1-11.過去
薙。彦五瀬の弟にして現・高千穂宮の支配者。彼は5年前、彦五瀬や薙の両親亡き後、末弟継承の理に則り、8歳の若さで支配者の座に就いた。しかし、それを契機に、薙の瞳の色に変化が生じた。穏やかだった澄んだ瞳が、どす黒い濁りを持ったのだ。
彦五瀬によると、彼らの両親はこの地方の領有権を巡る争いの最中、一人の男の手によりあっけなく命を落としたのだという。
あの日、一人の女性が数人の供を連れ、
北からやってきた一族は無益な争いを嫌い、和平の道を模索するが、熊襲にとって、彼らはただの侵略者でしかなかった。両者は幾度も衝突し、互いに血を流した。やがて一族の中でも、熊襲を相容れない者と断じて征伐すべきだという声が高まり、どちらかが滅びるまで終わらない総力戦勃発の様相を呈していた。
そんなある
そして――女性は戻らず、戦端は開かれた。
対峙する両軍。怒りと憎悪、悲しみなど様々な感情の渦に飲み込まれた夫の目の前に、変わり果てた女性の姿が飛び込んできた。熊襲の軍の前、一糸纏わぬ姿で木の板に縛り付けられ、両足を大きく開いた姿勢で固定された女性の周りに、多くの男たちが集っていた。
凄惨な拷問の後を肌に残した女性は、既に事切れていた。戦を前にして猛る男たちへの生贄にされた女性は、死して尚、蹂躙された。
彼女の夫は絶叫した。全身からどす黒い気配を立ち昇らせた彼は両刃の鉄剣を鞘から抜き去り、渇いた薄ら笑いを浮かべながら振り回した。傍にいた一族の有力者が何人も犠牲になった。
そして、一族の兵士の矛と弓が夫に狙いを定めたとき、それを制して彼に近付く二人の男女がいた。二人は左右から親友を押さえ込み、彼を正気に戻そうと言葉を投げかけた。
しかし、狂える夫が我に返ったとき、二人は刃に貫かれていた。近くで見守っていた幼い少年がその場に崩れ落ち、泣き叫んだ。夫は嘆き、自らの首に剣を突き立てた。
その後、戦は熊襲優位に進むが、二人の後を継いだ薙の手により徐々に持ち直し、現在では多くの熊襲を従えるに至る。
「そして薙は自らを日の神の御子だとして、我が一族をこの地に追いやった者らを廃し、東にあるという楽園をも手中に収めるべく、武力を背景にこの地をまとめ上げた。だが、人を人と思わない自分本位で強引な手法に反感を示す者も少なくない。だからこそ、颯や真菜が現れ、民の心が揺れるのが気に入らなかったのだろう。実際はどうであれ、二人が与えた影響は大きい」
彦五瀬は真っ直ぐ颯と真菜を見据え、深々と頭を下げた。
「どうか私に免じて薙を許してやってほしい」
「頭を上げてください。過程はどうあれ、僕も真菜も無事だったんですから。なぁ、真菜」
「うん。気にしてないよ。だから五瀬さんも気にしないで」
彦五瀬は一呼吸置くと、ゆっくりと顔を上げる。その表情には決意の色が強く表れていた。
「すまない。もう二人に手出しはさせない」
真摯な眼差しが二人を貫いた。
薙との邂逅から数日が経過した。その間、再び薙がやってくることもなく、穏やかな時が流れた。いずれ東を目指すという彦五瀬の言葉を胸に、颯は三輪山に辿り着く日を思い描いた。
彦五瀬や伽耶が良くしてくれることもあり、颯も真菜も、過去での暮らしに順応し始めていた。特に真菜は古代の世界を堪能すべく、伽耶との散策で日々を過ごしている。仲良く歩く二人の姿は姉妹のように見えた。天之尾羽張を持たず、言葉がほとんど通じないにも関わらず、ある程度意思の疎通ができているのを不思議に感じた。
その日も真菜は朝から伽耶を引っ張って高千穂宮内を練り歩いている。一方、颯は彦五瀬の巡察に付き従って宮外の村落に向かっていた。
「付き合わせて悪いな、颯」
「いえ。一人で部屋にいても退屈なだけですし」
「ははは。真菜はまた伽耶を連れて散策に興じているのか?」
「ええ」
「そうか。伽耶を世話役に据えたのは正解だったようだな」
ふと、彦五瀬が遠い目になった。颯が僅かに首を傾げる。
「二人には感謝している」
何のことかわからず、颯は隣を歩く彦五瀬の顔を眺めた。そんな颯に気付いた彦五瀬が相好を崩す。
「ああ、すまん。最近、伽耶が明るくなったと思ってな」
「伽耶ちゃんですか?」
「ああ。あの子にはいつも無邪気に笑っていてほしいと願っている。思金の孫娘としてではなく、もちろん私の身内としてでもなく、ただの一人の
そう言う彦五瀬の瞳はどこまでも真摯だった。青空の下、穏やかな風が葉々を揺らし、心地良く肌を撫でた。
「申し上げます!」
先行していた兵士が駆け寄り、彦五瀬命の前で
「何事か」
「この先の村落にて、目的不明の一団が滞在しているとの情報を得、子細を確認しようといたしましたところ、突如、薙様の手勢が大挙して押しかけた
「何! 颯、とにかく急ぐぞ」
「はい!」
彦五瀬が駆け出し、颯もそれに続く。世界を明るく照らす日の光を、入道雲が遮った。颯が息を切らしながら自身の胸に手を当てると、心臓が強く脈打っていた。それは走っているからだけではない。
なぜか、胸騒ぎを覚えた。
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