2-7.闖入者

 板戸の合わせ目の隙間から仄かに月明かりが覗くだけの夜の闇の中、はやては目を開けた。眠りに落ちる前に外で奏でられていた虫たちのオーケストラも今は聞こえず、風が木々や板戸を揺らすこともない。颯は静かに体を起こし、隣で伽耶が眠っていること確認しながら耳を澄ます。


 板戸の向こうの庭に面した廊下から何かを引きずるような音が聞こえ、颯は眉を顰める。正確な時の頃はわからずとも、まだ深夜であることだけは何となく理解でき、生唾を飲み込んだ。


 不気味な音の正体が何であれ、聞かなかったことにして再び眠りにつけるほど、颯の神経は図太くはなかった。颯は嫌な予感に覚え、枕元に置かれた短甲を麻の服の上から手早く身に着ける。


「お兄ちゃん……?」


 隠しきれない物音で目を覚ました伽耶の眠気眼が颯を捉えた。颯は伽耶に顔を近づけ、自分の口元に人差し指を突き立てる。颯の意図が通じたのか、伽耶が無言で、こくこくと頷いた。


 颯は天之尾羽張を手に取って立ち上がり、板戸の合わせ目に向かって剣を正眼に構える。その後ろに伽耶が身を隠す。音が近付いていた。


「大丈夫。伽耶ちゃんは僕が守るから」


 背後で震える伽耶に、小声で告げる。冷たい空気が漂い、颯自身、恐怖を感じていたが、小さな妹の前で情けない姿を見せたくなかった。


 部屋の中を微かに照らしていた月明かりが消え、一層の暗闇のとばりが下りる。月が雲に隠れた訳ではない。何かが、おぞましい気配の何かが、板戸の隙間の向こうにいる。いつの間にか、断続的に続いていた不気味な音が止んでいた。


 果てしない緊張感で颯の額に汗がにじんだ。颯は剣を握る手に力を込める。その直後、背後の木の壁が砕け散った。


「伽耶ちゃん!」


 颯は振り返り、伽耶とその顔に向かって伸びる掌打の間に滑り込む。剣の腹で攻撃を受け止めたが、踏ん張り切れず尻餅をついた。


「お兄ちゃん!」


 颯は伽耶を巻き込まなかった自分を心の中で褒めながら即座に立ち上がる。伽耶を背にかばい、剣先を闖入者に突き付けた。薄暗い中、ぼんやりと白いシルエットが浮かび上がる。


 腰を曲げた老婆のような姿の何者かは、朽ちた白い衣を纏っている。砕けた壁の反対側で板戸が遠慮がちに開き、同様の何かが顔を伏せて部屋へ侵入してきた。月明かりが部屋を照らす。二人の侵入者が顔を上げた。その瞬間。


「あ、あ……あ、あ……」


 だらしなく開いた颯の口から意味のない音がこぼれ落ちた。背筋を冷たいものが這い登り、恐怖で全身が竦み上がった。冷や汗が溢れ、剣を持つ手がカタカタと震えた。


 颯の脳裏に、暗闇の中で何かから必死に逃げている光景が浮かんだ。振り返ると、そこには――


「お兄ちゃん……」


 か細い伽耶の声で、颯は、ハッと息を呑む。頭の中を支配する恐怖心を無理やり追い払うと、真っ白い顔に形容しがたい形相を貼り付けた女性のような何かを真っ直ぐに見据えた。女の薄い唇の間から、黄色く長い牙が覗いていた。


「う……」


 颯の心に言い知れぬ恐怖心が湧き上がる。それは鬼と化した薙と対面したときや真菜を攫った化け物と対峙した時よりも、純粋な恐怖という点では上回っていた。板戸の間から入ってきた老婆のように腰を曲げた白い女が、二人ににじり寄る。


 颯はまだ無事な壁を背にし、左右の斜めに両者を捉える。剣を双方に交互に向けて牽制するが、これでもかと開かれた白い瞼の間のまなこからは何の戸惑いも感じられなかった。真っ黒な目に浮かぶのは、生きとし生けるものすべてを呪うかのような憎悪だけ。


 白い女の一人がゆらりと、しかし、急に距離を詰めて掌打を放つ。颯は今度こそしっかりと足腰に力を込めて剣の腹で受け止める。見かけのゆったりとした動きからは想像もできないほどの重い衝撃が剣から颯の腕を伝っていく。


「伽耶ちゃん。僕の後ろから出ないでね!」


 颯は前を見据えたままそれだけ言うと、伽耶の反応を窺うことなく思いっきり剣の腹を押し返す。


「ハアッ!」


 僅かに開いた距離を利用し、颯はすぐさま剣を振りかぶって即座に振り下ろした。目の前の何かはとても人間とは思えず、躊躇はなかった。これまで彦五瀬から学び、幾度か実戦の中で鬼を斬ってきた剣筋は、朽ちた白い衣ごと、細い腕を斬り飛ばす。


「うぁあああ……!」


 この世のものとは思えないおぞましい叫びが辺りに響いた。返す刀でもう一体に斬りかかると、白い女は後退って剣を避けた。


「伽耶ちゃん!」


 颯は剣の柄から離した片方の手で伽耶の手を引き、二体の隙をついて開け放たれた板戸の間から廊下へ飛び出す。


「な……!」


 颯の顔が驚愕と恐怖に染まる。見開いた目に映るのは、颯の寝所を取り囲うように廊下にひしめく白い老婆のような幽鬼の群れだった。


「くっ」


 伽耶の手を握ったまま、颯は天之尾羽張を振るう。颯が伽耶を連れて廊下から中庭に逃れると、白い幽鬼の群れもそれに追従する。颯は周囲をぐるりと囲まれながらも片手で必死に剣を振るい、何体もの幽鬼を打ち払った。


 剣に切り裂かれた白い体は急速に腐敗して朽ち果て、黒い塵へと変わって風に溶けて消えたが、幽鬼の数は一向に減らず、後から後から押し寄せる。


 しかし、颯の体から仄かに滲み出た白く淡い光が天之尾羽張を覆い、僅かながら破邪の力を発揮していたことも功を奏したのか、何とか五分の攻防を繰り広げていた。


 颯は言い知れぬ恐怖と戦いながらも、目の前の幽鬼が“邪”に属するものだと推測し、これまでの道中で根気よく破邪の秘術の一端を伝授してくれた沙々羅と五十鈴媛に感謝の念を抱く。


 二人の、そして彦五瀬らの無事を案じながら、颯は伽耶を守って只管ひたすら、剣を振るう。いつの間にか、暗さが増している気がした。


 颯の剣がまた一体、幽鬼を灰燼に帰した。その瞬間。


 空に稲光が走り、闇夜に雷鳴が轟いた。

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