:第3話 「G・J」
分隊の面々が事態を把握できず、呆気に取られている中、アランは即座に立ち上がって駆け出していた。
その先には、一頭の馬がいる。
いわゆる、ばんえい馬。
農耕のために
それが興奮した様子で、後ろ足で立ち上がっている。
近くの木につながれているが、縄がピンと張って、その巨体から発揮される怪力で今にも引き
ばんえい馬は、体重が一トンを超えるものが珍しくない。
三百五十キログラムを超える重量を持つ三十七ミリ対戦車砲や、その弾薬運搬車を
そんな大型動物が自由に暴れたら、どうなることか。
うかつに近寄ればその
そうなる前に、何とか馬を落ち着かせたかった。
———それが、アランの、分隊の中での役割でもある。
牧場出身で家畜の扱いに長けているということから、隊で使用しているばんえい馬の世話や操縦を任されているのだ。
暴れる馬をなだめたい。
しかし、すぐに手綱を引っ張ったり、大声をかけたりしてはならなかった。
馬は草食動物で、臆病なところのある生き物だ。
動揺している所に急に手綱を強く引っ張ったり大声をかけたりしたら余計に驚いて、さらに暴れることがある。
まずは、自分自身が落ち着くことが大切だ。
そうして態度で安心できるのだと示してやらなければならない。
人間も馬を見ているが、馬もまた、人間のことを見ているのだ。
アランは近くまで素早く駆けよったが、それからは努めて冷静に、優しい声と手ぶりで絶対に馬の死角に入らないように注意しながら「どうどう、どーうどう」となだめていく。
すると、ほどなくして馬は落ち着きを取り戻していった。
「よ~し、よし。お前は賢いな~、偉いぞ~」
ほっとして作り物ではない心からの笑顔を見せつつ、ポンポン、と軽く馬首を叩いてやった後、アランはこの事態を引き起こした相手の方を振り返っていた。
———そこには、彼と同じ十九歳の女性が、草原の上に尻もちをついて、すっかり怯えて表情を青ざめさせたまま、呆然としていた。
灰色がかった黒髪に優しそうな
「G・J。いったい、なにをやったの? 」
「え、えっと……! わ、私、別にお馬さんをいじめたりとかは、してないです! 」
「そりゃ、そんなことをしないのは分かってるさ。けど、なにかちょっかいを出したんじゃないのかい? 」
アランに軽く睨みつけられると、G・Jこと、ジンジャー・ジョーンズ一等兵はしゅんとなって肩を落としながら白状した。
「そ、その……。尻尾を、触ってみたくって」
「それで、後ろに回り込んだと? そりゃ、ダメだ」
悪気がないのは分かっているが、あまりにもうかつな行為にアランは呆れるしかなかった。
「馬ってのはさ、視野の広い動物なんだけど、真後ろにちょっとだけ死角があるんだ。それで、そこに不用意に入り込んで近寄ったりすると、怖がって凄く怒ることがあるんだよ」
「う、う~! し、知らなかった~」
ずいぶん怖い思いをしたのだろう。
G・Jはそう反省の言葉を述べつつ、まなじりに涙を浮かべている。
「まったく、気をつけなよ? 第一、なんで馬に後ろから近づいたりしたのさ? 」
「そ、それは、尻尾がフサフサで、触り心地が良さそうだったから……」
「そんな理由で? ……とにかく、後ろ足で蹴り飛ばされなくてよかった。最悪、怪我じゃ済まなかったところだよ」
注意するべきところはしっかりと注意しながらも、アランは落っこちていた眼鏡を拾い上げ、G・Jに渡して、手を差し伸べる。
「あ、ありがとう……。それと、ごめんなさい」
眼鏡をかけ直したG・Jはそばかすの痕が残る顔にはにかんだ笑みを浮かべると、差し出された手を取って立ち上がっていた。
二人はいわゆる同期だった。
出身地は別だが、同じ年に徴兵され、同じ訓練所に配属されて、同じ班になって、共に怖い軍曹からの教練を受けた。
方や農村の牧場育ち、方や地方都市のサラリーマン家庭に育ったというまったく異なる出自を持つからさほど話が合うことはなかったのだが、訓練期間中にG・Jが数人にからまれているところをアランが助けて以来、友人と名乗れるくらいには親しくしている。
彼女がこうして馬にちょっかいを出そうとしたのは、これが初めてのことではなかった。
どうやら幼い頃から動物と触れ合う仕事に憧れがあったらしく、身近に馬がいるという状況に少々浮ついているらしい。
モンブランという名前のウサギを飼っているんだよといつも楽しそうに話してくれるのだが、どうにも、大型のばんえい馬をウサギのような小動物の延長として軽く見ているフシがある。
愛嬌があって大人しいというのは一致している部分があるのだが、パワーと、その質量から来る破壊力が段違いなのだ。
ウサギに蹴られてもちょっとした怪我で済むかもしれないが、馬に蹴られたら命が危ない。
「ったく。本当に気をつけてくれよな? おれなんか昔、頭を蹴られて、死にかけたんだから。……羊だったけど」
手で身体についた汚れを払っているG・Jに呆れた様子の声をかけたのは、アランに続いて駆けつけてきたブルーノ・セルヴァン上等兵だった。
薄い茶色の短髪と茶色の瞳を持つ青年だったが、家畜に頭を蹴られた、という言葉通り、その額には今でも消えない傷跡が残っている。
それを目にしたG・Jは、ビクリ、と肩を震わせると、すごすごとアランの影に身を隠した。
「あ、その対応。傷つくな~」
「す、すみません、先輩! で、でも、やっぱりちょっと、おっかなくって……」
しかめっ面をするセルヴァン上等兵に、G・Jは申し訳なさそうな上目遣いで謝罪する。
生々しい傷跡が苦手であるらしい。
「まったく。まぁ、もうそういう反応は慣れっこだから、別にいいけどよ。……オイ、アラン。お前、ちゃんと見とけよ? こんなことで怪我でもされちゃ、つまらないぜ」
「りょ、了解です」
ぎこちなくうなずいてみせると、新入り二人の実質的な世話係になっている上等兵はヤレヤレ、と肩をすくめて塹壕の中に戻って行った。
———自分も、元の場所に戻ろうか。
そう思ったものの、結局なにもやることなどなく退屈を持て余すだけだと考えたアランは、もっと時間を有意義に使えないかと考えながらまだ自分の背後に隠れている同僚の方を振り返っていた。
「G・J」
「はい? 」
「馬のブラッシング、やってみたい? 」
「……。みたいです」
ついさっき怖い思いをしたばかりだというのに、やっぱり、動物の世話には興味があるらしい。
返って来た力強いうなずきには、苦笑する他はなかった。
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