第19話 お手伝い昭子

 


 美咲がお邪魔した時に、この歌川深水邸にはお手伝いさんがいたが、年の頃は50代という所だろうか、穏やかな笑みを浮かべた優しそうな女性だったが、どこか……裏表がありそうな笑顔の、昭子というその女性に一抹の不安を感じた美咲だった。


 だが、このお手伝いさんは深水氏が売れない時代を懸命に支えた「糟糠の妻」といっても過言ではない女性だった。当然籍は入れていなかったが夫婦も同然の生活を送っていた。


 だが、深水氏がスチュワーデスだった美しい香織に夢中になり、さっさと結婚してしまった事によって事態は急変する。

 

 この様に芸術家というものは時として理解不能な行動を取る人種だが、その才能が故にそれが許される存在でもあった。こうして「糟糠の妻」的存在の深水より5歳年上の昭子は、才能溢れる深水と別れる事が出来ずに、今尚愛人に甘んじている。


 

 それでは世界でも最も有名な画家たちの生涯にスポットを当てて見よう。


 クロード・モネ は最初の妻である カミーユ をよく描いた。 有名な「日傘の女」もカミーユを描いた代表作のひとつ だ。 モネはさぞかしカミーユを愛してやまなかったのだろうと想像してしまうのだが、モネは当時パトロンだった人の奥さんアリスと、この後愛人関係に陥ってしまう。


 モネのパトロンだったエルネスト・オシュデが破産宣告を受け、妻子を親しかったモネの家に預けて、単身パリで再起をはかることになった。こうして……3人は同じ屋根の下で共に暮らしていた時期があった。そして……最終的には妻カミーユが亡くなった事で、パトロンだったエルネストの妻アリスと結婚した。


 

 それから……史上最も経済的に成功した画家ピカソだが、また史上最も有名な画家と言っても過言ではない。90代で亡くなるまで常に若い女性の愛人を手に入れていたが、その殆どが人妻だった。その華々しい女性スキャンダルでもおおいに名を売った。その生涯には、名前が知られているだけでも10人の恋人がいた。


 この様に画家という生き物は同じ家に妻と愛人を住まわせても、あまり気にしない種族なのかもしれないし、こんな豪放磊落な到底許されざることも許されてしまう種族なのだろう。 


 それは深水とて同じ。一見何の問題も起きていないように映っているが、女2人の葛藤は想像に難くない。容易に想像の付くことだ。

 

 ★☆


 深水と香織が結婚した事は「糟糠の妻」昭子は、最初は知らなかった。

 夜逃げ同然に深水は昭子の元を去って、そして…若くて美しい香織の元に飛び込んだ。


 全く売れなかった絵画も、昭子が支えてくれたお陰で絵画の世界ではぼちぼち人気が出て、食べて行けるようになっていた。


 男がよくやる手だ。有名になったら売れない時代を支え貢いでくれた「糟糠の妻」を捨てるという話はよく聞く話だ。


 こうして知らぬ間に居なくなった深水を探すこと半年。やっと見つけた昭子は深水が若い女と結婚していたことを知って、気も狂わんばかりに暴れて深水に食い下がった。


 だが、深水と香織は既に夫婦となっていたのでどうにも出来ない。

 こうして、いびつな関係が形成された。


 そうなのだ。同じ家に女2人と深水が住むこととなった。


 この頃には、既に現在の豪邸に移り住んでいたが、それはそれは大変な船出となった。


 夫婦の寝室が2階で昭子の部屋は1階の奥まった場所に住むことになったが、昭子は今までは深水は自分の分身と思って疑わなかったのに、あの憎き恋敵香織と2階の寝室に上がる深水を見るのが何より辛かった。


 昭子はこの様な状態なので夜が眠れないことが度々あった。そして……どうしても我慢が出来ないと夢遊病者のように夜中に起きて、2階の深水夫婦の眠る寝室の前で聞き耳を立ててコッソリ中の様子を伺ったものだ。


 この様な状態なので夜はほとんど眠れていない。こうなると我慢が出来なくなって妻香織がフィットネスクラブに通う時間帯朝の10時頃になると、決まって深水の仕事部屋に出掛けて行き、香織の罵詈雑言(ばりぞうごん)をまくしたてた。


 ”トントン“ ”トントン”


「深水……入っていい?」


「嗚呼……良いよ」


「深水……あのね?……こんなこと言いたくないけど……香織さん……洗濯手伝って下さるのは良いけど……ちょっと雑なのよ。お嬢様だったから何も知らないのよ。それから洗濯のたたみ方も酷くて……あれじゃかえってしわくちゃになるだけ」


「そうかい?じゃあ俺が言っておくからさ。そんな事位で目くじら立てるなよ」


「嗚呼……言わなくても良いわ?あの人は言っても治らないと思うから。私は深水が可哀想に思って言っているのよ?何か辛い事があったら私に言ってね」


「……それは……それは……昭子のように……経験も昭子の方が豊富だから……香織はつまらない」


「そうでしょう。深水……私の事思い出してくれているのね」

 

 この様に香織がフィットネスクラブに出掛けていない時間帯や子供の用事でいない時間帯、更にはママとも会やお友達との旅行でいない時間帯を見計らって、深水と昭子はセックスを楽しんでいる。


 こんなバカげた男女関係が同じ家の中で繰り返されていては、恐ろしい火種は今は沈下しているが、いつ爆発してもおかしくない状態に置かれている。大爆発の時期が刻一刻と近づいている


 そうなのだ。

 ある日の事だ。香織がインフルエンザが流行っていて、フィットネスクラブが休校になったのを忘れていて出かけたは良いが、休みだったのでユーターンして帰って来た日の事だ。


 深水の仕事場は離れに作ってあったので、香織は家に荷物を置いて深水のいる仕事場に向かった。


「あれ?深水がいない」


「夜更かしをして作業に打ち込むこともあるので、寝ているのかも知れない」

 起こしたら悪いと思い、足音を立てないように仕事部屋を出ようとしたその時だ。


 ”ギシギシ“ ”ミシミシ”

 更には……何か吐息のようなささやかな ”ハーハー” ”ア-ア―”

 ささやかだが声にならない声が聞こえてきた。そこで2階にある仮眠部屋に上がって見た。


 そこには夫深水とお手伝い昭子のあられもない姿が、目の前に飛び込んできた。2人はこの家の主と使用人ではなく、男と女の関係にあったのだ。


 香織は頭に血が上りカ―—ッ!となり、思わず叫んだ。

「あなた達何をしているの?いい加減にしなさい!」


 2人は夢心地だったにも拘わらず現実に引き戻され、ましてや目の前に香織がいるので、返答に困って暫く異様な空気がこの部屋に立ち込めたが、昭子が口火を切った。


「奥様、普通だったら妻から夫を奪った家政婦でしょうね。でも……でも……現実は違います。あなたが私の深水を奪ったのです。私は深水が画家として売れるまでいろんな仕事をして深水を支えました。それなのに、チョット売れ出したら私の前から去りあなたと結婚したのです。でも10年近く支えたのは私ですよ」


「そんなこと言ったって、私が今深水の妻なのだから人の夫に手を出したあなたが悪いのよ。深水、あなた……あなたは……どう思っていらっしゃるの?」


 暫くの沈黙の後深水が重い口を開いた。


「俺は2人とも大切だ。だから……どっちとも別れるつもりはない。もしそれに不服があるのだったら出て行ってくれても結構だ。生活出来るだけの慰謝料は払うから……」


 まず昭子が一番不利な状態だ。


(戸籍上の妻ではないのだから出て行けと言われても、今更この年で深水より才能が有って優秀で魅力的な男に会う事は100%ない。それから……万が一他の男と結婚して妻の座を掴んだとしても、深水ほど愛せる人になんか出会えない)


 次に妻香織だ。


(今更子持ちの私が追い出されて何が出来るというの。折角有名画家の妻となったのに……収入も相当なもの……それから……深水の才能に惚れている私は絶対に夫を誰にも渡したくない。妻の座を今更引き下がるつもりなどない)


 3人は腹の中では憎悪をたぎらせながらも、この環境から今更逃げて見た所で苦労が待っているだけ。そう思い、今の生活を続ける事を選択した。

 

 こんな複雑な人間模様の中で妻香織は命を落としていた。

 それでは遺体を何故すぐに処分しなかったのか?


 そこには妻を愛するあまりに、永遠に自分の目の届く場所に置いて置きたかった深水の、深い思いが有ったからなのだろうが、実は……残しておかなければいけない理由があった。

 





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