第3章
3-1.黒幕
「ここが……」
呟いた颯の頬を、洞窟の中から漂う冷たい風が撫でた。颯は背筋をぶるりと震わせる。
「岩の残骸がこちら側に偏っているのは、やはり向こう側から砕かれたためでしょう」
沙々羅の見解に頷きながら、颯の脳裏に千人がかりで動かすような大岩の姿が浮かんだ。大穴を完全に塞いだ巨石。その光景はあまりにもリアルで、颯は一瞬、既視感を覚えた。
「颯、沙々羅。この先は何があってもおかしくないわ。それでも行くのね?」
真摯な面持ちで問う五十鈴媛に、颯と沙々羅は生唾を飲み込んでから顔を向け、大きく頷いた。
颯は再び洞窟に向き直る。吸い込まれそうになる大穴の暗闇をジッと見つめながら、颯は2週間ほど前のことを思い出していた。
「あの者らは、おそらく
化け物を撃退した後に開かれた話し合いで、沙々羅が慎重な様子で切り出した。沙々羅の言う“あの者ら”とは、いつの間にか大挙してやってきた老婆のような幽鬼。そして“かの者”とは青白い雷を本体とする化け物のことだ。
彦五瀬や五十鈴媛らが目を見開く中、沙々羅は“邪”の影響を色濃く受けながらも鬼とは異なる存在である彼らが
「あの、“よもつくに”っていうのは……」
黄泉醜女はどこかで聞き覚えがあるような気がしたが、八雷神も黄泉国も、颯にとっては聞き馴染みのない言葉だった。
「颯。黄泉国は死者の国のことよ」
口を開きかけた沙々羅により先に、五十鈴媛が答えた。沙々羅は若干不服そうな顔をしていたが、颯が驚いた顔を向けると表情を真摯なものへと変えて頷いた。
「そういえば……」
颯は昔読んだ古事記の漫画で死者の国、所謂“あの世”の世界が出てきていたことを思い出す。その間も話し合いは続き、彦五瀬が腕を組んで険しい顔をしていた。
「沙々羅の話が正しいのなら、かの
「確証があるわけではありません。しかし、その特徴や去り際の言葉、それに、あの雷が飛び去った方角は――」
沙々羅が五十鈴媛を見遣ると、彼女は深く首肯して言葉を引き継いだ。
「
古来より生者が近付くのを禁止されていたために五十鈴媛も足を踏み入れたことはないが、出雲の地には死者の国へと通じる出入口があるのだという。
「そこに真菜が……!」
元来、颯は“あの世”が実在するなどとは思っていなかったが、事ここに至ればその存在を疑うことはなかった。実際にこの世のものとは思えない雷の化け物や幽鬼を目の当たりにし、人が鬼へ変じる場面も目撃しているのだから、それを疑うよりも真菜の居場所が掴めたことを喜ぶ気持ちの方が大きかった。
そこが例え死者の国だとしても、この世と繋がっていて、おおよその場所もわかっているのならやることは一つだった。
「待て、颯」
拳を強く握る颯を、彦五瀬が険しい表情のまま見据えた。
「はやる気持ちはわかるが、機を待つのだ」
「なぜですか!」
「今も手の者が痕跡の雲を追っている。その報告を待って支度を十全に整え、
今すぐにでも出発したい颯の心の内を察しながら、それでも彦五瀬は危険を伴う旅には様々な準備が必要だと諭す。
彦五瀬によると、あの青白い化け物が八雷神であるならば、薙との戦いの折に姿を見せたもう1体の化け物も同様の存在である可能性が高く、それが他にも6体、
「
八柱の雷神と多くの黄泉醜女、更には鬼の大軍を統べる黄泉国の支配者。そしてそれは、かつてこの国と多くの神々を生んだ女神のなれの果て。
「もしかすると、颯は私が思っていた以上の定めを負っているのやもしれぬな」
彦五瀬が颯の傍らに置かれた
天之尾羽張の元々の持ち主は
伊邪那美命は火の神である
しかし、既に黄泉国の食べ物を口にしていた伊邪那美命は生者の国に戻ることは叶わなかった。それでもわざわざ死者の国まで会いに来てくれた夫の想いに感銘を受けた伊邪那美命は黄泉国の神々に許可を得ようと話し合いに臨んだ。その際、夫に決して覗かないよう願い、伊邪那岐命も受け入れた。
けれど、その約束は破られた。なかなか戻ってこない妻を不安に思った伊邪那岐命は妻の姿を覗き見た。生前は見目麗しかった妻。しかし、死者の住人となった妻は腐敗し朽ち果て、
自身の醜い姿を愛する夫に見られ、
その時、
そうして愛する夫に裏切られた伊邪那美命は夫の暮らす生者の国を呪った。そして、死者の国での立場を確立した女神は、いつしか黄泉津大神と呼ばれるようになった。
「よいか、颯。黄泉津大神は我が一族の祖、日の神の母とも言うべきお方。生者の国を呪う“かの神”が相手とあらば、生半可な力と覚悟では貴公も真菜も生きては戻れまい」
だからこそ焦ることなくしっかりと準備をすべき。再度そう念を押す彦五瀬に、胸中はどうあれ、颯は頷くほかなかった。
しかし、その僅か数日後。事態は急展開を迎えることとなる。
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