第三十三話
明くる日、エレナはリリアの部屋で一人過ごしていた。荷物なんてほとんどないと言われた通り、リリアの私物はほとんどなかった。というか、なさすぎるくらいだ。まるで、この部屋に暮らしている人間の存在を感じさせないほどだった。
そのせいで早々に手持ち無沙汰になってしまった。本音を言えば、おそらくこれで最後になる寄宿舎の中を見て回りたかった。だが、そういうわけにもいかず、エレナは本当に久しぶりに得た『何もない』時間に落ち着かない心地だった。
これからはこのような時間も増えるのだろうか、と夢想する。今後の生活については、まだ何も考えていない。孤児院では、幼い頃はともかく、ある程度成長すれば年少組の世話に駆り出されていた。そして聖女になってからはそれこそ、目の回るような忙しさだった。だからこれまで、自由な時間など、ほとんど持ったことがなかった。
もう祈りを捧げる相手もいない。水の浄化も必要最低限でいい。というか、浄化に関してはあまりしてくれるなと教会に禁じられてしまった。自分たちの使う分だけは許可を得られたのが幸いか。どうやら教会は対立組織の発足を危惧しているようだったが、エレナとリリアにその気はまったくないので、杞憂に終わるだろう。エレナはいまいち未来の自分が想像できず、首を捻るばかりだった。
リリアとともに作物を育ててみるのもいいかもしれない。山から葉を摘んできて、茶を作ってもいい。世話になる集落の人々におすそ分けするのもいいだろう。密やかに暮らさなければならない都合上、あまり積極的には関われないが、排斥されない程度には仲良くして、ゆっくりと腰を落ち着けたいものだ。エレナはふと、どの想像の中にもリリアの姿があることを意識してしまい、自然と熱くなる頬を扇いだ。
そんなふうに無為な時間を過ごしていると、部屋の外から何やら話し声が聞こえてきた。軽く言い合っているようにも聞こえる。その聞き慣れた声に耳を澄ませていると、やがて近づいてきて、扉がゆっくりと開かれた。
「エレナ、連れて来たよ」
入ってきたのはリリアだ。それと、もう一人――。
「――ですから、なぜ私が……」
「はいはい、往生際が悪い。もう諦めなって」
リリアに背中を押されるように連れてこられたその人は、ジェマだった。ジェマはエレナの姿を認めると、しぶしぶといったふうに頭を下げた。
「ありがとうございます、リリア。それとジェマ、お久しぶりです。突然、申し訳ありません。リリアには、私が無理を言ってあなたを連れてくるように頼んだのです」
「いえ……私の方はかまわないのですが……」
ジェマは気まずげに視線を泳がせる。
「エレナ様は、私にはあまり会いたくないのでは?」
「あら? なぜそのようなことを?」
「すべての原因は、私だからです」
エレナの問いに観念したのか、ジェマは溜息を吐いて答えた。それを聞いたエレナは、「それです」と続けた。
「ジェマ、私には恥ずかしながらあなたの思惑が読めませんでした。会議室での一件から、あなたが私に恨みを抱いているのだと思っていました。しかし、その後のあなたの動きが不可解です。……私に味方しているようにしか思えない」
エレナは一旦言葉を切ったが、ジェマは押し黙ったまま、何も話さない。
「一応言っておきますが、私はあなたを恨んでなどいません。あなたの行いは聖女として正しかった。だからただ、知りたいのです。これだけ関わっておきながら、最後まであなたのことがわからないままで、終わりたくありません。どうか、教えてはくれないでしょうか?」
エレナとジェマの視線が絡み合う。ジェマの瞳が揺らいだ気がした。少しの沈黙を挟み、やがてジェマは観念して訥々と語りだした。
「エレナ様の言う通りです。私はあなたにずっとお門違いな恨みを抱いていました。あなたさえいなくなればと考えたことは、両の手で数えきれるほどではないでしょう。だからあのような事に及んだわけですが、あれでわかったのです。私は間違っていたと」
エレナは「あなたは間違っていない」と口を出しそうになり、堪えた。最後まできちんと聞こうと、耳を傾ける。
「エレナ様。あなたは皆にとって、真に聖女でした。あなたが捕まってようやく、私は実感したのです。あなたは確かに規律に背いたかもしれない。しかし、それは決して聖女を蔑ろにするものではなかった。重要なことは、規律にただ盲目的に従うことではなく、考えることだと思います。教義とはなんのために存在しているのか。私は、どんな聖女になりたかったのか。私の行動が不可解に見えたのは、今の私が思う聖女を実践したからでしょう」
ジェマの話は抽象的だった。それはジェマ自身がうまく言語化できていないためか、それとも話すつもりがないのかは、定かでない。しかし、エレナにはどこかジェマの言いたいことがわかる気がした。
「私はこれからも、私なりの〝理想の聖女〟を探していくつもりです。あなたはその大切さに気付かせてくれた。――エレナ様、多大なるご迷惑をおかけしました。そして、ありがとうございました」
ジェマは最敬礼よろしく、深々と下げた。それはエレナが見習うべき洗練された所作で、日々地道に積み重ねた研鑽が滲み出ていた。エレナは「顔をあげてください」とジェマに告げる。
「ジェマ、お礼を言うのは私の方です。これまで言えませんでしたが、あなたは尊敬すべき人です。こちらこそ、どれだけお世話になったかわかりません。本音を言えば、ここで道を違えることになるのが、残念でなりません。あなたからは、もっと多くのことを学びたかった。これまで本当に、ありがとうございました」
エレナもまた、頭を下げる。果たして先ほどのジェマほど、綺麗に出来ただろうか。エレナには自信がなかった。そしておそらく、この先の人生でこのような機会は、二度とないこともまた、薄っすらと実感していた。
聖女に未練があるわけではない。しかし、エレナがこれまで歩んできた道のりを、これからも真っすぐに歩み続けられるジェマに、微かな羨望の念を抱いたこともまた、否定できなかった。
エレナは頭を上げ、ジェマと固く抱擁を交わした。ようやくわかり合えたと思えた瞬間だった。
それから暫しの間、歓談を交わした後で、ジェマがふと言った。
「エレナ様、出立は今晩ですか?」
「ええ、そのつもりですが……」
ジェマはそれを聞いて少し考えるように黙った後、密やかな声で囁いた。
「その前に、出来れば会って欲しい人がいるのですが……」
エレナは「誰ですか」と答えようとして、ハッと気が付く。
「まさか――」
ジェマは頷いた。
「アリシアです。彼女は今、地下牢にいます」
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