにしていたが、両親が生きていた頃から勤めている古参の使用人はアリシアの味方であった。
尤も、大半の古参の使用人はグレースにクビにされてしまったが・・・。
あからさまにアリシアを庇うと解雇されて、それこそ彼女を助けることが出来なくなってしまう。ミリーたちは継母たちの機嫌を損ねないように細心の注意を払っていた。
彼らが食べ物をコッソリと持って来てくれたり仕事を助けてくれたりした。アリシアは感謝の気持ちを忘れたことはない。しかし、人の情けに縋って生き延びているような人生は辛い。
ただ、だからと言って死のうとまでは考えていなかった。
(私の死体の片づけなんて誰にもさせたくないし・・・)
ぼんやり考えていると予想通り朽ち果てたような古い井戸に辿り着いた。
(ここね・・・私が死ねば邪魔者はいなくなる。お父さまの遺言で爵位を継ぐのは私、もしくは私の伴侶だって明記されているから。私が死ねばイザベラとジョシュア様が結婚して、スウィフト伯爵家を継ぐことになるのかな。ジョシュア様はこのことを知っているんだろうか?)
不意に武骨な元婚約者の顔が脳裏をよぎり、思いがけず涙がポロポロと溢れ出す。
泣いているアリシアに気づいたのか、担いでいた男は彼女を古井戸の縁に載せてチッと舌打ちした。
月影で顔はハッキリと見えないが、アリシアの知らない男だ。
井戸の中を覗き込むと、思いがけなく綺麗な水が目に入った。
水の表面には満月がくっきりと映っている。
(えっ・・・・とっくの昔に水は枯れたはずだけど・・・)
その時、突然幼い頃に母親が語ってくれた御伽噺を思い出した。
『満月の夜にこの井戸に飛び込むと、別な世界に行くことができるのよ』
**
昔々あるところに・・・
それはそれは美しい王子が住んでいた。王子は生涯の伴侶に自分よりも美しい女性を望んだが、そんな女性は見つからない。
満月の綺麗な夜、王子がたまたま井戸の底を覗くとそこには彼よりも美しい娘の顔が映っていた。
その娘に一目惚れした王子は魔法の力を使って彼女を引き上げようとした。しかし、月が雲に隠れて娘は姿を消してしまった。
その日以来、毎晩井戸を覗きこんでも娘の顔は現れない。
しかし、次の満月の夜、再び井戸の中を覗くと同じ娘の顔が笑っていた。
王子は夢中になって井戸の中に飛び込んだ。
お付きの者が慌てて井戸の底を探したが王子は見つからなかった。
どこかに消えてしまった王子は月の世界に行って、愛する娘と幸せに暮らしたのだろうという伝説だ。
**
(まさか、そんな御伽噺を信じる年でもないし・・)
アリシアは自嘲しつつ、もう一度井戸の中を覗き込んだ。相変わらず水面には美しい満月が映っている。
男は面倒くさそうにもう一度チッと舌打ちすると、アリシアを押し出して井戸の中に落とした。
体が宙に浮いた瞬間、指先が何かに触れて思わずそれを掴んだが、体が落ちていくのを止めることは出来なかった。
ドボンッという水音を確認した後、男は足早に逃げ出した。
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