第2章
2-1.決意
北の
彦五瀬や
「そうか……」
兵士から報告を受けた彦五瀬が沈痛な面持ちで頷いた。彦五瀬は兵士に労いの言葉を投げかけると、広間の隅の壁際でへたり込んでいる
「颯」
彦五瀬の呼ぶ声で颯がゆっくりと顔を上げるが、その目の焦点は定まっていなかった。彦五瀬が化け物の調査に出た者が戻ってきたと告げると、颯の瞳に僅かながら光が灯る。しかし。
雷雲に紛れた化け物は北東の方角にものすごい速度で飛び去ったことしかわからないと伝えた途端、所謂体育座りをしていた颯は力なく額を膝に乗せた。そのすぐ脇には天之尾羽張が乱雑に放り出されている。
「颯よ、頼みがある」
颯は顔を伏せたままだったが、彦五瀬は奥歯を強く噛みしめてから口を開いた。
「颯よ。亡き弟に代わり、我らが一族の長になってはくれぬか」
「……意味がわかりません」
「我らには旗頭が必要なのだ」
「五瀬さんがやればいいじゃないですか。僕には関係ありません。それに、僕は真菜を助けに行かないと……」
颯は額を膝に付けたまま答え、随分と滑稽だと内心で自嘲する。ただでさえ真菜があの傷で助かるわけがないのに、加えて化け物だ。連れ去られるまで万が一に命があったところで、今頃は化け物の腹の中に違いない。それがわかっているからこそ何もせずに部屋の片隅にただ座り込んでいるのに、どの口が助けに行くなどと言っているのか。
颯の瞼の裏で、もう枯れてしまったと思っていた涙が滲む。
「颯。私も弟を亡くした身。気持ちはよくわかる。だが、生き残った身なればこそ、死した者の遺志を継がねばならぬと私は思う」
「真菜の……」
「そうだ。私は東の楽園を目指すという薙の遺志を継ぐ。そのためには鬼を討った颯の力が必要なのだ。そして颯は真菜のためにも故郷へ戻らねばならぬ。三輪山だったか。それは東の地にあるのだろう? そのために私を利用すればよい」
彦五瀬は東のヤマトを席巻しているという
「それでも無理ですよ。何であんなことができたか自分でもわからないのに、また鬼と戦うなんて……」
颯の脳裏に、自身に迫る鬼と化した薙の恐ろしい姿が浮かんだ。そして、実際に目の当たりにしたわけではないが、鬼に切り裂かれて倒れる真菜の姿も。颯は膝に回した腕に力を込める。しっかりと抑え込んでいないと、ガタガタと震えてしまいそうだった。
真菜さえ傍にいてくれたら。そんなことを思ってしまう自分を、颯は心底情けなく思った。
「颯様。私からもお願い申し上げます」
近くで様子を見守っていた沙々羅が二人に近寄り、颯に頭を下げる。
「あなた様こそ、我が祖母の予見した日の神の御子。身勝手な願いなのは重々承知しておりますが、鬼を討った颯様のお力を、今一度、ヤマトの民のために振るっていただきたいのです」
「颯、頼む。私には颯と真菜が無意味にこの地へ招かれたとは思えぬ。真菜の尊い行いを無駄にせぬためにも――」
彦五瀬が唐突に口を閉じた。勢いよく顔を上げた颯が、彦五瀬を睨みつけていた。
「ふざけないでください!」
颯が声を張り上げる。怒りを多分に含んだ叫びは、僅かに震えていた。
「真菜が僕を庇ってあんなことになったのが、運命だって言うんですか! 真菜は僕の身代わりになるために生きてきたわけじゃない! 生まれてきたわけじゃない! 真菜は……!」
颯は声を詰まらせ、俯く。彦五瀬がそんなつもりで言ったわけではないことはわかっていたが、溢れ出る激情を止められなかった。行き場をなくした怒りを、颯は強く拳を握ることで耐える。爪が皮を僅かに押し破り、血が滲んだ。
「すまない、颯。そのようなつもりで言ったわけでは……」
「颯様……」
彦五瀬も沙々羅も、それ以上、かける言葉が見つからなかった。
「皆様。何を騒いでおられるのですか」
突然の闖入者に、彦五瀬と沙々羅が声のした方へ顔を向ける。
「五十鈴媛……」
「お体はよろしいのですか?」
「おかげさまで。それよりも、何を騒いでおられたのですか? 何やら颯様がお怒りだったようですが……」
五十鈴媛が膝を抱えた颯を見つめてから、彦五瀬と沙々羅に責めるような目を向けた。
「それは――」
「おっしゃらずとも結構ですわ。大方、颯様のお力をお借りするために、真菜様の遺志を継ぐべきだとかなんとか申したのでしょう?」
彦五瀬は開きかけた口を閉じ、悔し気に唇を噛む。先ほどの激高の直接的な原因ではないにしても、颯の力を利用するために彦五瀬が投げかけた言葉であることに違いはなかった。
「やはり……。それでは颯様がお怒りになるのも頷けますわ。大切な家族を勝手に死んだことにされたのですから」
五十鈴媛が肩を竦めると、一拍の静寂が訪れた。颯が顔を上げ、彦五瀬が眉を顰める。
「なんだと……?」
「五十鈴媛。あなたは真菜様のあの傷をご覧になられていないので仕方がないかもしれませんが、そのように
「決して根拠なく申しているわけではありませんわ」
もし傷が原因で真菜が死んでいるのなら、化け物が
「しかし……」
「それはあまりにも……」
希望的観測に過ぎない。二人が言いたいことは颯にもわかっていた。しかし、颯の心は憑き物が取れたかのように不思議と晴れていく。颯の目に光が戻る。
「真菜が生きてる……?」
「ええ、颯様。真菜様は生きておられますわ」
そう微笑みながら断言する五十鈴媛に、颯は希望を見た。
間違いかもしれない。希望は無残に砕け散るかもしれない。それでも。
「五十鈴媛さん、ありがとう。僕は信じるよ。真菜はきっと生きている」
そうとなれば、やることは一つ。
「僕が真菜を助ける。助けてみせる……!」
颯の心は決まった。
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