第5章 瑠璃色の海に誓って
K大学法学部の面々
森川しおり……K大学法科大学院・今井研究室M2
その他の人物
リ・スビン……留学生・道玄酒場アルバイト
リ・スア……留学生・服飾専門学校
碑文谷警察署の面々
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救急隊員と警察が到着すると、二人は下へ降りて、パトカーの後部座席に座った。三台のパトカーが居る。降りてきた人の全員が、知らない人だった。現場には規制線が張られ、誰も近づけなくなった。野次馬がこちらを見ている。二人の警察官が近づいてきて、海の近くにしゃがみこむと、
「今話せるかい」と言った。小さな子供に話しかけるみたいに、丁寧に言う。
「はい」嶋田は近くにいない。前のパトカーに乗っているらしい。
「身分証明書見てもいい?」
海は財布から紫色の学生証を取り出すと、警察官に渡した。
「九十九海さん、二十一歳だね?」
「はい」
「発見したのは、君?」
「いいえ、嶋田が、前に乗っている彼が最初に発見しました。僕は玄関に居て、靴を脱いでからそのまま同じ場所に立ってました」
「なにか気づいたことはない?」
「あの玄関に置いていた花は、最近買ったものです。紫色の、紫苑かな。あれは。森川は、趣味で花は買いませんし、この近くに故人は居ないと思います。実家も岩手ですから」
警察官はふうんと言って、次の話題に移った。
「見つけた時に何か触った?」
「毛布の左端、顔にかかった面を、シャツを介して触りました。後は、脈も取ったから、首筋にも指紋はあると思います。それ以外は触っていません」
「顔は最初から隠れていたんだね?」
「ええ」
「ここに来たことは?」
海はありませんと言って首を振る。
「何か、いつも身に着けていてさっきなかったものはない?備品でも、気づいたことはないかな」
「さあ、わかりません」事実、本当に分からなかった。
「ここに来たことがあるとか、よく来ていた、みたいな人は知らない?つまり……」
「恋人ですか?居たと思いますよ。でも、誰なのかは知りません。金色のマルボロを吸っている人物かもしれませが」
「マルボロ」
「前に、大学で吸ってました。今までは電子タバコだったんです。珍しいことだなと」
「分かった。今日はどうしてここに来たの?」
「森川に呼ばれました。事件の事で話したいことがあると」
「事件の事でって?」
「K大学の事件です」
「それで、話があったんだね」
警察官も、そして海も、同じことを思ったであろう。つまりは、その犯人が殺したのだと。
したがって、直近で海に話そうとした話と同じ話を(若しくは推理を説明した)した人物に絞られることになる。
「鍵は?開いてた?」
「開いてました。ベランダは見ていません」
「電話をしたのは君だね?何時ごろだった?」
「えっと、十三時を二分も過ぎた頃です」
「どうして中に入ったの?そう言われていたの?それとも、開いてたから?」
「後者です。嶋田がドアノブを捻ると、すぐに開いたので」
「扉は閉まっていた?」
「閉まっていました」
「電気もつけたまま?」
「はい」
「何か、森川扇人さんに対して感じたことはない?」
「感じたこと?」
「つまり、トラブルを抱えていたとか、そういうの」
「ないです。ただでさえ、温厚な人でした。どう考えても、K大殺人の犯人が殺害したとしか思えません」
「それは追々検討する」
救急車にタンカで乗せられ、森川は去っていった。
救急車が居なくなると、より一層、空気が重くなる。別の警察官がやってくると、「まだ時間大丈夫?ちょっともう少し話聞きたいからさ、警察署まで一緒に来てもらえる?」
「ええ」海は思いついたように「太田さんは、いますか」と訊いた。
「太田?」
「刑事課の刑事です。知り合いで、このあと話せませんか」
刑事は怪訝な顔をすると、現場の責任者らしき人物の所まで行き、耳打ちした。
刑事は小走りで戻ってくると、「太田って、
「分かりました」
「じゃあ、もう少し待っててね」
「ええ」
警察官は踵を返すと、どこかへ走っていった。とても、疲れていた。涙は出ていない。手が震えている。止める術を持っていなかった。一五分間だったか。もっとかもしれない。ただ、虚空を見つめて時間を過ごした。
それは虚無。
何も見えなかった。何も聞こえなかった。聞きたくもなかった。
気が付いたとき、海は碑文谷警察署の前で、太田に起こされた。
「さっきの捜査員から聞いた。まずは、上でまずいコーヒーでも飲みなさい」
・・・・・・
「立てるか?」
海はのっそりと立ち上がると、日差しの強さに殺意を抱きながら碑文谷警察署に入っていった。
三階まで上がると、以前と同じ部屋に通された。嶋田は、どこに行ったのだろう?姿が無かった。
「体調は?」
「倒れそうです」
「無理するな」
「ええ」
「話せるか?」
「ええ」
「じゃあ、なるべく手短に済ませるよ」太田は難しそうな顔をすると、「連続殺人、だよね」と言う。
「そうです。森川は、犯人に繋がる重要な事項を掴んだんだ。それを、犯人に話してしまった。だから、殺害されたんです」
「うん」
「もしかしたら、ゼミにいるかもしれない」
「そう思う?」
「おそらく犯人は、相当身近にいます」
「うーん、そうだねえ」
「とにかく、ゼミの人間を詳しく取り調べしてください」
「そうは言ってもね、そんな簡単じゃないんだよ」太田は静かに首を縦に振って、天井を見つめた。
「嶋田は、どうしました」
「自分のせいだって、ずっと言ってるよ。君もいずれ、辛くなる。それは明白だ。でもね、命を無碍に扱うのはだめだよ」
「警察としてですか」
「人としてだ」
「そうですか」
「あの花、世田谷駅前の花屋で買ったことがわかった」
「いつですか」
「昨日の夜。十九時過ぎだな」
「つまり、俺たちをどこかへ連れて行こうとしてたってことですか?」
「そうだと思う。でも、夕方に一人で行こうとしてた可能性もある。それに、単に趣味かもしれない」
「だとしたら扱いが下手ですね」
「そうだね。まぁ、どこかに供える為に買った花であることは、間違いないだろう」
「なんの花ですか?」
「紫苑。紫の」
「花言葉は確か、」
「天国にいる君を見守る、追憶」
「天国にいる君を見守る?なんか、随分ストレートな花言葉ですね」
「心当たりはないか」
「ええ、なにも……」
「そうか、まあ、今日の所は帰った方がいい。送るから」
「わかりました」
太田の後部座席に座り、ただ一点を見つめていた。
スマートフォンが鳴る。
「電話なってるよ」太田はそういった。バックミラー越しに、太田の顔が見える。
海は返事をせず、同じく電話にも出なかった。
「落ち着けとはいわない。でも、心まで死んでしまってはいけないよ」
海は黙って、外の風景を見ている。
何もかもが淀んでいるように見えた。歪んで、ねじ曲がっている。
「太田さん」
「なんだい」
海は深呼吸をした。しかし呼吸が浅い。
「しおりさんに、森川しおりさんに、全てを伝えてください」
「ああ、彼女はもう署に着いている頃だよ。両親は、今日の二十時頃に碑文谷署に来る」
残酷なほど、太陽が出ていた。影が伸びる。夕日は、まだ来ない。暗い夜を過ごせる自信がなかった。森川はもういない。これを、どう考えるべきだろうか。自殺という事は、まず考えられない。胸の刺し傷を両手で押さえていた。それに、自殺をする人間が、鍵を掛けたまま行うだろうか?思考がまとまらなかった。警察は、どこまでわかっているのだろうか。今、太田と議論を出来るほどの体力は、残っていなかった。自宅に着くと、ベッドに体を預けた。全身の力が抜けるような感覚に陥る。汗をかいていた。落ち着かなくなり、コンビニまで歩いた。道のりが遠いように思う。ライターとマルボロを買うと、慣れない手つきで火を付けた。風が強いのか、なかなか、付かない。火を付けると、静かに吸い込んだ。あまり、美味くはない。二本を消費すると、ポケットに手を突っ込んで近くを歩いた。居酒屋、ファストフード店、スーパー、レストラン、ドラッグストア。それらの全てが、海の感情の一切を否定しているように、煌びやかに、大げさに明かりを灯していた。車が走る。横断歩道が青になった。前に進む。そんな単調な行動の一つひとつが、重たく、億劫に思えた。ふと、スマートフォンをポケットから取り出す。
そういえば、電話が来てたっけ。履歴を見ると、森川しおりからだった。少し迷った挙句、電話をかけなおす。三回コールしたのち、彼女は「あ、九十九くん?」と言う。
「そうです」と簡単に返事をすると、彼女は少しばかり黙り込んだ。
「どういうこと?詳しく教えて」森川しおりは強い口調でまくし立てた。
「警察から、聞いていませんか」
「まだ、待たされているだけ。でも、扇人の、死亡が確認された」
「そう、ですか」
「何があったの?言いなさい」
「僕だって、憔悴してるんですよ」
「だから、何?あなたの精神状態と、事実確認に、何の因果もありません」
今度は海が黙り込んだ。否、何を話せばいいのか、分からなかった。
森川しおりは耐えかねたのか、「救命措置はしたの?現場の状況は?痕跡は?」
「なにも、ありませんでした。息も、なかったです」
「凶器は?」
「見つかっていません」
「どうして?どうしてそれを予見できなかったの?」
「予見?僕を魔術師か何かだとお思いですか。それとも、予見可能性という刑法の授業をしたいのですか」
「ふざけないで」
「ふざけてません。僕らが悪いと、そう思っているような口調です」
海は腹立たしかった。何だってこんなにも疲弊しているときに、二人から叱責を受けるのだろうと。どうして、僕のせいにされるのだろうと。
「鍵は開いていたの?」
「開いてました」
「場所はどこ?部屋?」
「ベッドの左側、部屋の中央です。毛布が落ちていて、顔だけが見えない状態でした。ベランダは確認していませんが、あれは死後十時間くらいは経っています。つまり、深夜に誰かを招き入れた。若しくは、スペアキーか何かで侵入したと考えるのが妥当でしょう。ですが、スペアキーを持っていたとすると、どうして鍵を掛けなかったのか、その意図が不明です」
「恋人はいたのかしら」
「居たと思います」
「今は、その人物が一番怪しい」
「それにしては、部屋で殺害するなんで杜撰だと思いますが」
「うん」
「今どこですか」
「碑文谷署、ずっと待たされてる。両親は、新幹線で来るから」
「そうでしたか。あの、本当にすいませんでした」
「私こそ、怒鳴ってごめん。ああ、ちょっとどうしたらいいか分からないわ」
「無理もないです。また電話してください」
海は電話を切ると、またマルボロに火を付けて煙を吐いた。これで不快な気持ちが無くなれば、そう願って。
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