第3話 雅月の過去とこれからのこと

「妹……?」

 御代みしろ家の居間にて、翔和とわに事情を聞かれた雅月あづきは、意を決した顔で呟いた。

 甘いものを買うための借金。その言葉を聞いた途端、卓袱台ちゃぶだいに置かれたジャムやシロップを見遣る翔和の表情に、複雑な色が浮かぶ。

 だが、それに気付かないフリをした雅月は、コクリと頷くと、その続きを語り出した。


「はい。私とは半分だけ血の繋がった、母親違いの妹ですが……。あの子は、天宮あまみや家の後妻だった義母ははにとても甘やかされて育ちました。欲しいものも、我が儘もすべてが思うまま。父の注意も虚しく、我が家の財産を浪費していったのです」

「……」

「そんな妹が最も欲したものはでした。甘い甘い…でも私にとっては甘くないチョコレート。それを買うために、あのような連中からお金さえ借りたりしなければ、私がこんなにも苦しむことは、なかったのに……」

 小豆色の瞳をそっと伏せ、彼女は苦しげに俯く。

 雅月が追われる身となったのは今から三年前の一九〇七年のこと。

 未だ国内製造など始まりもしないチョコレートは、庶民の手など届くはずもない高級品だ。欧州から個人で輸入しようとすれば、莫大な金がかかるだろう。

 だが妹は何かのつてを使い、義母に頼んでは欧州産の高級なチョコレートを手に入れていた。

 もしかしたらあの母娘には、雅月も及び知らぬ裏があったのかもしれない。


「そうか……」

 背負わされた額と、チョコレートの説明にひどく表情を曇らせ、雅月はすべてを吐露した。

 きっと彼女にとって甘いものとは、借金取りから逃げ隠れしていた三年間を彷彿とさせる、苦々しいものなのだろう。

 それならば、甘いものが不得手と言った彼女の言葉も必然と思える。

 だが、普通に考えれば、借金を肩代わりしたとはいえ、甘味巡りをしたいなんて言い出した翔和の申し出に付き合ってくれるだろうか。

 華族としての矜持、彼女の真面目な性格、それを加味しても、奇異だと思った。


(……僕としては、文句を言わずに甘味巡りのお供をしてくれる相手が、純粋に欲しかっただけなんだけどなぁ。いや、本当は……。でも、助けたって名目なら、従ってくれると思ったのも事実。悪いことをしてしまっただろうか)

 間を取り繕うように、紅茶を含む雅月の切ない表情を見つめ、翔和は心の中でひとりごつ。

 これまでの甘味巡りでは、少し年下の従妹に同伴してもらいながら、また甘味なのかと日々文句を言われていた。

 だからこそ、彼女の嫁入りが決まり、新たにお供を探さねばと思ったとき、彼が求めた条件は「従順」だった。

 もちろん、盲目的に従う従者や、媚びへつらうような下婢かひを雇うなんてものは御免だ。

 ただ心穏やかに、傍にいてくれるような人が欲しい、そう思っていた。

 だから、借金取りに追われ、今にも海に身を投げそうな雅月を見たとき、彼女ならと直感した。

 そしてそれは、間違いではなかった、けれど……。


「チョコレートは甘くない、か……。帝都でもそんなことを言うのはきみだけかもしれないね。でも、事情は分かったよ。ごめん」

「……! 翔和が謝る必要は……」

「いいや。だって雅月、本当は甘いものを見ているの辛いんでしょう? これまでの言動からして、今さらきみが身を引くとは思わないけれど、せめて謝らせてほしい」

 雅月の事情と自身の心情、それらを心の中で整理した翔和は、持っていたフォークを皿に置くと、丁寧に謝罪した。

 行き当たりばったりの申し出とはいえ、翔和は少なくともこの条件が、借金取りに追われるほどの苦にはならないだろうと思っていた。

 だが彼女にとってはきっと……。

「……お気になさらないでください。私は決して、甘味を好んでいらっしゃる方が嫌いなわけではないのです。多くの場合、甘さは人に幸福をもたらす。翔和はちょっと異常ですけれど、あなたは妹のように、分別なくそれを求めるわけではないでしょう?」

「……!」

「だから私は、あなたの恩に報いると決めたのです。どうか顔を上げてくださいまし」


 すると、境遇のせいか、元からか、愛らしくも笑みさえ浮かべない表情に、ほんの少しの穏やかさを湛え、雅月はそう言い切った。

 彼女の大きな丸い瞳には、凛とした決意が宿り、その場しのぎで口にしていないと分かる。

 過去の話から、翔和は勝手に彼女の苦楽を決めつけてしまったけれど、その出来事が幸か不幸かを決めるのは自分自身だ。たとえ、妹とこの三年間が彼女の苦だとしても、翔和とのこれからが苦だとは限らないし、苦にはさせたくない。

 青みがかった黒い瞳を彼女に向け、心で決めた翔和は穏やかに咲笑った。

「……ありがとう。じゃあ最初の申し出通り、明日からはカフェーに出掛けよう。昼食が終わり次第家の中を案内するね」



 心の中で、本来の目的とは違う、何か別の決意が宿る気配を感じながら昼食を終えた翔和は、言葉通り屋敷の中を案内していった。

 御代家の別邸だというここは、古くからの書院造が印象的な平屋で、ひとつひとつの部屋も大きい豪邸だ。

 家具・様式含め和で統一された室内は、翔和の一人暮らし故、若干のごちゃつきや埃が見られるものの、目を伏せるほどではないだろう。

 明日から早速掃除をしようと、渡り廊下を進みながら見当を付ける雅月の視界に、今度は美しい回遊式庭園が映った。


「庭木は定期的に庭師が来て剪定してくれているから、何もしなくて大丈夫だよ。あと、池の鯉に餌をやるのは僕の仕事ね」

「分かりました。しかし、美しい庭園ですね」

「でしょう? 今なら東屋近くの桜が……そうだ。ちょうど桜も咲いていることだし、あとで草団子でも買ってきてお花見しようか。雅月もみたらし団子なら食べれる?」

 すると、視界に映る池や鹿威しを見つめ、庭の説明を聞く雅月に、翔和はいいことを思いついた、という表情で提案した。

 先程あんなにも甘いお昼を食べたというのに、おやつもまた甘いものとは。

 帝都一の甘党の名は伊達じゃないと、心の中である種の尊敬を抱きながら、雅月はここでひとつ、気になったことを問いかけた。

「食べ…られますけれど、翔和って、ちゃんとした食事はいつ取っているのです? 甘いものばかりでは身体を壊しますよ?」

「え? 僕としては常にちゃんとした食事のつもりなんだけれど……」

「……」


 雅月の素朴な問いかけに対し、翔和は心底不思議そうに呟く。

 どうやら彼にとって、甘みの塊のようなあれが「ちゃんと」の概念らしい。

 常人の感覚からはかけ離れた概念それに、思わずため息を吐いた雅月は、余計なお世話かもしれないと承知で、つい口を挟む。

「お米やお魚、お野菜もちゃんと食べないとダメですよ。今はそれでよくても、いつか身体に影響が出て、甘味巡りができなくなったら困るでしょう?」

「そ……」

「翔和が病気になれば、悲しむ方はたくさんいると思います。私の立場でこれを言うのは違う気もしますけれど、ご飯も食べてくださいね」

 今までのやり取りを通し、多少の進言なら許されると思ったのか、雅月は真面目な顔でそう説いた。妹のような自分本位な甘党なら、五月蠅いと一蹴されて終わりだろうが、翔和は人を気遣う心を持った甘党だ。

 呉服屋の支店を任されている御代家の跡取りという立場も含め、言わずにはいられなかった。


「なんだか奥さんみたいだねぇ、雅月」

「えっ」

「まぁ、きみの言うことは分からなくはないけれど、僕、お茶を淹れる以外で台所使ったことないんだよ。きみが作ってくれるって言うなら、ご飯食べてもいいかな?」

 と、彼女の話にしばらく間を開けた翔和は、しみじみ呟いた後で提案した。

 正直に言って、最後にしょっぱいものを食べたのは、おそらく半年以上前……実家に呼び出されたときの夕食くらいだろう。味も思い出せないようなご飯を食べたいとは思わないけれど、真面目な雅月の真面目な進言を、なんとなく無下にはできなかったようだ。

 さりげなく手料理を所望していることはさておき、彼の思わぬ発言に目を丸くした雅月は、一瞬迷う素振りをしながらも頷いた。

「……分かりました。ではこの後散策ついでに買い物に行って参ります。お団子も指定のお店や種類があれば承りますよ」



 ということで、屋敷の案内をされ終わった雅月は、覚えていた団子のこともきっちり引き受けると、店の方に呼び出された翔和と別れ、周囲を把握するように街を歩き出した。

 帝都・皇崎おうさきの南部に位置するここは、紗格港さいたこうに面した繁華街で、大きな商店街や店が連なる通りが幾つも見られる。

 女学校時代に何度か来た……という曖昧な記憶を頼りに店を回り、翔和に言われたお団子も買いつつ必要な食材を買いそろえた彼女は、やがて裏門から御代家へ戻った。

 翔和はまだ呉服屋の方で仕事をしているようだが、このままでは手持無沙汰だ。

 柱時計の時間を確かめた雅月は、少し早い時間だと思いながらも夕食の準備にかかった。



「……うん。美味しい」

 店の方に捉まっていた翔和が戻って来ると、時刻はとりとなっていた。

 買って来たお団子は夜桜見物まで一旦保留とし、緑茶と共に食事を運ぶと、翔和は出されたお魚を食べて呟く。

 今日の夕飯は魚の塩焼きと、人参の浅漬け、菜の花の和え物、豆腐、白米と健康的な布陣で甘めのものは一切ない。

 だが、文句の欠片もなく次々と口に運んだ彼は、お茶を啜って言った。

「雅月って、料理も上手なんだね。とっても美味しいよ。それに、しょっぱいものを食べると甘いものも一層恋しくなるし、ご飯も悪くないかもね」

 にこりと満面の笑みで、向かいに座る雅月に告げる。

 数時間前も思ったことだが、相手が御代翔和でなければ、褒め言葉にときめいたかもしれない。

 だが、一先ひとまずは美味しくないと言われなかったことに胸を撫で下ろし、雅月は箸を置くと礼を告げた。


 これが新しい日常の一日目。

 明日からは翔和の甘味巡りのお供をしつつ、家のこともこなしたい。

 やるべきことを幾つか頭に浮かべながら、雅月は幸せそうな翔和を見遣った。

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