幕間 想いの行方

その後の二人

 ――いつの間にか閉じていた瞼をゆるりと持ち上げれば、間接照明のほのかな光に照らされた、みことの後ろ姿が視界に映った。


 掛け布団からはみ出た透き通りそうなほど白い肩は穏やかに上下し、その度に濡れ羽色の長い髪がさらさらと微かな音を奏でる。


 幸斗ゆきと微睡まどろみに沈む前は、確かにこちらを向いていたはずなのに、眠っている間に体勢が変わってしまったらしい。横を向いてベッドの上に寝そべる幸斗に背を向けられる形になると、まるでそっぽを向かれてしまったみたいで、面白くない。


 緩慢とした動作でみことの胴に両腕を回し、華奢な肩に顎を乗せたら、健やかな寝息を零していた唇から呻き声が漏れ出てきた。そして、腕の中の柔らかな肢体したいがもぞもぞと身じろぎしたかと思えば、みことがゆっくりと顔だけを動かして振り返った。


「……ゆき……くん?」


「おはようございます、みこと」


 起き抜けだから、思わず「おはようございます」と挨拶をしてしまったが、間接照明の光が届く範囲外は闇に包まれている幸斗の私室から察するに、まだ夜だろう。


 みことがまだもぞもぞと動くから、肩に乗せていた顎を離して抱き竦める腕の力を緩めると、くるりと身体を反転させて幸斗と向き合った。


「ごめん……うとうとしてたら、そのまま寝ちゃった……」


 そう言っている間にも、淡く色づいた花びらみたいな唇からは欠伸が漏れた。

 まだ眠そうに瞬きを繰り返すみことに、くすりと笑みを零しながら、乱れた濡れ羽色の前髪をそっと整えてあげる。


「俺も、少し寝てましたから、気にすることないですよ……少しは、疲れは取れましたか?」


 優しく囁きかけた直後に、意地悪くそう問いかければ、みことはむっと眉根を寄せ、掛け布団を引き上げて口元を隠す。


「ゆきくん……優しいのか、意地が悪いのか、よく分からない」


「さあ? どっちでしょう」


「やっぱり、ゆきくん……優しいのに、同じくらい意地悪……っ!」


 みことはぷくっと頬を膨らませると、勢いよく掛け布団に顔をうずめてしまった。

 それから、しばらく掛け布団を顔に押しつけたまま何事かをぶつぶつと呟いていたものの、やがてがばっと顔を上げた。


「寝たから疲れは取れたけど……今度は、その……お、お腹が空いた……」


 薄闇の中でもはっきりと分かるほど顔を真っ赤に染め上げたみことは、次は全身を掛け布団の中に隠してしまった。


 思いがけない言葉に、つい虚を突かれてしまったものの、意味を理解するのと同時にもう一度笑みが零れる。しかも、追い打ちをかけるかのごとく、みことから腹の虫の声が聞こえてきたものだから、忍び笑いまで漏れてしまう。


 確かに幸斗もみことも、夕食も摂らずに事に及んでしまったから、空腹を覚えても不思議ではない。その上、みことは全力疾走して出かけていったのだから、余計にエネルギーを消費してしまったのかもしれない。


「……お昼は、あんまり食べなかったんですか?」


「お昼にはハンバーガーをがっつり食べたし、その後パンケーキもぺろっと平らげちゃったのにぃ……! どうしてぇ……!」


 盛大に腹の音を立ててしまったことが余程恥ずかしかったのか、みことが掛け布団の中から自発的に出てくる気配は微塵もない。

 だが、みことの顔が見たい幸斗が容赦なく掛け布団を引き剥がせば、涙目で睨まれてしまった。


「みことは昔からよく食べる子でしたし、それなりの運動量になったはずですからね。お腹も空くというものです」


 幸斗としてはフォローしたつもりだったのだが、何故かますます恨みがましい目を向けられる。


「本当だよ……あれ、絶対初心者向けのメニューじゃなかったでしょ……」


「みこと……そんな、筋トレじゃないんですから……」


 妻の口から出てきたたとえが、スポーツジムで聞くような内容だったから、思わず苦笑いが浮かぶ。


 不服そうに唇を尖らせるみことから目を逸らし、ベッドサイドに置いておいた目覚まし時計に視線を転じれば、時刻は九時三十分を指し示していた。


 普段ならば、みことは夕食どころかとっくに入浴まで済ませている時間だから、腹の虫は拍車をかけて懸命に空腹を訴えかけてきたのだろう。実に、健康優良児な花嫁だ。


 上体を起こし、床に脱ぎ捨ててあった衣服を拾い上げ、さっと身に纏うと、みことへと向き直る。


「みこと、今夜は出前を取りましょうか」


「うん、そうしよ」


 ようやく夕食にありつけるからだろう。先程まで不満そうな表情を浮かべていたのに、あっという間に嬉しそうに笑み崩れた。


 ころころと表情が変わりゆく様があまりにも可愛らしくて、未だ横になったままのみことの頬を撫でる。


「その前に、シャワーを浴びようと思うのですが……みこと、先にします?」


「うーん……わたしは後でいいよ。もうちょっと、ごろごろしてる」


 幸斗としては最大限、みことの身体を気遣ったつもりなのだが、数時間前までは互いに未経験者だったから、先刻の指摘通り、思っていたよりも加減ができていなかったのかもしれない。それならば、確かにすぐには動きたくないだろう。


「じゃあ、お言葉に甘えて先にシャワー浴びてきますね。みことは、ゆっくり休んでてください」


「うん。ゆきくん、いってらっしゃい」


 みことはのろのろと上体を起こして掛け布団をかけ直すと、また横になってしまった。それから、枕にすりすりと頬擦りをしたかと思えば、幸せそうに目を閉じた。



 ***



「わぁ……! 今日は、うどんにしたの?」


 宣言通り、シャワーを浴びてから黒いスウェットに着替え、出前を頼んだ幸斗が注文した品を玄関で受け取ってダイニングへと戻ると、ちょうどシャワーを浴び終えたらしいみことが、ぱたぱたと小走りに駆け寄ってきた。


 帰宅したばかりの時に見せた恥じらいは一体何だったのか、シャワーを浴びるまで「シャワー浴びたら、どうせ着替えるんだから」という理由で何も身に着けていなかったみことが、ライムグリーンのパジャマに身を包んでいる姿に、内心安堵する。


 みことの裸は破壊力が異様に高いのだから、そんな不精ぶしょうな理由で面倒くさがらないで欲しかったのだ。


「はい。わかめうどんときつねうどんを頼んだんですが、みことはどっちが良いですか」


 どちらもみことの好物であり、幸斗の好物でもあるから、無難な選択をしたのだ。

 ダイニングテーブルの上にうどんが入ったどんぶりを置きながら問いを投げかければ、みことは少し悩む素振りを見せた後、にっこりと笑顔を作った。


「今日は、きつねうどんの気分かな」


「じゃあ、俺はわかめうどんをいただきます……勝手にあったかいうどんにしちゃいましたが、冷たいうどんの方が良かったですか?」


「えー、もう夜だし、あったかいうどんウェルカムだよ!」


 みことはいい笑顔でぐっと親指を立てると、さっそくダイニングチェアに腰を下ろした。

 幸斗も自分の席に着き、二人揃って手を合わせる。


「いただきます」


「いただきます」


 食前の挨拶を済ませてから割り箸を割り、麺を掬い上げて口に運ぶ。すると、出汁の効いた豊かな香りが鼻腔びくうをくすぐっていく。


 しばし、二人とも黙々と食事をしていたのだが、半分ほど食べ進めたところで、みことから口を開いた。


「そういえば、ゆきくん。そろそろ、吸血する頃じゃない? 今日はできれば遠慮したいんだけど……いつにする?」


「ああ、今夜はまだ大丈夫ですよ。でも、明日くらいにはいただきたいですね」


 今日はこれ以上、みことの身体に負担をかけたくないが、明日の夜くらいには血が欲しい。


「了解……そういえば、ゆきくん」


 了承の返事をしたかと思えば、みことは神妙な面持ちで割り箸を卓の上に置き、幸斗をじっと見つめてきた。


「どうしました?」


「前は、結構血を飲むことに苦手意識があったみたいだけど……最近は、そうでもなさそうに見えるのね。何か、心境の変化でもあったの?」


「ああ……」


 みことの言う通り、以前の幸斗は吸血行為が化け物じみていると思っていた上、母が流した血が口の中に入り込んできた幼少期の経験から、生命維持活動に必要不可欠とはいえ、血を飲むという行為に忌避感を覚えていた。


「みことの血があまりにもおいしいですからね……それに、せっかくみことが協力的に血を提供してくれてるのに、いちいち余計なことを考えるのが馬鹿らしくなってきましたし」


 そう、みことの血液は実に美味なのだ。幸斗の苦手意識や苦い記憶を払拭ふっしょくしてしまうほど、おいしい。

 だから、正直にそう答えたのだが、みことは微妙な顔をした。


「え……そんなに、おいしいの?」


「はい。桃のジュースとワインを割ったような味がして、おいしいですよ」


「それ、血糖値が異様に高いとか、糖尿病の前兆とかじゃないよね!?」


 幸斗の説明にぎょっと身を引いたみことに、首を緩く横に振る。


「別に、そういうのとは違いますよ。あくまで、吸血鬼の俺の味覚ではそう感じられるというだけの話です」


 他の吸血鬼だったならば、また違った味わいを覚えるのかもしれない。

 そこまで考えたところで、自分と同じく鬼と吸血鬼の混血である兄の顔が思い浮かび、慌てて頭の中から追い払う。あの兄にみことの血を譲る気は欠片もない。


「みことは桃娘とうじょうですから、きっとそういう味がするんでしょう」


「それなら、いいんだけど……」


「もし、みことが何かしらの病気を抱えてたとしたら、それこそ血の味で分かると思いますので、安心してください」


「……ゆきくんの舌、滅茶苦茶性能が良い、病気を発見する機械みたいだね?」


 再び何とも言えない表情を浮かべたみことは、食事を再開した。


 幸斗も麺が伸びないうちにと、残りのうどんを食し、空になった二人分の丼を流しでさっと洗う。それから、洗い流した丼を紙袋に入れ、玄関ドアの外側のドアノブに引っかけて戻ったら、麦茶が入った二人分のグラスを両手に持ったみことが、リビングへと移動するところだった。


「あ、ゆきくん。丼洗って運んでくれて、ありがとう。ゆきくんも、麦茶飲む?」


「どういたしまして。ええ、いただきます」


 みことから手渡されたグラスを受け取ると、二人揃ってリビングのソファに座り、麦茶で喉を潤す。

 ふと、みことに視線を移せば、グラスをダイニングテーブルの上に置き、いつの間にか持ってきたのか、スマートフォンを弄っていた。


「……そういえば、みこと」


「ん?」


 液晶画面に注がれていた黄金の眼差しが、こちらへと向けられる。


「新婚旅行は、どこに行きたいですか」


 まだ学生である幸斗に考慮し、夏季休暇中に式を挙げる予定だ。


「桃娘は国外に行けませんから、海外旅行は無理ですけど、可能な限り、みことの希望は叶えます」


 そう――異国にも人外が存在するため、他の人外に万が一にも桃娘を奪われたくないと考えた鬼たちが、桃娘が国外に出ることを禁じたのだ。


 正直、そんな掟は馬鹿らしいと思うのだが、先日の一件があるため、鬼頭一族にも鬼柳一族にも、二人の婚姻を糾弾する理由を少しでも与えたくはないのだ。だから今は、周囲を刺激せず、なるべく目立った行動は避けるべきだろう。


 その上で、みことにできるだけ楽しんで欲しいという思いからそう伝えると、少し考えるような間が置かれた。


「じゃあ……避暑がてら、箱根に行きたいな。家族みんなで行った時、すごく楽しかったし、あそこにはガラスの森美術館があるでしょ? あそこのヴェネツィアングラスは素敵だし、イタリアンもおいしいし……ゆきくんに、少しでもイタリアの空気を感じてもらえたらなって思って」


 イタリア出身の母を持つ幸斗に配慮し、そのルーツを少しでも感じられる場所を選んでくれたのか。


「あと……あとね、ゆきくんが嫌じゃなければ、北海道にも行って、ゆきくんが昔住んでたところに行きたい」


 そして、続けられた言葉に思わず息を呑む。

 みことは幸斗の様子を窺う様子を見せたものの、それでもさらに言い募る。


「ゆきくんにとって、辛い記憶を思い出させる場所だって分かってるよ。だから、無理強いするつもりはない。でも……だからこそ、ゆきくんの苦しい記憶を楽しい思い出で上書きしたいなって」


 みことは手に持っていたスマートフォンをグラスの隣に置くと、グラスを持つ幸斗の右手をそっと両手で包み込んだ。


「わたしにできることなんて、たかが知れてるけど……ゆきくんの過去を聞いてね、思ったの。辛くて苦しい記憶に負けないくらい、ゆきくんの心を幸せな思い出で満たしたいなぁって。そうやって、二人で少しずつ思い出を積み重ねていって、これから先、昔のことを振り返った時、真っ先にあったかい気持ちになれるようにしたいの」


 何も言えずにいる幸斗に、みことはふわりと微笑みかける。


「だから、まずは新婚旅行でさっそく実践してみようかと思いまして……わたしの我儘を叶えてくださいますか、旦那様?」


 ――……一緒にいてホッとする子、でしょうか。


 おどけるように問うみことを前に、かつて好きな女の子のタイプを訊かれた時の、自分の回答が耳の奥に蘇ってくる。


 ――どうせ一緒にいるなら、傍にいるだけでこっちまで優しい気持ちになるような……自然と笑い合える相手が良いです。


 空いていた左手でみことの手を外し、グラスをダイニングテーブルの上に叩きつけるように置くや否や、目の前の柔らかな身体をぎゅっと抱きしめる。すると、途端に白桃みたいな甘く瑞々しい香りが鼻腔を満たしていく。


「……ええ、一緒に行きましょう」


 ようやく喉の奥から絞り出した声は、ひどく掠れていた。


「二人でたくさん……あとで思い返した時に優しい気持ちになれるような、そういう思い出を作っていきましょう」


 ああ、本当に――みことは、どこまで幸斗にとって理想的な花嫁なのだろう。

 みことの肩に顔を埋め、甘えるように首筋に頬を擦り寄せれば、幸斗の背に腕が回され、あやすように撫でられた。


「あと、せっかく北海道まで足を延ばすなら、小樽おたるにも行きたいよね」


「そうですね……海外旅行ができない分、二人で行きたいところ、全部回りましょうか」


「えー? 全部はさすがに、時間もお金もかかり過ぎちゃいそうだよ。自分から言い出しておいてあれだけど、ちょっとずつにしようよ」


 みことと一緒にいる時、他の鬼や人がどんな気持ちを抱くものなのか、そんなものは知らない。

 しかし、幸斗にこんなにも温かなものを与えてくれるのは、これまでもこれからも、きっとみことだけだ。


「……ねぇ、みこと」


 抱き竦める腕により一層力を込め、みことの可愛らしい耳に囁きを落とした。


「これからも、ずっと……俺の傍にいてください――命、在る限り」

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