チョコレートは甘くない -明治甘味恋愛譚-

みんと

第1話 甘くない世界

 ――…清く生きたいの。


 長い小豆色の髪をなびかせ、少女は路地を駆ける。

 少しばかり汚れの目立つ花模様の小袖を乱し、袴から覗く黒いブーツの音を響かせた彼女は、逃げているのだ。


「待てー!」

 そう。野太い声を上げ、自分を追ってくるあの男たちから。


「はぁ、はぁ……っ」

 この生活が始まったのは、今から三年近くも前のことだ。

 性質の悪い妹が、高飛びと共に置いていった莫大な借金と、それを取り立てる男たち。決して見つかる訳にはいかないかくれんぼが、彼女の人生を一変させた。

 だけど、どれだけこの身を落とそうとも、心だけは清く生きたい。それは、華族だった自分が持つ、なけなしの矜持なのだろう。

 そして、捕縛され、穢されるくらいなら、潔く命を断とうと思った。

(この路地を抜ければ海に出られる……っ。もう少し、もう少しで私は……!)

 軽やかな足取りで蜘蛛の巣の張る道を行き、開けた通りの先にある大海原へ。

 柵を超えて飛び込めば、きっと、誰も追っては来られない別の世界に行けるだろう。


「待て! いい加減、手間取らせんな!」

「離してよ!」

 だが、海原まであと一メートル。寸でのところで肩を掴まれた少女は、見返りざまに手を振りほどくと、そのまま男を蹴り上げた。

 そして、続けざまに捕縛を試みる男たちとも大立ち回りを演じ、愛らしい顔で睨みを利かす。

 まるで、円舞の如き美しい蹴り技に、男たちは思わず、呆気に取られた様子で少女を見つめた。

「この女……!」

「……っ」

 しかし、すぐに気を取り直した男たちが飛び出してくる寸前、くるりと背を向けた少女は、柵に両手と片足を掛け、もう一度、海に向かって身を乗り出した。

 今度こそ、別の世界へ飛び立つために。


「なんだか大変な場面に出くわしてしまったなぁ」

「……!」

 と、そのとき。

 不意に左手から気の抜けた声が聞こえ、その場にいた全員が目を見開いた。

 驚いてそちらを振り向くと、紺色のスーツに高山帽を被り、なぜか棒付きキャンディを頬張った青年が、こちらを見ている。

 癖のある黒髪を春風に靡かせ、端正な顔立ちでじっと少女の大立ち回りを見ていた青年に、男たちの野次が飛んだ。


「なぁにジロジロ見てんだ! 散歩なら他所よそをあたれ!」

「まぁまぁ、そう殺気立たずに。これはもしかしなくても、借金取りとそれに追われて身投げ寸前の少女の図、でいいかな?」

「だったらなんだってんだ? 肩代わりでもするかい?」

 脅すような強い言葉に下町訛りを滲ませ、男たちは、なぜか怯む様子もなく、淡々と問いかける青年に嫌な笑いを浮かべた。

 整った身なりと空気感からして、彼がそこらの奉公人でないことは明白だが、見ず知らずの相手に大金を出す馬鹿などいないだろう。

 追い払うつもりで男が言うと、青年は一瞬間を開けた後で頷いた。

「ふむ、それも一興かもね。ちなみにいくらだい?」

「ハハハ、本気かぁ? ほぅら見ろ。この嬢ちゃんの額は並みじゃねぇぞ? いつまでも邪魔してねぇでどっか行けや」

 苛立ちと冗談を綯交ないまぜに、男は貸借証明書を取り出し、ヒラヒラと振りかざした。

 そこには、花魁の身請け金のような、とんでもない額が記載されている。

 見ず知らずの相手とはいえ、信じられない浪費家だと軽蔑されるような気がして、少女の表情がひどく曇った。


「ふぅん。そのくらいなら出せなくもないね。小切手でもいいかな?」

「ハッ。なんの冗談……って、えええ!? 本気かよ、坊っちゃん!?」

 だが、記された額を見た青年は、周囲の予想とは裏腹に、内ポケットから小切手を取り出すと、万年筆でさらさら金額を書き始めた。

 そして、最初は冗談だと笑う男たちに、躊躇いもなく小切手を差し出す。

 あまりにも予想外の展開に、全員の表情が驚愕に変わった。

「これできみたちは、彼女に二度と近付かないかい?」

「そりゃあ……俺たちゃ下賤な恐喝犯じゃねぇんだ。借りたもん返してくれりゃあ、こんな小娘に用はねぇ」

「そうかい。じゃあここからは彼女と交渉だね」

 大口開けた滑稽な顔で、何度も目を瞬く男の言葉に、青年は柔らかい笑みを浮かべると、いとも容易く彼らに小切手を押し付けた。

 そして、黙りこくる少女に目を向けた青年は、優しく手を伸ばして言う。

「きみはどうしたい? このまま身を投げるくらいなら僕のものにならないか?」


 端正な相貌そうぼうに笑みを乗せ、青年は彼女に問いかける。

 だが、見ず知らずの相手の、とてつもない借金を、こうも簡単に肩代わりするような人だ。必ず何か、悪い裏があるのだろう。

 逃げる相手が借金取りからこの青年に変わることを視野に入れつつ、しばらく間を開けた少女は、小豆色の瞳を彼に向け、恐る恐る呟いた。

「……何が目的ですの?」

「なんてことはない。一緒に純喫茶やカフェーを巡る相手を探していたんだ。それに付き合ってくれれば他に望むことはないよ」

「純喫茶……?」

 すると、明らかに警戒した様子で問う少女に、青年は肩をすくめて答えた。

 似て非なる二つに共通することといえば、コーヒーや洋酒類といった飲食物を扱うお店だということだろうか。

 文明開化と共に西欧からもたらされたそれらは、今や飲み物だけでなく、洋風の菓子を楽しめる場としても発展し、サロンとしての社交場、女給による接待、純にコーヒーを嗜む場など、様々な形態が見られるという。

 もっとも、甘いものを得手としない少女には縁のないものだったが、そんな場所を巡るって…一体どういうことだろう?


 と、この青年に対する不信感を募らせる少女の後ろで、不意にどよめきが起こった。

 声の主は、先程まで少女を追いかけていた男たちのようだが、あわあわと慌て出した彼らは、おもむろに青年を見て叫ぶ。

「おおおい坊っちゃん、御代みしろ翔和とわってあんたまさか、伯爵家の……!?」

 そう言って、小切手を持つ手をわずかに震わせた男は、おののいた表情で青年に問うた。

 御代といえば帝都で知らぬ者はいない、相当有力な華族のお家だ。

 元は数百年続く格式高い武家の家柄で、近代は商売に力を出し、帝都有数の呉服屋としてその名を馳せている。

 尤も、商人まがいの行動に、一部からは「名ばかり伯爵」「大店おおだなもどき」などと揶揄が挙がっているものの、帝都でも指折りの富豪であることは間違いなかった。

 そして「翔和」は御代家の跡取りの名前だ。

 考えれば、この近くにも呉服屋の支店があったような気もするが、まさかこの青年が……?

「ん? そうだよ。さ、あとはこっちで交渉するから、きみたちはその小切手を持って帰るといい。ただし、彼女には二度と近付かないと約束するんだ」


 すると、一気に顔色を変えた男たちを一瞥し、青年は淡白な調子で呟いた。

 なんだか主導権を握られたような気もするが、金を払ってくれた華族様を相手に、彼らが反論できるわけもない。

「へぇへぇ。なんの慈善活動か知らねぇが命拾いしたなぁ、お嬢ちゃん。せいぜい坊っちゃんにかわいがってもらえや」

 それを悟った男たちは、捨て台詞と共に通りの向こうへ消えていった。



「……さて、どうする?」

 男たちが去ると、通りには一転して静けさが訪れた。

 青年への警戒を拭いきれない少女は、両手で柵を握りしめたまま動かない。

 だが、交渉の間も棒付きキャンディを舐め続けていた彼の、時折くぐもる声に我に返った少女は、呑気な問いに、少しばかり怒った様子だ。

「勝手に話をつけておいて「どうする」ですって? 私に選択肢など、初めからないのではありませんこと?」

「そんなことはない。きみが嫌だと言うのなら、この場を去るという選択肢もある。もちろん、断ってもお金を返せなんて言うつもりはないよ」

「……」

「どうする?」

 あくまで少女の意志を尊重するように、青年はもう一度問いかけた。

 正直に言えば、少女を助けたのはこの青年の勝手だ。提案を呑む義理はない。

 しかし、彼女は心清く正しくと願い、これまで生きてきたのだ。

 その矜持プライドが、善意に無下にすることを許さなかった。

「……っ。助けていただいた以上、ご恩に報いる責務が私にはあります。あなたの申し出、謹んでお受けさせていただきますわ」



「じゃあ改めて、僕は御代翔和。年は二十歳。そこの通りで呉服屋を任されている御代家の者だよ。さっきの貸借証明書に天宮あまみやって名が見えたけれど、もしかしてきみも華族かな?」

 覚悟を決めた様子で、実に優雅な辞儀を見せた少女に青年――翔和は、笑顔で紹介を済ませ、問いかけた。

 気まぐれながらも自分を助けてくれたのは、その苗字に覚えがあったからなのだろうか。

「お家を失った今、華族などと烏滸おこがましい限りですわ。……しかし、あなたが仰る通り、元は天宮子爵家の娘で、名は雅月あづきと申します」

天宮あまみや雅月あづきか。甘そうな名前だね。気に入ったよ」

「……」

「さて、僕の望みはさっき言った通り、一緒に純喫茶やカフェーの甘味巡りをすることだ。社交場に巻き込まれるのも、チップを強請ねだる品のない女給の相手をするのも面倒だからね。一人じゃない方が都合がいいのさ」

「御代翔和が帝都一の甘党という噂は本当ですのね。付き添わせていただく分には構いませんが、私は甘いものは得意ではないので、その点だけご容赦を」

「名前はとっても甘くて美味しそうなのにね」


 簡素な自己紹介と翔和の目的を改めて聞き、少女――雅月はもう一度頭を垂れた。

 途端、翔和は冗談なのか本気なのか、柔らかい笑みで呟く。

 だが彼女の表情に影が差したことを見た翔和は、肩を竦めて言った。

「まぁいいや。僕としては付き合ってくれるだけで十分だよ。じゃあまずはうちへ案内するね。ここじゃあれだし、きみの事情を詳しく聞かせてくれ」


 そう告げた翔和は、彼女をエスコートするように手を伸ばした。

 柵の傍から離れずにいた雅月は、しばらく迷った後で、彼の大きな手にそっと触れる。

 ぐいと力強く引き寄せられた彼からは、苺のような甘い香りがした。


「さ、こっちだよ」


 こうして、彼のおかしな提案に連れられ、雅月の人生は変わり出す。

 今までとは別の、見たこともない方向へ…――。

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