第二十二話

 会議室での一件の次の日のこと。普段の仕事をすべて外されたエレナは、自室で待機するように命じられていた。また「身綺麗にしておくように」とも言われたので、先の件は今日になったのだろう。


 ずいぶんと早い。ヴェロニカが言っていたことは事実だったのだろう。つい商品のように展示された自分に群がる男の姿を想像してしまったエレナは、口に手を当てて嘔気に喘いだ。


 鏡を見る。形ばかりの化粧を施したものの、酷い顔だ。肌の血色が悪く、目の下には酷い隈が出来ている。望まない行為に及ぶ相手のために身なりを整えることが、憂鬱で仕方なかった。


 あの話の後から喉を食べ物が通らず、かろうじて水分を摂っているのみ。わずか一日なのに、顔の肉まで削げ落ちたような気さえする。


 子を成すことは聖女の務め。元々いつかは訪れる運命で、ただ時期が早まっただけ――。


 どれだけ好意的な想像をしてみても、頭が割れるように痛くなった。そもそも叙階聖女に与えられていた特権の方が特殊で、大部分の聖女には選択権など端からない。


 だからこれは、聖女であれば普遍的に経験すること――何度そう自分に言い聞かせ、一向に進まない時間が過ぎるのを待っただろうか。


 どうせ努めを果たさねばならないことは変わらない。


 エレナが逃げ出せば、リリアに迷惑がかかる。それどころか、リリアが代わりになる可能性すらあるかもしれない。ならば、割り切った方がいい。


 そう思って前を向こうとしても、頭に浮かぶのは愛しいリリアの姿ばかり。自然と滲み出る涙を、唇を嚙みしめて我慢した。


 リリアとの幸せな思い出が、走馬灯のように頭をよぎる。


 あの柔らかな肌の感触、優しい眼差し、甘い囁き……。


 もしこの状況を耐え抜けば、いつかまたリリアに会えるのだろうか。いや……そうだとしてもリリアには顔向けできないかもしれない。


 エレナは汚れてしまう。でも、リリアを守るためには……。


 考えるたびにエレナの心は、引き裂かれるほどに痛んだ。


 やがて、案内の役人が部屋を訪れた。


「エレナ様、ご案内します」

「はい……」


 エレナはのろのろと椅子から立ち上がる。エレナは俯きがちのまま、先導する役人の靴の踵を眺めて廊下をひた歩いた。


「こちらです」


 案内された部屋は、浄瀧殿の中でもエレナが足を踏み入れたことのない一角にあった。他の部屋からも離れており、否応なしに用途を意識させられる。不安と心細さが心を揺らす。


 役人は案内を終えると、すぐに去ってしまった。エレナ一人でその場に残される。


 去り際に渡された鍵を、鍵穴に入れる。


 手が震えて上手く入らず、カツカツと何度か音を立ててしまった。やがて開錠に成功し、エレナは恐る恐る扉に添えた手に力を篭める。蝶番が小さく悲鳴を上げた。


 部屋に入ると、恰幅のいい男が湯浴み着のような簡易衣を着て寝台に腰掛けていた。エレナが一礼すると、鍵を掛けるように言われる。エレナはぎゅっと目を瞑り、断腸の思いで自らその鍵を回した。


「叙階聖女の、エレナでございます……」


 エレナが自己紹介すると、男が「本当に来やがった」と愉快そうに肩を揺らした。エレナは困惑しつつ、訊ねる。


「あなた様がその、私のお相手の方でしょうか……?」

「ああ」


 男は嬉しくて仕方がないようだ。肩を揺らし、くつくつと歪めたその顔は、下卑た欲望を成就する喜びに満ちていた。


「大金を寄付しただけのことがあったってもんだ」


 男はエレナを品定めするが如く、全身を舐め回すように見て、厭らしく鼻の下を伸ばした。


 悪寒から背筋が震え、たまらず身を守るように抱いた。


 だが男はそれすらも愉快なようで、より笑みを深くした。


「そんなところに突っ立ってないで、さっさとこっちに来い」

「はい……」


 男に手招きされ、鉛のように重くなった足を引きずるように、一歩、また一歩と歩く。


 その間ずっと、他に何か手段はなかったのだろうかと考え続けた。


 この状況に至った絶望が胸に渦巻いているが、その一方で解決策もまた浮かばなかった。


 やがて男の側に辿り着く。するとすぐに腕を掴まれ、荒っぽく寝台に引き倒された。エレナは恐怖に顔を引き攣らせる。それを見た男は歪んだ笑みを浮かべながら、上に跨ってきた。


 これから、エレナはこの男に好き勝手されるのだろう。想像すると、自然に涙が溢れてきた。どうせ見られるのなら、どうせ触られるのなら、リリアに最初にして欲しかった。あの幸せな時間の只中で、すべてをあの美しい手で奪って欲しかった。


 けれど、現実は非情だ。


 エレナはただ、自分を真っすぐに受け入れてくれた人を、自分を救ってくれた人を、好きになっただけ。


 果たしてそれはいけないことだったのだろうか。罪だったのだろうか。いや、罪には違いない。それはわかっている。けれど、一体誰に迷惑をかけたというのか。


 エレナは別に、将来的に子を作ることを拒絶したいわけではなかった。ただもう少しだけ、想いを通わせる喜びを知りたかった。大きな愛に浸っていたかった。そして、同じだけの愛を返したかった。その思い出を胸に、聖女の務めを果たすつもりであった。


 リリアに愛を誓った。だが、永遠に一緒にいられるなんて思ってはいなかった。しかし想いだけは永遠なのだと実感し、大切に仕舞い込むまでの時間が欲しかった。


「う……ぅぅう……ううぅぅぅうう……」


 大粒の涙を流し、嗚咽し始めたエレナに、男は一瞬だけ驚いた様子を見せた。だが、すぐに表情を愉悦に歪ませる。


 男がエレナの両腕を拘束し、力任せに押さえつけた。男の吐息が頬にかかる。吐き気と恐怖がこみ上げ、身を捩る。足をばたつかせて抵抗するが、体格差に加えて上に圧し掛かられていることもあり、びくともしない。


「――やだ! やだやだやだやだ! 離して!」


 エレナは駄々をこねる子供のように暴れた。男は「ふん」と鼻を鳴らす。


「無駄だ。俺が合図するまで誰も来ない。いいかげん、諦めろ」

「い、嫌ぁ……。ウンディーネ様……」

「ハッ、だからそのウンディーネ様が、認めたんだよ」

「ち、違う……!」


 エレナの否定に、男は大きく腹を揺らした。


「今のこの状況がその何よりの証拠だろ。他でもない教会のお膝元だぜ? だーれも助けになんて来ないさ。何せ、今から聖女様の大切なお努めを果たそうっていうんだからな。ウンディーネ様もさぞお喜びになることだろ」

「こ、こんな行いが……聖女の務めのはずがありません……。聖女とは、人々に安寧と希望をもたらす存在です。ただ欲望を満たすための、はけ口なんかじゃない!」


 エレナが啖呵を切ると、男は苛立ったように舌を打ち、エレナの頬を叩いた。乾いた音が部屋に響く。それでもエレナは負けじと睨むが、男の手が徐々に下へと伸びていく。男は下卑た笑みを作り、舌なめずりする。


「近くで見ると想像以上にいい身体してるなぁ。せいぜい楽しもうや」

「い、いや……」


 エレナの懇願するような声を無視して、男の手が修道服の裾を掴んだ。そしてそのまま捲り上げようと、引き上げられていく。


「やだ、やだ、やだやだやだやだ!」


 男の手が上がるにつれ、恐怖が増大していく。最高潮に達したそのとき、突如エレナの胸が大きく跳ねた。心臓の拍動が限界を超え、あり得ない速さで鼓動を重ねる。血液が全身を逆流し、視界を赤く染めていくような感覚。脳が急速に熱くなり、何も考えられなくなった。


 エレナの体内で、何かが爆発したような感覚があった。今まで必死に抑え込んでいた力が、殻を破ったように一気に溢れ出てくる。自分ではない何かが、エレナの全身に支配の根を伸ばした。


「嫌ぁ―――――っ!!」


 エレナが絶叫と共に腕を振るうと、男は「うぉっ!」と大声を上げ、寝台から跳ね飛ばされた。勢いそのままに床を転がり、壁にぶつかって音を立てる。


 身体が解放されたエレナは、すぐさま起き上がる。あまりにも強く、覚えのある違和感。口許へ手を持っていった。やはり、鋭い牙の感触があった。


 さっと血の気が引く。そして同時に、「ひ……」という短い悲鳴が、部屋の隅から聴こえて来た。そちらに目をやると、男がエレナを指さして「ま、魔物……」と身を戦慄かせた。


「あ……」


 エレナが無意識に手を男の方へ伸ばすと、男は顔を青ざめさせた。一目散に立ち上がり、バタバタと助けを求めて部屋から飛び出していく。


 遠くなっていく男の背中を、エレナ座り込んだまま、呆然と見送った。


 なんで……? 今日は満月じゃないはずなのに……。こんなふうに勝手に吸血鬼の姿に変わってしまうことなんて、今まで一度もなかったのに。わからない。今自分に何が起きてしまったのかも、これからどうなってしまうのかも、何もわからない。何も、考えたくない。


 思いがけない状況から混乱に陥ったエレナは、開け放たれたままの扉を、閉めることも出来ずに自失した。やがて幾人もの衛兵がなだれ込んできて、エレナに対し一斉に武器を向けた。


 にじり寄るように距離を詰めた衛兵たちは、エレナに動く様子がないことを確認すると、一斉に飛び掛かり拘束した。


 エレナは何も抵抗せずにされるがまま、手足にいくつもの大きな枷をつけられて床に転がされた。

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