第33話 不可解なデート

「……ゆきくん。わたし、今から出かけるんだけど」


「そうですね」


「分かってるなら、この手を放してくれないかなぁ……!」


 ――あの夜から数日が経った。

 今日は、あの後暁斗と決めた約束の日で、待ち合わせの時間に遅刻しないようにするためには、そろそろ家を出なければならない。


 だが、玄関でシルバーのパンプスを履き、さあ出かけようと立ち上がるや否や、いつの間にか背後に忍び寄っていた幸斗に抱き竦められてしまったのだ。


 みことが溜息を零しつつも解放を求めてそう訴えれば、後ろから抱きしめてくる幸斗の未練がましい声が鼓膜を揺さぶった。


「そのワンピース……俺が一緒に選んで買った服なのに、どうしてわざわざ今日着ていくんですか……」


「だって、わたしの手持ちの服の中で、これが一番上品に見えるんだもの……」


 幸斗の言葉につられて視線を落とすと、みことが現在、身に纏っているアイスブルーのワンピースが視界に入る。


 幸斗の言う通り、このワンピースは先月二人でデートした時に見つけたものだ。

 品性を損なうことなく、デコルテが綺麗に見えるデザインと七分袖がこれからの季節にちょうど良くて心惹かれ、試着してすぐに購入に踏み切ったのだ。


「俺とのデートの時に着るねって、言ってたくせに……みことの裏切り者……」


「あの時は、本当にそう思ってたんだってば! それに昨夜、ゆきくんに着ていってもいいって訊いた時はいいよって言ってたのに、どうして急に物分かり悪くなるの!」


「そのワンピースを着たみことが、想像以上に綺麗で可愛いから……」


「はいはい、お褒めの言葉ありがとうございます! でも、わたしそろそろ出ないと、遅刻するから! 本当に、もうギリギリだから!」


「急に具合が悪くなったから、今日はやっぱり無理って連絡入れればいいじゃないですか」


「仮病、駄目! ドタキャンも駄目!」


 そもそも、健康優良児であるみことが仮病を装ったところで、見え透いた嘘にしかならない。


「ゆきくん、帰りの時間が分かったら、すぐに連絡するから。そうしたら、迎えにきてくれたゆきくんと、そのままごはん食べにいくデートができるよ。ね?」


 昨日まではこれで納得してくれたのだから、どうか今日も聞き分けて欲しい。


「昨夜のお夕飯に出したキャベツと豚肉のごまみそ炒めが冷蔵庫に入ってるから、お昼はそれをあっためて食べてね。ごはんも炊いておいたし、もし足りないようだったら、今朝作ったサンドイッチも少しだけ冷蔵庫に入ってるから、それも食べていいよ」


 どうして、幼い子供に言い聞かせるような言葉を成人済みの夫に伝えなければならないのだろう。


(念のため、昨夜も今朝も多めに作っておいてよかった……)


 人も鬼も、気分がひどく落ち込んでいる時は、何をするのも億劫になる。

 まさか、ここまで駄々を捏ねられるとは思わなかったが、念には念を入れて先手を打っておいてよかったと、自分自身の判断を心の中で褒め称える。


 キャベツと豚肉の胡麻味噌炒めには、人参や玉ねぎもたっぷりと入っているし、そこまで栄養バランスは悪くないはずだ。


 そこに、卵サンドとツナサンドをプラスしたら、炭水化物が多くなってしまうが、多少のことには目を瞑ってもらおう。


 幸斗はしばらく無言でみことにくっついていたものの、やがて渋々と離れていく。

 その隙を見逃さず、みことは急いで玄関扉を開け放つと、振り返りざまに幸斗に声をかける。


「わたしが出たら、すぐに鍵を閉めるんだよ! 帰りが遅くならないように気をつけるから、安心してね!」


 捨て台詞のように言い放つなり、家の外に飛び出してエレベーターホールへと慌てて向かう。

 しかし、運悪く使用中みたいで、今すぐには三階で止まらなさそうだ。


「あー、もう!」


 みことを引き留めようと粘る幸斗のせいで、大分時間をロスしてしまった。

 パステルピンクのミニショルダーバッグから素早くスマートフォンを取り出し、一応遅れるかもしれないむねを暁斗に送信した直後、急いで階段を駆け下りていく。


 いつもよりヒールが高いパンプスを履いているため、足を動かす度に鳴る甲高い靴音が耳障りだ。


 最近はポニーテールにしていることが多いのだが、今日は服装に合わせてハーフアップにしたのも、失敗だったかもしれない。先刻から下ろしている髪が背や頬を叩き、邪魔で仕方がない。


 その上、襟が開いている服だからと、四つ葉のクローバーをかたどったシルバーの小ぶりのネックレスが、首に巻きついてくるものだから、鬱陶しいことこの上ない。


(三階っていうのが、また微妙なんだよね!)


 階段での移動が可能な階数ではあるものの、急いでいる時にはやけに距離があるように感じられる。


 おそらく、こうしている今も監視兼護衛を任された鬼に見られているはずなのだが、自分がどう見られているのか、今のみことに気にしている余裕など露ほどにもない。


 人の迷惑にならないように気をつけつつも最寄りの駅に駆け込み、スマートフォンを翳して改札を抜けると、ちょうど到着した電車に間に合った。


 余裕を持って待ち合わせ場所に向かうのはもう無理だが、遅刻はしなくて済みそうだと分かれば、自然と安堵の吐息が唇から漏れていく。


 簡単に自分の身なりを確認すると、みことも周囲の人間に倣って吊革に掴まった。



   ***



(うわぁ……)


 暁斗との待ち合わせ場所であるショッピングモール近くの噴水に近づいていくにつれ、何故か人影が少なくなっていくなと疑問に思っていたら、その答えはすぐに分かった。


 晴れ渡った空の下、噴水の水飛沫と共に太陽光を浴びたシルバーブロンドが艶やかな輝きを放っている。


 サックスブルーのVネックのシャツとアイボリーのスラックスに身を包み、スカイグレーの薄手のストールを緩く首に巻き、足を組んで噴水の縁に腰かけている暁斗の姿は、嫌味なほど絵になっている。


 しかも、露草色の双眸を伏せ、何やら文庫本を読んでいる暁斗を、通行人が遠巻きに眺めているものだから、何かの撮影かと呆れとも感嘆ともつかぬ感情が芽生えてくる。


(え……? わたし、この衆人環視の中、あきくんのとこまで行かなきゃいけないの?)


 絶対に嫌だ。そんなことをしなければいけないのなら、このまま回れ右をして帰りたい。


(ゆきくん、迎えのお願いをしたら、喜んですっ飛んできそうだな……)


 バッグからスマートフォンを取り出しながら、そんなことを考えていたら、中性的で上品な声が耳朶を打った。


「――みこと、時間ぴったりだな」


 現実逃避をするように、みことがちょうど踵を返した途端、暁斗に呼びかけられてしまった。


 さながら天敵の気配を感じ取った野生動物のごとく、ゆっくりと振り返れば、噴水の縁から腰を上げた暁斗がみことの元へと歩み寄ってくるところだった。

 同時に、あちこちからみことを値踏みするような視線を感じ、内心溜息を吐く。


「あきくん……お待たせ。本当はもう少し余裕を持って来るつもりだったんだけど、遅くなっちゃった」


 自然と声量を抑えて返事をすると、暁斗がみことの目の前で立ち止まる。


 幸斗に比べれば、暁斗は背が低くて身体の線も細い。

 でも、一般的な日本人男性と比較すると、長身の部類に入る。


 それに、暁斗は鬼の一族の中でも一、二位を争うほどの美形だ。暁斗を見かけた人間の多くは、芸能関係者か何かではないかと勘繰っているのではないか。


「別に、遅刻したわけでも何でもないんだから、謝ることじゃないだろ。俺も、ちょうどさっき着いたばかりだからな」


 先程到着したばかりならば、読書なんてしていないと思う。


「そう言ってくれると、助かるよ。ありがとう」


 暁斗の気遣いに素直に感謝の気持ちを伝えると、鷹揚おうように頷かれた。


「ああ――さて、映画まで時間があるし、先に何か食べておくか。みことは、何が食べたい?」


「うーん……そうだなぁ……」


 暁斗の問いに、ショッピングモールへとちらりと視線を流す。


 このショッピングモールには、幸斗とも家族とも何度も来たことがある。

 おかげで、どんな飲食店が入っているのかしっかりと把握しているのだが、如何せんここまで慌ただしく移動したものだから、食べたいものよりも飲みたいものばかりが頭に浮かんでくる。


「……今は、冷たい飲み物が飲めるなら、どこでもいいかも」


 つい正直な心境を吐露すれば、暁斗が軽やかに声を立てて笑った。


「そうか。なら、俺のリクエストに付き合ってもらえるか?」


「それは、もちろん」


 待ち合わせ時間には間に合ったものの、それでも待たせてしまったことには変わらないから、詫びも兼ねて応じると、暁斗は微笑みを湛えたまま言葉を続けた。


「実は、ハンバーガーというものをあまり食べたことがなくてな。試しに食べてみたいんだが、それでもいいか?」


 ハンバーガーをろくに食べたことがない若者が、現代日本に存在するという衝撃的な事実に、思わず目を丸くする。


(あ……でも、そっか……あきくん、昔は身体が弱かったらしいから、ジャンクフードとか食べさせてもらえなかったのかも……)


 それに、鬼頭家はその辺りが寛容で、本家でも普通にファストフードを食べたりするが、鬼柳家は食するものにも厳しいのかもしれない。


 その上、暁斗みたいな事情があった場合、胃腸への負担が少ない消化に良い食事が推奨され、ますます食べる機会に恵まれなさそうだ。


「うん、いいよ。それじゃあ、行こっか」


 暁斗を促し、ショッピングモール内へと足を踏み入れ、全国にチェーン店を展開している有名なハンバーガーショップへと向かおうとしたら、どうしてか引き止められてしまった。


「おい、そっちじゃないぞ」


「え? ハンバーガーのお店、ここからでも見えるよね?」


 一階のフロアにずらりと並ぶ店舗のうち、赤と黄色の特徴的な看板を指し示せば、暁斗は緩く首を左右に振った。


「いや、レストラン街にあるここに行こうと思ってな」


 差し出されたスマートフォンの画面を覗き込むと、一人分のハンバーガーの値段が千円以上する、洒落た雰囲気のハンバーガーショップが表示されていた。


(あきくん……本当にお坊ちゃまだな……)


 こういう店には、デートでもない限り、男女二人では行かないと思う。


(え……それとも、今日のこれ、デートなの?)


 自分の心の声に自分で動揺していたら、暁斗に怪訝そうな目で見られてしまった。


「みことは、あっちの店が良いのか?」


「え? あ、ううん。そうだね。せっかくだから、あきくん希望のお店に行こっか」


 とりあえず、浮上してきた疑念は一旦脇に追いやり、暁斗の希望に沿うべく、二人揃ってエレベーターホールへと足を向けた。


 

 

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