第二十七話

 エレナは虚空を見つめるような時間を過ごしていた。


 アリシアと別れてからどれだけ経ったかわからない。ほんの数刻かもしれないし、数日かもしれない。意識は水の底に沈んだようで、しかし自ら浮かび上がるような気力もなく、ただただ際限なく静かに泡を吐き出し続けていた。


 大きな物音がした。続いて、耳障りに五月蠅く響く、複数の靴音。それは檻の前までやってくると、一斉に立ち止まった。エレナが顔を上げる。多数の衛兵を侍らせたオフィリアが立っていた。


「やはりまだ生きていたか……」

「――…………ぁ……」


 オフィリアが苦々しく呟くと、エレナは喉からか細い声を絞り出した。オフィリアが衛兵たちに「担ぎだせ」と指示する。


 頷いた衛兵たちは檻の錠を開け、武器を向けたまま慎重にじり寄って来る。複数人で囲むと、背後の衛兵がエレナの両手の枷を引き絞るようにして、さらに自由を奪った。


 ぎりりと肩に走る痛みに歯を食いしばるが、それ以上何の感慨もなかった。足の枷も縮められ、地を這う虫のように転がされる。そのまま担ぎ上げられるようにして、エレナはここしばらくを過ごした牢を後にした。


 衛兵たちに連れられ、エレナは別の部屋へと運ばれた。そこには金属製の椅子が置かれていた。


「座らせろ」


 オフィリアの命により、エレナは座らされ、手足の拘束が椅子へと移された。硬質な手応えとともに数か所で固定された様は、まるで椅子と一体になったようだった。


「面を上げなさい」


 静謐な空間を破る、厳かな声。エレナが項垂れていた首を上げると、中心に純白の聖衣の至高聖女ヴェロニカと、取り囲むように深紅の聖衣の紅衣聖女たちが左右に六人ずつ、合計一二人並んでいた。


 エレナの視界に入る限り椅子の周囲には何もなく、ヴェロニカたちの背景には、巨大なウンディーネの壁画があった。天井から降り注ぐ光が、部屋全体を神聖に照らしていた。


「気分はどうですか?」


 ヴェロニカが平坦な声色で問いかける。


「…………ぁ……ぅ……」


 エレナは声を出そうとした。だが、擦れた音以上のものにはなってくれなかったし、それ以上力を篭める気力は湧かなかった。瞳にも光を宿さず、そこに叙階聖女エレナの面影はない。


「いくら吸血鬼といえど、さすがにあれだけの期間何も出来ずに放置されれば堪えるのですね」


 ヴェロニカの冷ややかな声に、エレナは答えない。何を話していいかもわからなかったし、考える力もなかった。


「エレナ。これまで教会に尽くしてくれたせめてもの情けです。あなたはウンディーネ様の下に集いし我ら聖女会議により、人として裁かれることが決定されました。これから斬首による処罰を受けてもらいます」


 重々しい言葉が、静まり返った部屋に木霊した。エレナは無言のまま、ただヴェロニカを見上げている。


「生きた吸血鬼は貴重です。本来ならば、生かしながらその身体を調べたい。しかしあなたは人として認められました。そのため人道的な観点から倫理的に配慮し、解剖は死後に行うこととします。ウンディーネ様に感謝することですね」

「――……あり……がと……う、ござ……いま……す」


 ヴェロニカの皮肉が滲む言葉に、エレナは途切れ途切れの虚ろな声で答えた。ヴェロニカはエレナの返事など意に介さず、衛兵に目配せをする。


「――構え」


 ヴェロニカの指示により、衛兵の一人が腰から剣を抜いた。そしてエレナの背後にまで歩き、顔の高さに構える。金属の擦れる音が、不気味に響いた。


 エレナは背後の様子を、音だけで正確に知覚していた。次のヴェロニカの一言で、首を落とされる。しかしその心に恐怖はなく、ただ安堵だけが広がっていった。やっとすべてから解放される。


 ぼんやりとした意識のまま顔を上げると、ウンディーネの壁画が目に入ってきた。それを視界に収めていると、不思議とエレナは救われたような気分になってきた。今なら素直な気持ちで、祈りを捧げられそうだった。それは死を完全に受け入れたことによって為された一つの救済だった。


 エレナのこれまでの人生が脳裏に流れていく。生後数年の楽しかった日々、両親を亡くし叔母に捨てられてからの生存すら不透明な明日をも知れぬ過酷な日々、孤児院に拾われアリシアと出会ってからの穏やかな日々、聖別を突破してからの充実した日々、吸血鬼を自覚してからの思い悩む日々、リリアと出会ってからの愛おしく満ち足りた日々。


 今のエレナに後悔はなかった。強いて言えば、アリシアと喧嘩別れしたことくらいだろうか。だが、思い返してみればエレナはそのときの自分なりに最善を尽くしてきたように思う。であれば、あれはきっと運命だったのだろう。アリシアとは最後の悲しみよりも、これまでの過ごした良い思い出の方がずっと多い。温かな思いを胸に抱きながら、エレナは佳き親友に、心の底から感謝した。


 そしてリリア。エレナのすべてを受け入れてくれた唯一の人。思いが通じ合ったが最後、二度と会うことが叶わなかったことは素直に寂しい。だが、共に過ごした僅かな時間は、かけがえのないものだった。一粒だって取り零してはいない。心に思い描くだけで強い熱量に満たされるその気持ちを知れたことは、エレナの人生で一番の宝物だった。


 エレナの心に、静かな感謝の念が広がっていく。自然と、祈りの言葉が口をついて漏れ出た。


「――水の主ウンディーネ様……我らが導き手よ……御意のままにこの身を捧げ奉らん……人々の生命守らんがため……この身を浄化の器となし……御慈悲の恵みに浴びさせたまえ……」


 命乞いすらせず、清らかな顔で祈りを唱えるエレナの姿は異様だった。しかし、誰しもがつい我を忘れて見入ってしまう不思議な魅力があった。衛兵も、聖女会議の面々すら、呆気にとられて静止する。


 一早く正気に戻ったヴェロニカが、軽く咳払いした。すると、慌てたように場に緊張が戻ってきた。エレナは顔を上げたまま、しかと目を閉じた。白い首筋が無防備に曝される。


 ヴェロニカが腕を上げると、剣を構える衛兵の腕に力が籠った。ヴェロニカが腕を振り下ろせば、それに合わせて衛兵の剣が振るわれる。まさにその刹那だった。


 部屋の外から、騒ぎ声とともに駆ける音が聞こえてくる。


 ――そこのお前! 止まれ! クソ……ッ、どこから入ったんだ!


 音はだんだんと近づいてくる。そして一瞬だけ止まると、次の瞬間、大きな音を立てて扉が開かれた。エレナの背後に皆の注目が集まる。


「――至高聖女様、紅衣聖女様、ご機嫌麗しゅう。ちょっとお邪魔させてもらいますよ」


 その声を聞いたエレナの心が、途端水面に滴を打ったかのように乱れていく。たった今、完璧に受け入れたはずだった死の覚悟が、脆くも崩れ去っていく気がした。


 足音は一分の躊躇もなく、部屋に踏み入ってくる。衛兵たちが咄嗟に武器を構えて闖入者を迎え撃とうとするが、なぜかヴェロニカが制した。衛兵たちが黙って見送る中、その者はどんどんエレナの下へ近づいてきて、隣で立ち止まった。エレナは首だけ横に向けて、その姿を視界に収めた。同時に、滲みだす。


「なんで……なんで、来ちゃったんですか……」


 ぽつりと零したエレナの目から、一筋の涙が落ちた。まるで非難するような言葉を聞いたその人は、しかし動揺した様子なく、むしろ堂々たる笑みをエレナに向けた。


「もちろん、迎えに来たんだよ」

「あなたって人は……っ」


 一旦流れ出した涙はとまらず、情緒を存分にかき乱してくる。エレナは喉からしゃくりを上げ、嗚咽混じりの声にならない叫びをその場に響かせた。


 ――そんなことをされたら、これからも生きたくなっちゃうじゃないですか。


 エレナの窮地に現れたその人は、本来この場に来られるはずのなかった人。しかし、エレナが最も会いたかった最愛の人――聖女リリアだった。

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