第6話 カフェー・ピエットでの再会

 予想通り眠れぬまま夜が明け、眠そうな瞳を抱えた雅月あづきは今日、翔和とわと共に隣県の茗花なばなを訪れていた。

 皇崎おうさきの駅舎から小一時間ほどで着く港町には、レンガ造りの建物が並び、少しばかり西欧の雰囲気が感じられる。


「眠そうだね、雅月。だから夜、眠れるまで添い寝してあげるって言ったのに」

 すると、心地よく吹く海風に髪をなびかせ、頭上から注ぐ春の日差しを感じながら、翔和は隣を行く雅月に、小さく微笑んだ。

 どうやら、華やかなフリルをまとう日傘で表情を隠していたつもりが、ほんの少し覚束ない足取りに眠気を悟られてしまったらしい。

 だが、昨晩のやり取りを思い出した雅月は、はぁとため息を吐いて言った。

「それでは翔和が眠れませんでしょう? お気遣いいただき恐縮ですが、私はお供です。そういうことはきちんと奥様を見つけてからにしてくださいまし」

「真面目だなぁ。僕の中で雅月は対等なんだから、そう畏まらなくてもいいのに」

「ダメです。それより早くカフェーに向かいましょう」


 わずかな心配と揶揄からかいを綯交ないまぜに優しく笑う翔和を見上げ、雅月は両手で日傘を握りしめると、ぴしゃりと話題を切り替えた。

 翔和のせいで昨晩の羞恥まで思い出しそうになったけれど、それは内緒。

 だが、一刻も早く彼の興味を甘味に移すべく言うと、諦めてカフェーを指差した翔和は一転、目を輝かせて説明した。


「はいはい、あれが目的地だよ。欧州の有名なパティシエ、ピエット・オリヴァーが開いた洋菓子店パティスリーで、実際に彼の下で修業を積んだ職人が大勢いるから、本場の味が楽しめるんだ。カフェー併設の洋菓子店ってなんかいいよね」

「ええ。先程から常に人の出入りが見られますので、人気のほどが窺えますわ」

水菓子フルーツも美味しいから、雅月はまたそっちかな」

 にこりと微笑み、話題が切り替わったことに秘かに胸を撫で下ろす雅月を連れ、翔和は颯爽と店の扉に手を掛けた。

 途端、芳醇なバターとケーキの甘い香りが全身を包み込み、早くも胸が高鳴ってしまう。

 だが、視線の先に見知った顔を見つけた彼は、目を瞬くと徐に声を掛けた。


「おや、ヒロじゃないか。きみがカフェーにいるなんて珍しいね」

 そこにいたのは、紺色の着物に身を包んだ背の高い青年だった。

 誰かとの話を終えたばかりらしい青年は、突然の声掛けに驚いた様子だったが、翔和の傍にいる雅月に気付くと、さらに疑問を上乗せして口を開く。

「久しぶりだな、翔和。お前こそ女連れなんてどうしたんだ? いつもの従妹は?」

「ああ、柚花ゆかは嫁入りが決まってね。彼女はひと月ほど前から僕と甘味巡りをしている雅月だよ。元天宮家のお嬢さんさ」

「天宮って、あの……」


 店員が寄って来る間もなく会話を始める翔和の紹介に、青年はもう一度雅月を見遣ると、驚いた顔で押し黙った。

 どうやら友人にも浸透済みの「甘味にしか興味がない」翔和の性質を覆すような状況に、上手く言葉が出てこないらしい。

 だが、そんな彼を気にした様子もなく雅月に向き直った翔和は、青年を指差して言った。


「そして雅月、こちらは僕の尋常小学校からの友人で、最近はとんでもない春本からお堅い政治論まで何でも書いてる桜庭おうば裕也ひろなりだよ。桜庭子爵の次男。僕はヒロって呼んでるんだ」

 然も当たり前のような微笑みで悪気なく、翔和は青年――裕也を紹介する。

 だが、翔和の説明に雅月は困った顔で頷いた。

 今の紹介で彼の基本情報は掴めたものの、変態作家に対する好印象が見つからない。

 そう思って押し黙っていると、裕也はがっくりと肩を落として呟いた。

「翔和……その説明では私の評価は底辺だ」

「え? そう?」

「そうとも。だが立ち話もなんだな。席に維南いなみがいるが、お前たちも来るかい?」



 そうして、残念そうな裕也に連れられ、二人は店の奥にある半個室のボックス席を訪れた。

 席では丸い頬とたれ目が印象的な少女が座り、熱心に苺のケーキを頬張っている。

「戻ったぞ、維南」

「遅かったわね、ヒロ。……あら、翔和様に、雅月さん!? ど、どういうこと……?」

 すると、裕也の声掛けに顔を上げた維南は、目の前の状況に驚いた様子で目を瞬いた。

 どうやら雅月を知っているらしい口ぶりに、翔和は一瞬首を傾げたが、彼女が食べるケーキを前に甘味への限界が来たらしい。

 彼女にも軽く挨拶をした翔和は、すぐさま店員を呼び止めるとオーダーをし始めた。



「僕はシフォンケーキのスペシャリテとアッサムのミルクティーを、彼女にはオレンジペコと水菓子特選をお願いね」

 流れるように甘味と雅月のための水菓子を注文し、翔和はようやく席に着く。

 半年前にオープンしたピエットに来るのは二度目だが、早くあの味を食べたいと気が急いでしまった。

 もちろん、雅月は何も言わずにオーダーを受け入れているようだが、一方、維南の隣に腰かけた裕也は苦笑した様子だ。

「彼女の分、勝手に注文していいのか?」

「うん、だって雅月、いつも遠慮して紅茶だけ~って言うんだもん。だから勝手に選ぶんだ」

「なるほど。……それより、紹介が半端になってしまいましたな。改めて、私は桜庭裕也。気軽にヒロとお呼びください。学生の時分より小説を生業としております。お見知りおきを」

 呑気な口調で頷く翔和の回答に何かを諦めたのか、裕也は一転、雅月を見つめると紹介の続きをし始めた。

 だが、精悍な顔立ちに凛々しい笑みを浮かべ、握手を求めてくる裕也に、雅月が応えようとした途端、それを押し止めたのは翔和だ。


「あー、握手はダメ。気軽に触らないでもらえるかな」

「んん? そんなに全力で否定することかい? やはり二人は恋人なのかな?」

「一緒に住んではいるけれど、恋人ではないね。少し惹かれているけどね」

「……!?」

 いつもの笑顔にどことなく圧のある空気を乗せ、翔和は正直にそう告げた。

 確かに雅月は昨晩、彼に散々抱きしめられたまま慰められ、終いにはなんだか甘い言葉まで贈られている。

 だけど相手はこの甘党だ。昨日までと比べたら、ほんの少しだけ彼に心を許せるような気がしていたけれど、口説き文句を本気だとは微塵も考えていなかった。

 いや、でも、惹かれるって……?


「とはいえ、彼女に惹かれるこの感情が同情か恋情か、はたまた甘さをそそる名前故か僕にはまだ分からない。だけど雅月は僕のものだからね。それ以上近付かないでおくれよ、ヒロ」

 予想外の話に目を瞬く雅月の横で、恥じらいひとつなく笑った翔和は、素直にそれを口にした。

 やはり雅月が思い直したように、翔和の惹かれるは=恋情ではないようだ。

 だが、目の前でグサリと釘を刺された裕也は、二人を交互に見遣ると、心配と呆れと揶揄いを混ぜたような複雑な声音で言った。

「なるほど。甘党の無自覚は恐ろしいな。だが少し安心したよ。翔和はこのまま無数の縁談話を蹴散らし続け、いずれ勘当路線まっしぐらだと思っていたからな。だが、同棲しているくせに手は出していないんだろ? 雅月ちゃんに失礼だぞ?」

「失礼って何が……?」



 よく分からない裕也の進言はさておき、首を傾げた翔和の元へ、しばらくしてお目当ての甘味が運ばれてきた。

 白磁に金装飾を施したプレートにはふわふわのシフォンケーキにメープル味のクッキー、さらには白桃やオレンジと言った水菓子が添えられ、見た目からして、華やかで甘そうな雰囲気が漂っている。

 しかし案の定、ウエストポーチからメープルシロップと桃ジャムを取り出した翔和は、裕也と維南の引いたような視線を前に、大量の甘さを追加した。

 そして、ついでのようにミルクティーにもメープルシロップを入れたところで、彼はようやく顔を上げ、先程の話題を振り返る。

「そう言えば、イナちゃんって雅月と知り合いなの?」

「え……」

「雅月の名前、知っていたよね」


「……あ、っ、雅月さんは女学校時代の学友です。ただ、ある日突然、教室のから飛び出して行かれて以降、行方が分からず心配しておりましたの」

「教室の、窓……!?」

 翔和が作り出した甘みの塊に、しばらく声も出せない様子で固まっていた維南は、気を取り直すと、どこか懐かしげに呟いた。


 二人が最後に会ったのは三年前。

 いつものように授業をこなす彼女らの元に、雅月を探していると言って、突然黒服の男たちが現れた。

 それを見た雅月は、二階の窓から颯爽と飛び降り逃走。

 以降行方知れずとなっていたのだ。


「へぇ、二階からって凄いね。流石五人も相手に大立ち回りしていただけあるよ」

「お恥ずかしい……」

「それにしてもヒロの許婚が雅月の学友か。世間は狭いものだね」

 昔を懐かしむような思い出話に、シフォンケーキを食べながら、翔和はしみじみと呟いた。

 初めて逢ったときも、彼女は男たちを前に怯むことなく立ち向かっていたけれど、どうやらその気質は昔から変わらないらしい。

 垣間見れた彼女の過去に笑みを見せ、クッキーを頬張った翔和は、ふとここで、もうひとつ気になっていたことを口にした。


「そう言えばヒロ。二人はどうしてピエットに? イナちゃんはさておき、きみは甘味に興味ないよね。逢瀬にしては不思議な選択だ」

「ん? ああ、母がここのケーキをいたく気に入ってな。今度の夜会で甘味を振舞ってくれないかと交渉しに来たのさ」

 すると、翔和の問いかけに、珈琲を啜りながら裕也はぞんざいに呟いた。

 面倒がっている節がありありと伝わってくる一方、彼の答えに翔和は笑って言う。

「へぇ、御代家うちはそう言う西洋趣味に縁がないけれど、楽しそうだ」

「そうか? なら後で招待状を送ってやる」

「うん、雅月も一緒に行こうね」

 流石華族とでも言うべきか、当たり前のように招待を受け入れた翔和は、すぐさま水菓子を嗜む雅月に微笑んだ。

 だが、夜会など最早無縁と聞いていた彼女は、心底驚いた様子で、


「え? いえ、私など……」

「ねっ」

「……はい」


 しかし、結局のところ選択権を持たない雅月は、押し切ろうとする翔和の笑みに、迷った後で頷いた。

 どうやら華族たちの夜会にも、お供の出番はあるらしい。

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