第5話 フィードバック電流確認 前
フィードバック電流確認 前
※
七月七日、木曜日。
昨日も雨が降った。その影響で湿度が非常に高く、むしむしとした空気が世界に纏わりついている。七月に入ってからはずっとこんな感じだった。
不快。
そんな今日、七月七日は、水岡しのぶの三十回目の誕生日である。世間一般ではめでたい日であるが、本人にとって喜ばしい思いはなく、だからといって、漠然とした焦燥感もなく、三十代に入った特別な感覚も皆無であり、昨日と変わることのない日常の延長戦を過ごしているのだった。
午前十時。
(よし、直った)
先月の衣替えにより、作業着の上は薄手の半袖になっている。長袖はジッパーだが、半袖はボタンが六つで、水岡はすべてきっちりと留めていた。
(コンデンサ交換して修理完了っと。にしても、なんであんな部品がショートしてたんだろう? これはメーカーに解析依頼しとかないといけないなー。まあ、どうせ『過電圧破壊』って判定で、発生原因は曖昧になるんだろうけど。なにはともあれ、修理できてよかったよかった)
水岡が電源を入れ、解析前は点灯しなかったLEDが点灯するようになったLO品を満足そうに見つめてから、電源をOFFにした。電源ケーブルを外して、作業台に載っているLO品本体や解体した部品を近くにある台車に移していく。解析が終わったので、これから製造現場に戻して再試験してもらうのだ。ちゃんと修理したので、間違いなく試験にパスするはずである。
(で、残りは……うわー、まだ十台ぐらいあるなー……)
LO品置き場として活用している専用棚と、残数があまりにも多いために臨時に敷いた黒色パレットには、LO品が十台以上置かれていた。三月まではこんなことなかったのに、四月に入ってからこの状況が日常となり、一向に改善の兆しが見られなかった。
(まったく、どうなってるんだか?)
今はいないLO解析の担当者の黒縁眼鏡を頭上に思い描いては、肩を大きく上下させて息を吐く。
水岡は台車の取っ手を握り、押して通路に出ようとしたタイミングで、視界に赤茶色の作業着を着た後輩の姿を発見した。徐々にこちらに近づいてくる姿に、水岡は吐息するとともに、肩を小さく上下させる。
「はい、おはよう、黒岡林君」
「……おはようございます」
「今日も遅刻したんだー。ここんとこ毎日こんな感じだね」
連絡なく午前八時半の朝礼に姿を現さなかった先月の十三日以降、黒岡林は一日としてまともに出勤することができていなかった。体調不良を理由に休暇を取るか午前休暇を取るか、今日みたいに遅刻をするか。ただ、その理由が『体調不良』となっているため、教育係の水岡もあまり強く言うことはできない。『パワハラ』という強烈な言葉が、この西B工場には色濃く残っていることも影響していた。
「ほら、君が担当しているLO品があんなに溜まってるし、遅刻してたらはんだ付けの練習ができなくなっちゃうよ。今度こそ資格取らないといけないんだから」
「……すみません」
「あ、そうそう、そこの二台は、黒岡林君が昨日現場に戻したやつだけど、同じエラーでまた戻ってきたみたいだから」
同じエラーで戻ってくるということは、まだ修理ができていない状況で現場に再試験を依頼したことを意味する。
つまりは、解析ミス。
「ちゃんと解析してね。エラーになるものを何回も試験しないといけない現場の人のことも考えてあげてね」
黒岡林がまともに出勤できなくなった時期から、こういうことが増えていた。黒岡林が解析をして製造部門に返しても同じエラーでNGとなるのである。それを残業時間に水岡が代わりに解析すると、ちゃんと原因が残っていてまだ再試験を依頼するような状態でないことが分かる。
また再試験を依頼する際、解体して取り外したユニットの部品を一緒に返し忘れて製造部門からクレームが入ることも二日に一回ぐらいのペースで発生していた。その対策として、水岡は解析が終わって再試験を依頼する前に確認する項目を資料化し、そのチェックシートを埋めてから返却するように黒岡林に指示している。しかし、ここまであまり効果は得られていなかった。
水岡の頭を悩ます事態である。
「機械って正直だから、悪いものはどうあったって悪くって、何回試験やったってNGになるんだよ。学校のテストみたいに何回も受けてればその内おまけでOKにしてくれる、なんてことないからね」
「…………」
「あと、現場に戻す前に関連部品がちゃんと全部揃ってるかどうかをチェックシート使って確認してね。せっかく黒岡林君のために作ったんだから、面倒かもしれないけどしっかり活用してほしい」
「…………」
「最近、そうして返事もしてくれなくなったね……」
目の前の相手がずっと俯いている状態に、水岡は天井の照明を見つめた。
「あのさ、黒岡林君って……」
水岡は鼻からゆっくりと息を出して、前から気になっていた疑問をぶつけてみることにする。
「もしかして、朝が弱い人だったりする?」
「……朝、ですか?」
「体調不良ってことで遅刻したり午前休を繰り返してるみたいだけど、今まで午後休はあんまりないから、もしかしたら体調が悪いうんぬんってより、単純に朝が弱い人なのかなって」
「……どうしたらいいですか?」
「えっ……」
直面したやり取りに、水岡の表情が固まる。
「あ、いや……その『どうしたらいいですか?』って、今の受け答えにちっともマッチしてないよ」
「…………」
「……まあ、いいや。せっかく出社したんだから、ここにあるLO品を少しでも減らしておいてね。いや、減らしておいてねってより、本来は全部君の仕事だから、責任持ってしっかりね。じゃあ」
水岡は解析が完了したばかりのLO品を載せた台車を押していく。今までいた解析エリアに後ろ髪を引かれる思いがとんでもなく強いが……首を振った。水岡には水岡の仕事があり、いつまでも黒岡林の代理でLO品の解析をやっているわけにはいかない。ここは黒岡林に任せて、一刻も早く事務所に戻らなければ。
(にしても、黒岡林君、ほんとに大丈夫かな? この前なんて、電車乗ってたら気持ち悪くなったとか言って、途中下車して漫画喫茶で寝てたらしいけど。うーん、電車を降りて改札を出て漫画喫茶の受付ができるなら、その間に電話の一本もできそうなもんだけど、それができないのが謎なんだよね……)
さっぱり理解できない黒岡林の言動や行動に、水岡の頭上に巨大なクェスチョンマークが派手に点滅しながらゆっくりと回転している。
(まあ、頑張ってもらうしかないか)
台車を押していく。
※
七月十三日、水曜日。
午後二時。
部品メーカーから送られてきた報告書の確認を終え、席のある事務所から解析エリアに足を運んだ水岡は、目の当たりにする光景に大きく溜め息を漏らすこととなる。最近、こんなことばかりだった。
(うわー、まーた黒岡林君が解析したLO品が同じエラーで戻ってる。なんか、あいつの解析、いい加減なものになってないか?)
当の黒岡林は例によって体調不良のため午前休暇を取得していたが、しかし、昼を過ぎてもまだ出社できていなかった。今は内川係長が安否確認の電話をしているが、つながらないという。
(あいつ、ほんとに、どうなってんだ? あ、もしかして、これが俗に言う『最近の若いやつらときたら』ってことかな?)
腕組みをして眉を寄せる。
(いや、いくらなんでも遅刻やいい加減な仕事に若さは関係ないか。って、あいつそんなに若くもなかったんだ)
黒岡林は大卒入社二年目だが、今は二十六歳。
(よし、今日も代わりに頑張りますか)
水岡は、ここのところずっと遅刻する黒岡林に接しているせいか、最近自分が遅刻する夢を見るようになっていた。入社してから一度も遅刻なんてしたことないのに、『朝起きたら九時で、遅刻だぁーっ!』で本当に目覚めるのである。結構な汗が出ていること、不快で仕方なかった。
嘆息。
(えーと、今回のは『フィードバック電流不良』か。あれ、これって、そんなに難しい不良じゃない気がするけどな、なんでこんなので手こずってるんだろ? 謎だ。えーと、試験の測定値が『マイナス1092』で正常が『マイナス20から20』か。うん、再試験してもマイナスに大きな値が出てるぐらいだから、どこかおかしいことは間違いなさそうだけどな……)
今回の試験内容は、モジュールを動かす際の電流を制御回路までフィードバックさせ、その値が正常であるかどうかを確認するもの。今回のはまだ動かす前の値をフィードバックして計測しているため、専用の設備で実際にモジュールを動かして電流を流さなくても、通電してコマンドを打って値を出せばいいだけのこと。正常なら『0』に近い値が出るはずである。
つまりは、電流を流していない状態の『0』という値が出ることを確認しているに過ぎないのだった。
(あれ、ちゃんと出てるな……)
通電してフィードバックしてきた電流値を確認するためにコマンドを打ったところ、表示された数字は『5』で判定値内のものだった。正常である。もう一回やってみるが、変わることはない。
(どうやら黒岡林君はこれを確認して再試験を依頼したみたいだな。うん、判断として間違っていない。もしかしたら設備でうまく計測できていないのかな? あ、いや、それなら他のユニットでもNGになるか。そうなってないってことは、やっぱりどこかおかしいんだろうな。よし、波形でも見てるか)
水岡は、工具や計測類が保管されている後方の棚から、信号の波形を確認するためのオシロスコープを取り出した。電源ケーブルをつなげてコンセントにつなげて電源をON。LO品の関連回路に波形を取るためのプローブを当ててみるが、
(うーん、しっかり0Vと5Vの波形が出てるなー……)
オシロスコープの画面では、0Vと5Vが交互に出力される交流波形を確認することができた。これで波形もよし、コマンドでも正常値が確認できているため、問題はないはずである。
なのに、再試験でNG?
(うわ、弱ったなー、どうしたいいんだろ? もう一回再試験してもらっても駄目だろうから、またフィールドに設備借りにいこうかなー……)
そうして水岡が今後の解析方法について試案しているとき、
(っ……?)
通路の方から水岡のことを呼ぶ声がした。顔を上げてみると、額にハンカチを当てた内川係長が立っていたのである。
「あれ、係長、どうかしました?」
「仕事してるところを申し訳ないんですけど、今からそこの会議室にきてもらってもいいですか? ちょっと急ぎの要件がありまして、お願いします」
「あ、はい、分かりました」
上司の内川係長に呼ばれたので、水岡は解析を中断して即座に席を立つ。呼ばれたことに小さく首を傾げながらも。
(係長が急ぎって、珍しいけど……何か問題でもあったのかな?)
その視線は、前を歩く大きな背中に向けられていた。
※
西B工場南側に位置する会議室。テーブル四つを揃えて大きな長方形の島を形成しており、椅子が十個設置されていた。扉に近い場所にホワイトボードが置かれているが、今は何も書かれていない。ここはよく製造部門が打ち合わせに使っている場所で、水岡はあまり利用することがないが、今は品質管理の二人しかいなかった。
「いやー、少しややこしいことになってしまいました」
入口近くに腰かける内川係長は、額にハンカチを当てながら、斜め前にいる水岡に顔を向ける。
「実はですね、さきほど黒岡林さんとようやく連絡がついたのですが……なんでも、昼から直接本館の方にいったらしいのです」
本館は敷地の東側にある三階建ての建物で、経理や人事といった総務部がある場所。
「黒岡林さんは自分の仕事について直接総務に相談しにいったみたいなんですよね」
「えっ、相談ってことは……異動願いみたいなものですか?」
「そうですね、そういうものだと考えてください」
「異動、ね……」
四月に配属されたばかりの黒岡林が、まさかこうも早々と品質管理の仕事を投げそうとするとは……教育係である水岡にはショックが大きかった。
ただ、ここ最近の乱れた勤怠からすると、そう願い出るのも頷けるところはある。誰にだって向き不向きというものはあるものだから。
「まあ、遅刻ばかりしてますし、本人の前では言ってませんが、今の仕事は黒岡林君には向いてるようには見えないですね……」
解析エリアに溜まるLO品の数々。結果は芳しくない。
「そっか、あいつ、そんな希望を出してるんだー」
「総務や人事が本館でいろいろと話し合いがあった結果なのですが、どうやら黒岡林さんは明日から暫く休むこととなったみたいなのですよ」
「はぁ!?」
思わず引っ繰り返る声。水岡の目が丸くなる。
「えっ、休むんですか? えっえっ、異動願いはともかくとして、なんで休むことになるんですか?」
「傷病休職というやつです。水岡さんには言ってませんでしたが、黒岡林さんは病気といいますか……その、産業医の面談に何度も足を運ばせていました。たまに午前中にいないのはそれです」
「えっ!? あれって遅刻じゃなかったんですか?」
「あ、いや……ほとんどが遅刻なんですけどね、たまに出社してから産業医と面談していたわけです。ああ、これは去年の研修を受けていたときから継続されてきたことだったみたいです」
黒岡林は去年から定期的に産業医と面談をしていた。『体調不良』を理由に、幾度となく遅刻をしている状態だったのだが、新しい環境となった四月から少し改善が見られた。配属された当初は遅刻も当日休暇もなかったが……先月からまたまともな出社ができなくなっていたのである。
「そういったことは当然人事にも連絡がいきまして、人事部長の判断で今回の傷病休職ということとなりました。ああ、産業医だけではなく病院の医師の診断が決め手ではあるんですけどね」
「病院にもいってたんですか?」
「事前に休みが決まってたときは、そうでしたね」
医師の診断は『鬱病』で、仕事によるストレスが原因としていた。
「ですから、黒岡林さんは明日から暫く休みになります。期間は未定なのですが、とりあえずは三か月ですかね。以後は調子を見て、産業医や人事が判断します」
「そうですか、あいつが鬱病ですか」
首を捻る水岡。黒岡林の振る舞いは、鬱病というより、『自分のことばかり』のわがままのように映っていたから。
「それって、医師が『異常なし』って診断して問題があったら困るから、責任持ちたくなくて鬱病ってことにしたんじゃないですか?」
普段から近くで接している水岡には、とても病気が信じられない。
「怪しいなー」
「実際のところは本人にしか分からないところですが……医師が病気として診断して、会社も黒岡林さんのことを病人として判定しましたからね、我々はそれに従うしかありません」
まだ会議室には入ったばかりなので、エアコンの風はさほど涼しいものではない。内川係長はハンカチを持っていない左手で顔を仰いで小さな風を送る。
「そういうわけですので、水岡さんには新人教育をお願いしてさんざん苦労をおかけしましたね。申し訳なかったと思います」
太い首で一度お辞儀をする。
「ただ、こういう状況ですので、申し訳ないついでにといってはなんですが、これからは黒岡林さんの仕事もお願いしたいと思います。構いませんか?」
「え、あ、はい……まあ、他にやる人いないでしょうから、とても納得いくものじゃないですけど、状況が状況ですから、仕方ないですね。というより、今もほぼ代わりにやってますから」
「あっはっは。そうでしたそうでしたー」
一呼吸分の間。
「それとですね……」
内川係長は言葉を止めて、その視線を『安全第一』というヘルメットを被った若い女性のポスターに目を移してから……言葉をつなげる。
「水岡さんには、明日の午前十時に、本館にいってもらいます。今回の黒岡林さんについて、人事部が話を聞きたいということでして……」
「あ、はい、分かりました。それって、黒岡林君の普段の様子なんかを話せばいいんですよね?」
「ご迷惑をおかけしますね」
ここにきてエアコンの風が勢いを増し、ようやく冷たさを有してきた。ただ、二人の会話はここで終わりである。
※
水岡は『黒岡林が明日から傷病休職』というショッキングな連絡を受けた会議室から、LO品が置いてある解析エリアに戻ってきた。
(いやー、驚いたな、いきなり休職だなんて。まあ、最近の勤務態度からすれば、そうなるのもおかしくはないだろうけど、にしても休職かー)
普段の怠慢な仕事振りや、遅刻や当日休暇を繰り返す様子を思い浮かべる。
(あいつの場合、病気っていうよりも、今回の件で首にならなかっただけラッキーって思わなきゃいけない気がするんだけどな。うーん……)
作業台の上には一台のケースを外したLO品が置かれており、そこにオシロスコープのプローブがつけられている。さきほどまで水岡が解析していた状態であり、今もLEDが緑色に点灯しているということは、電源が入っていることを意味する。
(しまった、切り忘れた)
内川係長が解析エリアまで自分を呼びにきた珍しさに気を取られ、席を離れる際に電源を消し忘れたようである。無人エリアで何の表示をすることなく通電させていたこと、安全面で非常によろしくない。こんなのを誰かに見られたら注意されることになるが……幸いにも周囲には誰の姿もなかった。
ほっと胸を撫で下ろす。
(危ない危ない、気をつけないと)
パソコンの画面はスクリーンセイバーで消えていたが、そういったものがないオシロスコープの画面には今も交流波形が映っている。水岡は通電している電源を消そうとして……目に映ったオシロスコープの波形に、手を止めた。
「潰れてる……」
思わず口から出た言葉。目にした波形が、縦に潰れていたのである。
先を離れる前までは0Vから5Vの交流波形だったのに、今は2Vから5Vの波形となっていて、底の部分が上がっている分、波形が縦に狭くなっているのだ。
(これだ)
水岡の見解は……今回のLO品は、そうして波形が潰れているせいで、正常に値が計測できずに、出荷試験では『0』が出たのだと推測した。
では、席を離れる前は正常で、今は異常な状態。その違いは、
(時間か)
通電時間による影響。
最初に通電したばかりの頃はしっかり0Vから5Vまで波形が出ていた。なのに、会議室から戻ってきたら波形がおかしくなったのは、通電時間によって正常なものが異常なものに変異したからと推定したのである。
(よし、もう一回電源を入れて、波形がおかしくなる時間を計測してみよう)
まさに瓢箪から駒のように、水岡はようやく解析の手がかりを見つけていた。
(これって、ほんとに遠-い意味では、黒岡林君のおかげかもしれないな)
解析が前に進む。いいことである。
その後、通電から五分ぐらいで関連信号の波形がおかしくなることが分かった。また、ドライヤーで熱風を当てたところ、十秒ぐらいで波形がおかしくなることが確認できたため、熱ストレスでも異常が確認できることが判明したのである。
関係する集積回路のICを交換したら正常なものになったため、IC不良と断定することができた。データを受け渡しするインターフェースの部品であり、熱によって出力異常が起きる状態にあるのだろう。
水岡は取り外したICを部品メーカーであるテキサスワールドに解析依頼していた。
※
七月十四日、木曜日。
午前十時。水岡は昨日会議室で内川係長に指示された通り、人事部のある本館会議室を訪れていた。
(えっ……!?)
内容は休職が決まった黒岡林についてだろうから、てっきり黒岡林の近況について質問されるものだと思っていたが、そこで展開された内容はあまりにも水岡の想像を超えるものであり、人事部とのやり取りは、ただただ自身の正当性を訴えるために躍起となる結果となる。
『配属されたときからまともに仕事を教えてもらえなかった』
いえ、そんなことありません。黒岡林君にはLO品の扱いや通電の仕方、検査仕様書の見方などなど、一通りのことは教えました。ただ、もし黒岡林君がそう言ったのであれば、本人が覚える気がないからだと思います。その、黒岡林君はいくら教えてもメモを取ることをしませんでした。その影響で、同じことを何度も尋ねられることとなり、それを指摘したことはあります。
『まだ仕事をやれると主張したのに、無理矢理家に帰らされた』
無理矢理家に帰すなんてことはしてません。それはきっと体調が悪くなった日のことを彼が言ったのだと思いますが、見るからに顔色も悪かったですし、上司の許可を取って途中で家に帰るように指示しただけです。だいたい、誰に許可を取ることも連絡することもなく、他部門の作業現場で勝手にしゃがみ込んでたんですよ。それについて製造部門からもクレームがあったぐらいですから……とにかく、僕は彼の体調面を考慮して早退を申し出ただけです。彼もそれは承諾して早退したと考えています。もちろん、上司の許可も取りました。
『資格がないことをみんなに言い触らされて馬鹿にされた』
でたらめです。彼が去年の研修で資格試験に落ちて無資格であることは知っていました。だから、一人で勝手に作業しないことを指示しましたし、今年こそ資格が取れるように毎朝十時まで練習時間に当てるようにしていました。そういった対応はしましたが、彼が無資格であることを誰かに言い触らすなんてことしてませんし、誰も彼のことを馬鹿になんかしてません。
『彼女に振られたことを笑われた』
えーと……彼女に振られたことについて、相談させてほしい? だったかな、そんなようなことはありましたが、それはあっちが言ってきたことです。もちろん仕事が終わってから相談にも乗りました。ただ、振られたことを笑ってなんかいません。えーと……そうなった原因といいますか、彼女曰く『自分のことばっかり』というのが振られた原因らしくて、ただ、本人にはその自覚がないみたいだったので、少し彼女の立場になって考えてみればどうかとアドバイスをしました。『自分の発言や行動が、相手の気持ちを考えずに自分のことばかりになっているなら、改善した方がいい』といった感じです。
『会社帰りに三人で飲み会にいって、一人だけ除け者にされた』
飲み会の経緯としては、彼が製造部門の女性を食事に誘ったことが発端です。それも仕事中にしたそうなので、そこはちゃんと注意しておきました。それで彼がその女性に言われたのが、『二人ではいやだけど、水岡も誘って三人なら参加してもいい』ということだったみたいです。だから彼は僕にも参加するように頼んできました。僕はあまり乗り気ではなかったのですが、彼がご馳走してくれるということもあり、渋々といった感じで承諾しました。ああ、そうそう、そうなんです。彼曰く、『今回はすべて自分が奢る』って理由だったんです。にもかかわらず、誘った女性が彼の隣じゃなくて、僕の隣に座ったことが気に入らなかったみたいですね。『どうして自分が払うのに女性が自分の隣に座ってないんだ』って怒ってました。で、そのまま怒って帰っちゃいましたね。それ、未会計で、ですよ。結局その日は僕が三人分払うことになりました。それなのに、どうして『除け者にされた』なんて僕が責められなきゃいけないんですか? うわ、なんか、思い出したら腹立ってきたなー。
『仕事の際、自分だけチェックシートっていう手間を押しつけられて、露骨な嫌がらせを受けている』
そうですか、彼には『嫌がらせ』と捉えられていたわけですね……もちろん、嫌がらせなんてしてません。黒岡林君がLO品を製造現場に返す際、一緒に戻さなきゃいけない部品をよく返し忘れることがありまして、製造部門から何度もクレームをもらっていました。その対策として僕がチェックシートを作成し、暫く彼に使うように指示しただけです。これは教育や指導であって、断じて嫌がらせではありません。ああ、これは余談ですが、チェックシートを使っても、あまり効果はなく、何度も同じクレームをもらうこととなってましたけどね……。
『お前は病気なんかじゃなくて怠けてるだけだと言われた』
連絡もしないで遅刻や無断欠勤を繰り返してますから、『怠けてるな』という気持ちになったことはあります。ただ、本人を前にしてそんなこと言ったことはありません。そういうのはすべて彼の被害妄想だと思います。
『なんの連絡もなく、知らない間に自分の仕事が奪われていた』
黒岡林君がLO品をうまく処理することができずに溜め込んでいたわけです。それも許容を超えるぐらい大量に。もう置く場所がなくて、解析エリアを圧迫していました。当然、製造部門からもクレームが入りまして、改善するために、彼が帰宅してから処理できていない分を僕がやりました。具体的な数字ですと、現状、彼の処理能力では全体の三分の一ぐらいしか対応できていません。残りといいますか、足りてない分を僕が残業時間を使って対応しただけです。彼の仕事を奪ったっていう意識はないですし、そもそも、そのことは彼にちゃんと伝えています。
『大勢の前で馬鹿野郎! と大声で怒鳴られた』
間違いなく宇之松班長と勘違いしていますね。彼がそう怒鳴られているのを聞いたことがありましたから。これについて疑うようでしたら、彼が言った『大勢』に確認してみてください。そんなことしていないので、『大勢』なんて人は一人もいないはずです。
水岡が本館の会議室に呼ばれたのは、休職した黒岡林が水岡にされた事実確認であった。黒岡林はそれをパワーハラスメントだと訴えていたのである。もし問題があるようなら、加害者である水岡に処分が下ることとなるのだ。
ただ、同席した内川係長と、去年の黒岡林を指導した研修課長のフォローもあり、即座に処分が下ることはなかった。が、今後この流れがどうなるか、水岡になんらかの処分が下るのかは、現在は保留状態にある。
水岡は、この日の会議室でのことを振り返ると、気分がめげてしまう。これまで自分なりに考えて指導してきて、ようやくできた後輩に期待していた気持ちが大きかっただけに、自分がいない場所であることないこと嘘をつかれ、ましてやパワハラの加害者として陥れられそうになっている現状に、思わず人間不信になりかけるのだが……ただ、内川係長をはじめ職場のみんなはやさしくというか、いつも通りに接してくれていたことで、どうにか精神のバランスを保つことができていた。そのおかげもあり、翌日からもしっかり労働意欲を持って出勤することができたのである。
※
七月二十七日、水曜日。
連日の気温三十五度に、食欲が減衰する一方な毎日。満員電車の空調が弱く、圧迫感が五割増しになる通勤にげんなりする日々がつづいている。
そんな、水岡にとって四季で四番目に好きな夏の日、ショッキングなできごとが仕事で起きていた。
(嘘でしょ!?)
事務所で見ていたパソコンの画面に、思わず水岡の双眸が見開かれることとなる。目の当たりにしたものが、とても信じられるものではなかった。
(解析省略ぅ!?)
送信されてきた報告書には、これまで見たことのない仰天の内容が記載されていたのである。
先日のLO品解析で見つけたテキサスワールドのIC不良の件。熱ストレスで波形が潰れる珍しい不良を部品メーカーに解析依頼したところ、部品メーカーでも不具合を再現することができたという。だというのに、報告書はそこで解析が終了していたのだ。ICを開封すらすることなく、それ以上の原因を追究もしないで、それ以後は解析省略となっていたのである。
部品メーカーが不具合現象を確認したのに、そこで解析省略なんてこれまで経験したことがなかった。水岡は慌ててメーカー、テキサスワールドの窓口である営業担当の
「木村さん、送っていただいた報告書に目を通したんですが、途中から解析省略ってどういうことですか? ちゃんと開封して原因をはっきりさせてくださいよ。こんなんじゃ、解析依頼した意味がないじゃないですか」
『ああ、あれね。大変申し訳ありませんがね、弊社の方針で同一不良が十個以上ないと開封はしないことになってるんですよ』
「いや、そんなんじゃ、何が悪いかなんて分からないじゃないですか」
『弊社の方針ですから、申し訳ありませんね。恐縮ですが、たった一個のために、わざわざ開封作業をする必要なんてありますか? ありませんよね。だって、たったの一個なんですから。そんな一個のために時間は割けませんねー』
「そんな……」
拒否されたこと、水岡は言葉を失うしかなかった。ただ、仕事である以上、ここでおめおめと引き下がるわけにはいかない。
「あの、どうしても駄目なんですか? 御社から不良品を納品されているのに、そんな対応をされたんじゃ、これから先、品質面で御社の製品は、その、なかなか使いにくくなっちゃうと思うんですが」
『あ、はい、それは仕方がないですね』
「へっ……仕方がない?」
『はい。どうしても気に食わないようでしたら、弊社の製品を使っていただかなくて結構です。他社で代用できるのでしたら、どうぞどうぞ』
「嘘でしょ……」
絶句。営業担当者が品質面の対応を渋って自社の製品を売り込まずに、まさか他社製品を進めるなんて。
ただ、それは世界を股にかける大企業、テキサスワールドだから言えたことなのかもしれない。製品と販売網に自信があり、他に代わるような部品がないという自負があるのだろう。また、部品は世界規模で多く発注されているため、解析依頼される部品の一個にさほど時間をかけていられないし、そのせいで評判を落とすなんてことも気にかけていないのだろう。顧客は世界に数多くいるのだから。
「そこをどうにか、もうちょっと詳細な解析してもらえないですか? せめて開封して内部観察だけでも。そうすれば何かが分かるかもしれませんし、見つかっていない不具合を改善できるかもしれませんので」
『大変申し訳ありません。これが弊社の方針ですので対応はいたしかねます。他のご用がないようでしたら、これで失礼いたします。また弊社の製品がご利用になりました際は、ご連絡の方をよろしくお願いします』
「わっ……切られちゃった……」
ただただ受話器を見つめるしかない水岡。こんなの初めて。とても腑に落ちることではないが……だからといって他社の方針に口出しできるものでもない。本当にいやなら、やはり購入しなければいいだけのことだから。
ただ、そんなすぐ代用品が見つかるかといえば……難しいだろう。そもそも、そういったことは設計部門のやることで、品質管理課の水岡にはどうすることもできない。
「…………」
成すすべがなく、視線をパソコンのキーボードに落とす水岡であるが……意識して小さく息を吐く。
(まあ、メーカーも不具合を認めたことだし、これはこれで終わるしかないのかもしれないな。詳細解析してもらえなかったのは残念だったけど、向こうが言うように一個は一個だから、気にしないでおこう。うん、それがいい)
視線を上げた。
(にしても、こんなんじゃ、次があったときに困っちゃうなー……)
これまで通り部品を購入する方はきっと円滑に回るのだろうが、水岡のような品質を向上させようとする部署にとって、部品メーカーにああいう対応されると、二進も三進もいかなくなる。社内のことなら上司を通してどうにか頼むこともできるが、社外のことだから、下手に無理強いをするわけにもいかず、やれる術があるとすれば……やはり設計部門に他メーカーの製品を使うように頼むしかない。
(よし、もう二度とテキサスワールドの部品に不具合が出ないことを祈るしかないな。って、あそこの部品、結構数使ってるから、無理っぽいけどなー……)
そんな水岡の願いは、本人が予想した通りに叶えられることはなく、これから先、とても大変な事態に見舞われることとなる。なぜなら、どんな会社のどんな工場でも製品を作っている以上、不良は出るものなのだから。
それが世界規模の大企業だったとしても、例外はない。
※
午後二時。
(…………)
近々ベアボードメーカーの工場監査があり、出席者で事前打ち合わせが本館の会議室で行われる。そのため、水岡は西B工場の事務所を出て下駄箱にやって来た。
(っ!?)
履いている白色の静電防止靴を脱いで下履きと入れ替えようとしたタイミングで、その双眸が大きくなる。
なぜなら、目の前に思いもしない驚きが訪れたから。
「えっ、黒岡林君んん!?」
そこには、現在休職している黒岡林が立っていたのである。半袖のTシャツにジーンズ、相変わらずの黒ヘルメットのような髪の毛に黒縁眼鏡をかけ、あちらも驚いたように口を半分開けた状態で水岡のことを見つめていた。
自然と水岡の首が傾いていく。
「あれ、どうしたの? お休みしてるって聞いてるけど」
人事異動通知でもはっきりと『傷病休職』と出ていたので、間違いない。この時間、この場所に黒岡林がいるはずがないし、いていいわけもない。今は無闇に出歩くことなく、家で安静にしなければならないのである。
「どうしたの?」
「あ、あの、いや、その……」
さっと視線を落とした黒岡林は、落ち着かないように体を小さく左右に揺らしつつ、俯いたまま言葉をつなげていく。
「その、すみませんでした……」
「えーと、休んでることを謝ってる?」
水岡は大きく瞬き。
「どうして君がここにいるのか知らないけど、こんなとこにいちゃ駄目だよ。そうやって本人は出歩けるのかもしれないけど、君は病人ってことで休職扱いになってるんだから家で安静にしてないと」
「きょ、今日は、その、本館で面談があったんです」
入院をしているような重傷者を除き、休職している人間は、月に一度の面談が義務づけられている。
「それで、その……ロッカーに作業着が置きっぱなしになってるから、持って帰って洗濯しようかと思いまして」
「ああ、面談があったんだ。へー」
「その……」
さきほど下がった黒岡林の顔が、まだ上がることがない。
「本当に、すみませんでした」
「ああ、気にしなくていいよ。黒岡林君がいないけど、LO品は落ち着いてて、なんとか仕事は回ってるから」
実際、不思議なほどに仕事は順調に回っている。あんなに溜まっていたLO品は、水岡が代わりにやることでみるみると減っていったのである。常時十台以上あったものが、今は二、三台程度で、多くても五台を超すことはなかった。
なぜ一人減った状態で滞っていた仕事がうまく流れるようになったのか? それを水岡は黒岡林を前にして口にすることはない。絶対ない。『そんなのやる気と能力の差だよ』だなんて、口が裂けても言うことはできない。
「だから、気にしなくていいから、家で安静にしてなよ」
「あ、いや、その……すみませんでした。その、いろいろと……」
「いろいろ、ね……」
黒岡林が口にした『いろいろ』を耳にした水岡の脳裏に過るのは、本館会議室で人事部の人間にパワハラを責められたこと。あれらすべては黒岡林の証言に基づいたもので、とても事実とはかけ離れた言いがかりにしか思えなかった。当然、そんなことをされていい気分になるものではないが……だからといってここで責めても仕方がない。責めたい気持ちはとてつもなく大きなものだが。
しかし……やはり笑って許せることではなかった。
「あのさ、『馬鹿野郎!』なんて僕は君に言ったことはないし、そもそもそんな言葉を口にしたことがない。きっと宇之松班長と勘違いしてるんでしょ。あと、飲み会で無視されたっていう件だって、僕は無視なんかしてないし、だいたいあの飲み会は君の奢りのはずだったのになぜか僕が払うことになってるんだからね」
「…………」
「僕のいないところであることないこと言われちゃうと、やっぱり気持ちがいいもんでもないから。よく覚えておいて」
「あ、はい、すみません……」
変わらずに俯いている黒岡林だったが……しかし、その口角が僅かに上がる。
「本当に、すみませんでしたー。これから気をつけまーす」
ここにきてようやく上がる黒岡林の顔には、歯を出した笑みが貼りついていた。
「ちゃんと気をつけますねー。それじゃあ、早く帰りたいで、これで失礼しまーす」
「…………」
へらへらと笑いながら擦れ違った黒岡林に、水岡は寒気のようなものを感じることとなった。
(なんだ、あれ……)
水岡が人事部に呼び出され、責められたことを、黒岡林が楽しんでいるように見えたのである。まるでそうなることを狙ってやったかのごとく。
自分の発言によって、水岡にハラスメントの処分が下ることを願って。
陥れようと、して……。
「ちょ……」
遠ざかっていく黒岡林の背中を引き止めようとしたが……直後にロッカールームに消えていったし、水岡にはこれから打合せがある。だいたい、あの状態の黒岡林と関わらない方がいいと思った。
言いたいことはたくさんあるが……すべてを呑み込むこととする。我慢すること、大事なこと。
「……はぁ」
水岡は小さく息を吐き、下駄箱を後にする。
その頭では、どこか歯車が狂いはじめていることを自覚するのだった。
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