第7話 過去の約束
「俺が云わなければいけないのか、それは」
「え?」
「俺が悪者になって、こいつを傷つければいいのか」
「それは……」
弓江はさっと気色ばんだ。
「伝えたと思うが、俺は助けたことなど今まで忘れていた。昔、あんたになじられたことや三浦家の当主がしつこく家に来て、こいつを男にすると約束すると云った話も、うんざりしながら聞いていた。俺にとって、こいつがどんな生き方をしようが関係ない。あんたらの考えを俺に押し付けるのは迷惑だから、もうそっとしておいてくれ」
忠弥の云い分はもっともで、弓江は何も云い返せなかった。
彼女は、蒼白い顔でうつむくと、申し訳ありませんでした、と小さく云った。
失礼いたします、と云うと、転がるようにその場を去っていった。
枝折り戸の外で待っていた女中が大慌てで追いかけていく。
取り残された半之丞は、姉の無礼に気を失いそうになっていた。
どうしたらいいのだろう。
忠弥になんて云えばいいのか、混乱して思考がまとまらない。
すると、忠弥が息を吐いて半之丞を見た。
「お前はどうしたいのだ」
「え?」
「なぜ、俺の後を追いまわす」
まっすぐな瞳には真摯な色が見えた。半之丞は今が告げるときだと思った。
「わ、わたしは! あなたにお礼を申し上げたかったのです。けれど、家の者には迷惑をかけるから、お近くに寄ってはならぬ、と云われました。わたしはかどわかし(誘拐)にあったことはあまり覚えておりません。誰かの手が細かく震えていたのは覚えています。冷たい手でどこへ向かうのか分らず不安でいっぱいでした。しかし、あなたが男を倒したとき、腕が力強かったことは覚えています。温かく大きな腕で抱きしめられた時、わたしは安堵いたしました。あの日以来、腕の強さばかり思い出すのです」
誰にも云えなかった。
半之丞にとって、大きな手とぬくもりが今の自分を支えていた。
家族の者にも話したことのない大切な記憶。
「成沢さん、わたしを助けてくださいまして、ありがとうございました。今のわたしがこうして生きていられるのもあなたのおかげです」
お辞儀をした後、ほっと力が抜ける。
目を上げると、忠弥が真剣な瞳で見ていた。
「忘れたのか…」
「え?」
「覚えていないなら、いい」
「あの、何のことですか?」
半之丞が不安に思って首を傾げると、
「兵馬っ」
と忠弥が怒鳴った。
「はいっ」
兵馬が元気よく返事をする。
忠弥はくるりと背中を向けた。
「素振りの練習をする。お前もするのなら、着替えて来い」
「は、はいっ」
言葉をかけられ、半之丞は返事をしていた。
側にいてもいいのだろうか。
忠弥ははっきりと物を云う人だと聞いていた。
迷惑ならそう云うだろう。
兵馬と忠弥は道場に上がって、素振りを始めた。
半之丞はその場に立ち止まったままうつむいた。泣くまいと唇を噛みしめる。
うれしくてたまらない気持ちになる。目尻に少しだけ涙が浮かんだ。
忠弥に嫌われていない。それだけでいい。
ぐいと目を擦り、着替えるため部屋に入った。
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