1-14.邪

「どうか、お力添えを……」


 沙々羅が深く頭を下げる。はやては事情を知らず、話の半分も理解できなかったが、沙々羅と名乗った少女がこの地に助けを求めてやってきたことだけはわかった。


 話の中で“鬼”という御伽噺おとぎばなしに出てくるような単語が聞こえたが、古代の人であればその存在を信じていてもおかしくないと颯は考える。むしろ、昔の人が何らかの物事を鬼と呼んだからこそ颯たちの時代に伝わっているのだと思えば、殊更否定することでもなかった。


 とはいえ、颯は赤い肌や青い肌をして頭から角を生やしているような、いわゆる“鬼”が実在するとは思っていない。


「事情は粗方呑み込めた。その方がサルメに連なる者だというのであれば、この地を訪れた訳も理解できる。されど、この高千穂の地に神の御子と称えられるような聖人など存在しない。過去の悲劇を引きずり、自分の力しか信じることのできない小さき人間が一人いるに過ぎぬ」

「そのお方は……?」

「その方を捕らえ、従者らを亡き者にした男だ」

「そんな……!」


 沙々羅が目を見開いて絶句した。それまでの凛とした姿が幻だったかのように狼狽する少女に、彦五瀬が告げる。


「薙こそが、日の神を祖とする我が一族の末弟にして、この地の支配者。おそらくその方の探し求めた男だ」

「まさか、そんなことが……。おばあ様の神託にあった日の神の御子が“じゃ”に憑りつかれているなんて……」


 沙々羅が絶望の表情を浮かべる。その一方で、彦五瀬が眉をひそめた。


「お主、今、何と申した」

「あのお方は……薙様は邪に憑りつかれています。このままでは遠からず、この地を悲劇が襲うでしょう」


 彦五瀬は雷にでも打たれたかのように硬直するが、心当たりがあるのか、沙々羅の言葉を偽りだと疑うことはしなかった。沈黙の帳が下りた。


「あの……」


 しばらくして、真菜がおずおずと手を挙げた。皆の視線が真菜に集まる。


「話の腰を折るようで申し訳ないんですけど――」


 申し訳なさそうに切り出した真菜は、彦五瀬や沙々羅に対し、“邪”とは何か、“鬼”とは何か尋ねた。


 颯は部外者の自分たちが口を挟む問題ではないように思っていたので真菜を止めようと口を開きかけるが、それより早く彦五瀬が謝罪し、颯や真菜にもわかるように説明を始めた。颯としても気にはなっていたため、半開きになっていた口を閉じて耳を傾けた。




 彦五瀬と沙々羅が言うには、人の心には怒りや悲しみ、憎しみに嫉妬などの、いわゆる負の感情を入れる“うつわ”が存在するのだという。器に溜まった負の感情は、喜びや慈しみ、楽しさに幸福感など、いわゆる正の感情により徐々に中和され、人は心の安寧を保っている。


 しかし、そのバランスが極端に崩れると、中和が間に合わず、負の感情は器の容量を超えて溢れ出てしまう。そうやって溢れた負の感情は、もはや自分自身の正の感情で中和することができない。器の中で凝縮され、それでも留まり切れずに溢れ出た負の感情。それこそが“邪”と呼ばれるものの正体だった。


 濃縮された負の感情の集合体である“邪”はその者の心に憑りつき、狂わせる。かつて、愛しき妻の変わり果てた姿を目の当たりにした夫が誰彼構わず刃を振るったように。


 そして、更に膨れ上がった邪が完全に心と体を支配すると、人は異形の存在へとその身を変える。それぞれ差異はあれど、総じて筋骨隆々な肉体と厚い皮膚を持ち、頭から幾本かの角を生やした化け物。それが“鬼”と呼ばれる存在だった。


 人は古来より鬼の脅威に悩まされてきたが、やがて、邪を祓い、鬼を滅する術を編み出した。破邪の秘術と呼ばれるそれは誰にでも使えるものではないが、その優れた使い手として知られていたのが彦五瀬や薙の祖母であるトヨであり、沙々羅の祖母のサルメも、そして沙々羅自身もその一部を受け継いでいるという。






 その後、彦五瀬は沙々羅の介抱を颯、真菜、伽耶らに任せ、思金おもいのかねと協議すべくその場を後にした。


 破邪の秘術の一端を修めた沙々羅の言葉は、彦五瀬にとって決して無視できるものではなかった。それがまだ幼いながらも一族の長を務める薙の身のこととなれば、なおさらだ。


 幸いなことに、薙から溢れ出ている邪はまだ微量で、すぐに鬼と化すようなものではないようだった。しかし、かつての素直で優しく、何事にも真っ直ぐだった薙を知る彦五瀬にしてみれば、邪の影響が色濃く出てしまっているとしか思えない現状を楽観視できるはずがない。


「鬼、か……。兄さん、鬼が実在するなんて、びっくりだよね」

「うん」


 しみじみと言う真菜に、颯は頷く。“邪”にしても“鬼”にしても、現代日本で生きてきた颯にとってはにわかには信じ難い話ではあるが、彦五瀬や沙々羅の語り口は嘘を吐いているとは思えなかった。


「あの。失礼ですが、お二人はこちらの一族の方々ではないのでしょうか? 日の神の一族ならば、数十年前に起こった鬼による災厄をご存じないとは思えないのですが……」

「あ、えーっと……」


 颯と真菜は顔を見合わせる。先ほどの話から、颯と真菜は沙々羅が彦五瀬らと敵対しているグループに属しながらも個人としては敵ではないという判断を下していたが、今の段階ですべてを告げるほど信頼はしていない。


「えっと、僕たち兄妹はちょっと理由わけがあって五瀬さんのお世話になっている居候のようなものです」

「そうなのですね。彦五瀬命から信頼を得ているようでしたので、一族の長に連なる方々なのかと思っておりました」


 確かに彦五瀬の屋敷で暮らし、帯剣を許されたまま並んで巡察に赴いているのだから、そう思われてもおかしくなかった。そして、颯は周囲からどう見られているかに思い至り、冷や汗を流す。その隣では、真菜が爛々と目を輝かせていた。


「沙々羅さん、でしたっけ。まだ休まなくて大丈夫なら、その鬼の話を聞かせてもらえませんか?」

「おい、真菜――」

「颯様。私なら大丈夫です」


 沙々羅を案じて真菜を止めようとするが、その沙々羅自身に微笑まれてしまい、颯は引き下がる。颯が伽耶に視線を送り、もし沙々羅が無理をしているようなら止めてほしいと言葉なく頼むと、伽耶は小さく頷いた。


「伽耶様。もし間違いがあるようでしたら遠慮せず訂正してください。私の祖母より聞かされた話ですが、こちらに伝わっているお話と齟齬そごがあるやもしれませんので」


 沙々羅はそう断ってから、颯と真菜を順に見つめて口を開いた。

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