第31話 涙

「それで、俺は五歳の冬までは両親と一緒に北海道で暮らしてました。母は……心を壊した結果、自分の身に降りかかったことや兄さんの存在そのものを記憶から消してしまったらしく……両親が生きてた頃、自分に兄がいるなんて知りませんでした」


「そう……だったの……」


「まあ、そのおかげで母はいつも穏やかにこにこと笑ってましたけどね」


 暁斗は、この事実を知っているのだろうか。

 もし、知っていたとしたら――記憶から抹消しなければやっていけないほど、自分の存在が実母を苦しめるものだったのだと、突きつけられたも同然ではないか。


「……あれは、雪が深い一月のことでした」


 幸斗が再度、言い淀む。

 でも、意を決したように言葉を続けた。


「その日は元々……刀眞さんがうちに来る予定だったんです」


「……お父さんが?」


 予想外の父の登場に目を瞬くみことに、幸斗が淡く微笑む。


「父と刀眞さんは歳が離れてましたけど、仲が良かったそうですよ。両親の逃亡に手を貸したのも、他ならぬ刀眞さんですし、俺が産まれる前も産まれた後も、時々様子を見にきてくれてたんです。ひかりさんと一緒に挨拶に来たこともあったとか」


 夢にも思わなかった繋がりに忙しなく瞬きを繰り返していると、みことの手を包み込む幸斗の指先に手の甲をそっと撫でられた。


「ちなみに、俺の名付け親も刀眞さんです。自分で幸せを掴み取りにいけよっていう意味で、名付けたとか」


「……お父さんらしい名付け方だね」


 どこか大雑把ではあるものの、きっと苦労が多い幸斗の将来を見据え、背中を押すような――心が温かくなるような名付け方だと思う。


「ですが、その日は本当に雪が深い日で、移動だけでも一苦労だろうからと、父が無理して来なくていいと伝えたそうです。ひかりさんが亡くなってから、まだ一年と少ししか経ってない時に、あまり俺たちのことで気を揉ませたくないというのもあったみたいですが……」


 確かに、そういう条件が重なれば、幸斗の父である秋志でなくても、遠慮するに違いない。


「そう……断りを入れたはずなのに、その日の夕方、チャイムが鳴って」


 この辺りの記憶は、幸斗にも残っているのだろう。先刻よりも、声に感情が乗っている。

 だからこそ、みことの鼓動がまた不規則に乱れていく。


「無理しなくていいよって言ったのに、来てくれたのかな……なんて言いながら、父が玄関に出たら、呻き声と何かが倒れる音が聞こえてきて」


 みことは見てもいないはずなのに、その時の光景が妙に生々しく脳裏に描かれていくようだった。


「母が様子を見にいこうとしたら、突然ものすごい勢いで女性の姿をした鬼が、血塗れの刃物を手に家の中に入ってきて」


 心臓が早鐘を打つせいで、自然と喉が干上がっていく。


「あんなに雪が降ってたのに、不自然なくらい薄着で、髪も振り乱してて、目も血走ってて……俺はあの時『鬼がいる』としか考えられなくて」


 確かに、そこまで異様な様相をていしていたら、文字通り鬼だと認識せざるを得ないだろう。


「鬼が――乙葉さんが刃物を構えたまま俺に近づいてきたので、母が急いで俺に覆いかぶさって。それで……その母の背中に乙葉さんが笑いながら、何度も何度も銀製の大振りのナイフを振り下ろして。母の血が俺の口の中に流れ込んでくるくらい、とにかく血が出てて」


 ああ――そうか。だから、幸斗は血を飲むのが苦手だったのか。

 血を口に含めば、まだ幼い自分の口内に流れ込んできた母の血の味を思い出してしまうから。


「それでも、母は俺を離そうとしなくて。そうしたら、いつの間にか母が動かなくなって。乙葉さんが俺を見下ろしてきたんです」


 その時の恐怖と絶望は、どれほどのものだったのか。

 みことが自分自身の手をぎゅっと握り締めると、幸斗の手が労わるように撫で擦ってくれた。


「あの時の俺を殺すことくらい、乙葉さんには簡単なことだったはずなのに、しばらくじっと見下ろしたまま動かなくなって。それで……銀のナイフを振り上げたと思ったら」


 これまでまっすぐにみことを見つめていた紫水晶の双眸が、不意に伏せられた。


「『貴方は……こうはならないでね』とだけ言って……自らの喉を切り裂いて、自害しました」


 ――こうはならないでね。

 それは、乙葉みたいにはなるなという忠告だったのか。両親みたいに、全てを投げ出して逃げるなと言いたかったのか。


 乙葉亡き今、その真意は誰にも分からない。

 だが、どちらにせよ、幸斗にとっては呪詛じゅそを吐かれたも同然だ。


「そこで、俺は意識を失ったのですが……夜遅くに駆けつけてくれた刀眞さんが、俺を助け出してくれて……救急車を呼んでくれたそうです」


「……お父さん、結局ゆきくんの家に行ったんだね」


「はい。嫌な予感がしたからというだけで、わざわざ来てくれたんです。その日は雪が強くて、飛行機も欠航した便が多かったのに、それでも来てくれたんです」


「本当に……お父さんらしいね」


 野性的な勘が妙に鋭いところも、一度決断したら迷わないところも、行動力があるところも、あの父らしいと思わせられる。


「だから、俺が目を覚ました時には、病院のベッドの上に寝かされてました。そうしたら、ベッドの脇に知らない男の子がいて。その男の子が兄さんだったんですけど……意識を取り戻した俺に、こう言いました。『お前さえ、いなければ』と」


 それは、なんて――残酷な言葉なのだろう。


「あの時は意味が分かりませんでしたが……おそらく、兄さんは怖かったんだと思います。一歩間違えれば、俺と同じ立場になってたかもしれないんですから。兄さんも、あの時はまだ十歳でしたし」


 しかし、たとえそうだったとしても、言って良いことと悪いことはある。

 少なくとも、十歳の少年が五歳の少年に向けて許される言葉の刃ではない。


「それから……退院してからは、すぐには引き取り先が見つからなかったので、鬼柳の家を転々としました」


 ある日突然両親を失い、心無い言葉を浴びせられ、安心して休める場所を提供されなかった五歳の男の子だった幸斗は、どれほど心細い思いをしたのか。


「誰も……ゆきくんを引き取るって、言ってくれなかったの……?」


「俺は、あの事件の象徴みたいな子供でしたからね。きっと、不気味に見えたんでしょう。俺は、特に泣きも喚きもしませんでしたし……」


 幸斗は言葉を濁したが、冷遇されていたのではないかと不安が込み上げてきた。


「ごはんとかは……ちゃんと、食べられた?」


「食事は出されたり、出されなかったり……まあ、一食抜いたところで、飢えはしませんから」


 それは、大人になった今だからこそ、分かることだ。

 幼かった幸斗は、一食分でも抜かれたら、次はいつ食事にありつけるのかと、戦々恐々としていたのではないか。


(そういえば、ゆきくん……昔から、よく食べたな)


 幸斗は意外と食べる量が多いのだが、幼少期の経験が起因しているのかもしれない。

 飢えを凌ぐために、食べられる時に食べておかなければと、知らず知らずのうちに生存本能に突き動かされていたのではないか。


「美夜叔母さんも俺の引き取り先の候補として挙がったんですが……離婚して、シングルマザーとして二人の子供を育ててましたから、経済的にも精神的にも余裕がないと、辞退されたそうです」


 確かに、そういう状況でもう一人子供を養うのは難しいだろう。


「刀眞さんは俺を引き取ると名乗りを上げてくれたんですが、鬼頭一族の鬼に鬼柳一族の問題に首を突っ込まれるのが嫌だったんでしょうね。お前は黙ってろって、一蹴されて終わりだったみたいです」


 自分たちだけで問題を解決できなかったから、そうなったに違いないのに、一体何様のつもりなのか。


「それで最終的には、鬼頭一族とも鬼柳一族とも中立的な立場を取ってる冬城一族が見かねて、俺を保護することになりました。ただ……向こうも、俺の扱いに困ったんでしょうね。今まで桃娘を育てたことはあっても、鬼の子は初めてだったでしょうから」


 冬城一族の人間の気持ちも、理解できなくはない。

 そんな状況でも、感情を表に出さない無口な子供に、どう接したらいいのか分からず、困惑してしまったのだろう。


 でも、幸斗の口から聞かされた当時の様子から察するに、それだけ心に深い傷を負っていたということは、みことでも分かる。


 だから、鬼柳一族の鬼も冬城一族の人間も、突如として孤独を強いられた子供に寄り添えば良かったのだ。


 ただ、それだけで良かったのに、何故たったそれだけのことができなかったのか。

 もし、今のみことが当時の幸斗に出会うことができたなら――抱きしめてあげられたのに。


「俺の話は、これで終わりです。刀眞さんに教えてもらった話と俺の記憶を合わせて話したので、もしかしたら事実とは違うところもあったかもしれませんが……みこと、どうしてみことが泣くんですか」


「だ……って……!」


 幸斗に指摘されて初めて、視界が涙で歪んでいることに気づいた。

 そして、嗚咽おえつ交じりの声を自覚してしまえば、せきを切ったように目尻から涙が止め処なく溢れ出してくる。


「ゆきくん、何も悪くないのに……どうして、ゆきくんがそんな目に遭わなきゃいけなかったの……? そんなの、おかしいよ……!」


 そう、幸斗の話を聞いてからずっとおかしいと思うことの連続だった。


 どうして、何の罪もない子供が、たかだか一族の恥晒しとでも呼ぶべき事件の象徴になってしまったからといって、そこまで理不尽な目に遭わなければならなかったのか。


 幸斗は、責任ある大人にちゃんと保護されるべきだったのだ。少なくとも、みことの父はそう考えてくれたに違いない。


 だが、鬼柳一族の鬼ではないからという理由だけで、手を差し伸べる機会さえ与えられなかった。だったら、きちんと内々で解決するべきだったのだ。


 それなのに、全く無関係な冬城一族の人間に自分たちが向き合うべき問題を丸投げしたというのだから、本当にどこまで無責任な一族なのだろう。


「わたし……! もし、ゆきくんが鬼柳の鬼を許しても……わたしは、絶対に許さない……許せないよ……!」


「……みこと」


 幸斗に手を包み込まれているせいで、頬を流れ落ちていく涙を拭うこともできず、ただ幼子みたいにしゃくり上げることしかできない。


 涙を流し続けるみことの手をようやく解放してくれたかと思えば、幸斗の手が優しく零れ落ちる涙の雫を拭ってくれた。

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