7.軽飛行機
純希は体に付着した汚れを落しながら言った。
「やっと降ってきた。だけど、スコールって午後から発生するんじゃなかった?」
周囲の植物が雨に打ちつけられ、激しい雨音が周囲に響く。類は声を張り上げて説明した。
「朝からスコールに悩まされたって、海外旅行が好きな親戚の叔父さんが言ってたから、午前中から降ることもふつうにあるみたいだよ」
純希は納得する。
「ここが現実世界なら、雨季だから雨降りが当たり前だよな。きのうみたいに晴天が続く日は滅多にないってことか」
そのとき翔太が、天気とスマートフォンの日付についてはっとする。
「八月一日の繰り返しなら天気だって同じはず。だったら、どうして雨が降るんだ? きのうは雨なんか降ってない」
明彦が答える。
「この島が現実であれ異世界であれ、俺たちがこの時間帯の天気を知るはずがないだろ? だって、きのうのいまごろは、まだ自宅なんだから」
よく考えてみればそうだ。
「飛行機が墜落したのは午後だったな」
類は翔太に顔を向けた。
「細かいことを考えるのはあとだ。とりあえず体の汚れを落そう」
類の真似をして腕を擦る。体にこびりついた汚れが流れ落ちると、心なしか気分が落ち着いた。ついでに、顎を上げて雨水で顔を洗ったあと、口を開けた。渇いた喉が潤う。
「超気持ちいい」
綾香は頭上を見上げた。
「いままでは葉っぱがいい日除けになっていたけど、雨除けにはならないみたいね。だったらここに留まる意味がない」
純希も同じ意見。
「雨の中を歩くのもいいかもね。先に進もう」
「そうだな」類もふたりの意見に賛成した。「浜辺を目指したほうがよさそうだ」
明彦も類に言った。
「行こう」
「うん」と明彦に返事した類は、雨が降ってからうつむいたままひとことも発しない結菜を心配した。「どうかしたの?」
結菜は両手で顔を覆って、重苦しいため息をついた。
「…………」
尋ねた。
「具合でも悪いの?」
綾香も結菜の体調を心配する。
「大丈夫?」
道子が優しく声を掛けた。
「誰も気にしないよ」
いったい何を言っているのか……綾香と男子にはさっぱりわからない。だが、道子は結菜の “何か” を知っているようだ。
結菜は顔を覆い隠していた両手をゆっくりと下ろした。そして、覚悟を決めて顔を上げた。二重瞼にする化粧品アイプチが雨で流れ落ちて、一重瞼に戻ってしまったのだ。気まずそうな表情を浮かべた結菜は、一同に打ち明けた。
「バレちゃった。あたしのコンプレックス。道子は知ってたんだね」
「あたしにもコンプレックスはあるよ。自信に満ちた女の子に憧れるけど、それって難しいことだから。結菜みたいに背の高い子が羨ましい。もう少し身長が欲しかった」
「あたしは道子や綾香みたいに目のぱっちりした子が羨ましいよ。だっていっつもアイプチだもん」
メイク後の顔はちがうものだろうと男子なりに想像していたものの、明彦以外は見慣れない結菜の素顔に若干の戸惑いを覚えた。とはいえ、明彦も結菜の素顔は初めて見る。だが、まったく抵抗はなかった。
そして、細かいことは気にしない性格の類が自分の頭を指さした。
「ほら、俺なんか天パだ。雨に打たれても無駄にすごい形状記憶」
「ぜんぜん可愛いよ。理沙も類の天パが可愛いって言ってたし……」と類に言った結菜は、自分の顔がコンプレックスになってしまった原因を打ち明けた。「中学のころ好きだった同級生に、勇気を出して告白したらふられちゃったの。あとでひとづてに聞いたんだけど、あんなブスはタイプじゃないって言ってたみたい」
「俺を見てみろよ、超小さい目だぜ」明彦が結菜に言った。「それにそんな男、むしろふられてよかったじゃん。ひとを外見で判断するなんて最低だと思う。結菜はブスじゃない。俺が保証する。可愛いから安心しろよ」
結菜は明彦の言葉に驚く。
(あたしが可愛い? うそでしょ?)
「そのままの結菜でいいんだよ。そんな奇妙なボンド……」化粧品に疎いので言い直した。「アイプチだっけ? 必要ないじゃん」
母は言う―――安心して、あなたは可愛い。そのままの結菜でいいんだよ。すべてのひとが同じだったら、そこにはなんの価値もない。異なるからこそ価値がある。そしてその価値を個性と言うのよ、と―――
他人との違いはすべて個性だ。母に言われたとおり、子供のころはそう思っていた。私は私、みんな同じじゃつまらないもの。
でも、世間は容姿も才能のうちと言う。だからこそ余程の才能がないかぎり、容姿が重要視される世の中に嫌気が差す。成長するにつれ、母が言ってくれた言葉が頭の中から消えていった。どうしても周囲の子と比べてしまう、つらい劣等感。
私だって可愛く生まれてきたかった……。
ずっと容姿が劣れば損をすると思ってきた。じっさい、幾度となくそのような場面に遭遇してきたのだから……。
容姿が原因でつらい失恋をしたからこそ、自分を磨く努力を怠らなかった。髪型や化粧や洋服で可愛く見せるための研究をして、化粧が崩れていないかを確かめるために鏡ばかり気にしていた。
前向きに頑張ろうとしても、いつも鏡の前でコンプレックスと向き合うたびに思うことがある。お世辞ではなく、あのころの母と同じ言葉を本心から誰かに言ってほしい。もし、好きな異性に言ってもらえたらどんなに幸せだろう。
安心してもいいって―――
可愛いって―――
そのままの結菜でいいって―――
心に受けた傷さえも人生を構築する要素となってしまうなら、それはトラウマとして乗り越えなければならない障害となってしまう。どれだけ努力しても癒えることのない失恋のトラウマに、長いあいだ苦しんでいた。
けれども―――コンプレックスを含め、ありのままの自分を受け入れてくれる優しい明彦の言葉に救われた―――
トラウマが癒されていく―――まるで、降りしきる雨が、体にこびりついた汚れを洗い流してくれるかのように―――
「明彦……」
胸が高鳴った結菜の目から涙が零れ落ちそうになったとき、類が明彦の背中を軽く叩いてふたりを冷かした。
「俺たちがいるのに告るなよ。水が滴るがり勉ナイスガイだな」
赤面した明彦は慌てる。
「告ってないし! てゆうか、がり勉ナイスガイってなんだよ!」
一同の笑い声が周囲にこだました。
道子が結菜と明彦に言った。
「ふたりだけの世界に行っちゃって」
結菜は顔を紅潮させた。
「ちょっと、かんちがいしないでよね」
そう言いつつも、結菜と明彦は目を合わせて照れ笑いした。完全に両想いのふたり。ひとはどんな状況下でも恋をするものなのだろう。ふたりも類と理沙に負けない “ラブラブ” なカップルになるはずだ。
胸が温まる光景に一同の顔にも自然な笑みが零れた。
綾香以外は―――
結菜と明彦の仲を心から祝福するけど……心から笑えなかった。
結菜とはなんでも打ち明けられる親友だと思っていたのに……道子が知っていた彼女のコンプレックスを知らなかったなんてショックが大きい。
結菜が綾香に顔を向けた。
「誰にもバレたくなかったの。綾香はあんまり化粧しないから気づかなかった。頻繁に化粧をする子なら気づくかもね」
つまりこれは友情には関係ない。でも打ち明けほしかったが、彼女が誰にも気づかれたくなかったのだ。
「大学生になったら化粧も頑張ってみるよ」
「うん。教えてあげる」
「カップル成立。しかもこんな場所で」類は全員に言った。「よし、みんな。盛り上がったところで出発だ。いろいろな問題がありすぎて頭が痛いところだけど、いまは浜辺を目指すことだけを考えよう」
明彦は気持ちを切り替えた。
「この先、何があるかわからない。絶対に油断するんじゃないぞ」
類は一同に出発の声をかけた。
「行こう!」
放たれた矢のような雨と、分厚い鈍色の雲に覆われた空。視界が悪いので、足場に気をつけながら前進した。だが、どれだけ懸命に歩いても、似たような景色に取り囲まれている。自分たちは無事に浜辺に辿り着けるのだろうかと不安を覚えた。相変わらず険しい道が続くうえに、雨もまだ収まりそうにない。
人間とは贅沢なものだ。あれだけ望んだ雨も体に付着した汚れが流れてしまえば、もう不要だと感じてしまう。それに、どれだけ雨が降ってもTシャツまでは綺麗にならない。
(せっかくのプレゼントだったのに汚しちゃってごめんな)
類は、理沙への想いを巡らせながら歩き続けた。次第に天を突き抜けるような高木の本数が減り、低木や下草が茂る道へ出た。遥か頭上を覆っていた樹木の葉が無くなったのと同時に、稲光が光る空が広がった。
周囲にはそれなりに背の高い樹木がちらほらと見えるが、視界を遮るような高木から解放されたおかげで見通しが利く。それから、雷は高い場所に落ちる性質があるので、少しだけ安心した。けれども心とは対照的に足場が悪い。
類は、息を切らして歩く女子の体力を心配した。険しい道はどこまで続くのだろう、と目を凝らして遠くを見渡した。すると、視線の先に、植物に埋もれたかたちで軽飛行機が墜落しているのが見えた。驚いた一同はざわめいた。
類は後方を歩く明彦に確認してみた。
「どう見ても軽飛行機だよな?」
明彦は目を凝らしてじっと見る。
「うん。軽飛行機だ」
道子が怖々とそちらを見つめる。
「でもどうして、こんな場所に……」
類は一同に言った。
「どうせ進む方向にあるんだ。行ってみよう」
植物が足場を邪魔しているため、女子の体力を考えて、歩行速度は上げずに歩を進めた。なるべくなら体力の消耗を最小限に抑えたい。
一同は厳しい雨風に負けじと歩いて、軽飛行機に辿り着いた。
機体は墜落の衝撃で大破しており、乗降口の扉と折れた翼が大地に落ちていた。その周囲には、墜落時に薙ぎ倒された木々が重なり合っている。
倒木を跨いだ一同は、内部を覗いてみた。構造は六人乗り。擦り切れた全座席には、血痕と思われる赤褐色の染みが目立つ。
生体が守られているなら、この軽飛行機に乗っていたひとたちも生きていたはずだ。しかし、この赤褐色の染みがすべて血液なら致死量に達している。
やはり―――墜落の衝撃で異世界にワープしたのだろうか―――
それとも―――ミクロネシアのどこかの島なのだろうか―――
軽飛行機の周囲に視線を巡らせながら、ゆっくりと歩く類の爪先に硬質な何かが当たった。気になったので、大地を覆う葉を捲ってみると、つる性植物が巻き付いた悍ましい髑髏(どくろ)が転がっていたのだ。
悪趣味な植木鉢と化した髑髏に驚いた類は、墜落現場で椰子の木の羽状複葉を捲ったさい目にした幼い子供の前腕が頭をよぎり、後退りした。
「なんなんだよ……この島は。気味が悪い」
明彦が言う。
「頭部から分離した体は、野生動物の餌になったみたいだな」
純希が言った。
「ほかに乗っていたやつらも餌ってことか……」
そのとき、道子が取り乱した。
「餌って、人間が餌だなんて! どうして! どうして、そんなに冷静なの! みんな、どうして悲鳴も上げないのよ! 髑髏が転がってるんだよ! 座席にだって血の痕がいっぱい!」
日常生活で髑髏を発見すれば、まちがいなく悲鳴を上げていた。肢体から分離した血の滴る生々しい頭部に比べたら……そんな考えが脳裏をよぎること自体ふつうではないのかもしれない、と思った結菜は、ため息をついてから、道子の肩に手を置いて宥めようとした。
「落ち着いて、大丈夫だから」
旅客機の墜落現場に落ちていた頭部も救助隊がこなければ野晒しになる。炎天にさらされた肉は朽ち果て、やがてはここに転がる髑髏と同じになる。もしかしたら、自分たちもこの髑髏のようになるかもしれない。怖い想像をした道子は、結菜の手を振り払った。
「何が大丈夫なの! もういや! もういやなの! ここは妖精が棲むネバーランドじゃない! 死神が棲む呪われた島なんだよ! あたしたちは新学期なんて迎えられないんだ! 何年たってもこの島から抜け出せずに、十七歳のまま死んじゃうんだよ!」
類が道子に声を張った。
「俺たちは絶対に新学期を迎える! たとえここが異世界だろうと、お前が言うように死神の島だろうと、俺たちは出口を見つけて脱出する!」
道子は類の声を無視して、駆け出した。それも進もうと考えていた方向ではなく逆の方向へ。
引き止めようとした類は、声を張り上げた。
「どこに行くんだよ!」
そのとき、道子が走る方向に違和感を覚えた。
この先の大地が途切れている……。
旅客機の墜落と同じ衝撃を肉体に与えて現実世界に戻る話は、あくまでたとえ話だ。なんの保証もない。万が一、断崖絶壁だった場合、大変なことになる。
類は道子を呼び止めようとした。
「危ない!」
突然、類が大声を上げたので、一同は驚いた。
大地の途切れに気づいた結菜が、慌てて前方を指さした。
「あの先は崖かもしれない!」
明彦たちも前方を確認して驚愕した。だが、泣きながら走っている道子は気づいていない。
「崖だ!」
類は道子を呼び止めようとしたが、大きな雷鳴によって声が掻き消されてしまう。声が届かないのだから走るしかない。一歩足を踏み出した瞬間、いままでで一番大きな稲光が空を駆け抜けた。その直後、すさまじい衝撃音が聞こえた。そして轟音が周囲に響いた。どうやら旅客機の墜落現場に雷が落ちたようだ。一同は、そちらの方向に気を取られた。
(大破した機体か樹木にでも落ちたのだろうか?)
ここにも金属の塊がある。落雷があっては大変だ。立ち止まっている場合ではない。早く先に進むべきだ。道子を連れ戻して、この場から立ち去りたい。
類は、危険を知らせるために全力疾走で駆け出した。そのあとに一同も続いた。百メートルを十一秒台で走る類には敵わないが、道子を心配する気持ちは同じ。
懸命に走る類は、道子に向かって腕を伸ばし、華奢な体を抱きしめた。間に合ったと安堵した瞬間、泥濘に足を取られ、彼女を抱えたまま転倒した。
その直後―――一同の視界からふたりは消えた―――
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