第一章 三日月
新たな名前、新たな生活
わたしが「音島律月」として〈九十九月〉に所属したその日のうちに、組織で用意しているという寮の部屋を借りた。千波のお金で買ったルームウェアを着て備え付けのベッドに横たわる。
翌日の朝六時。叩き起こされるにはまだ早い時間だというのに千秋から
「朝早くにすみません、ちょっといいですか?」
ドアの向こうから声をかけられた。わたしは返事をしてドアを開ける。そこにいたのは肩の辺りで髪を内巻きにした女性だ。
「おはようございます。私、隣で暮らしている
「は? ……まぁ、合ってますけど」
間抜けな声を発して首を傾げると、浜村と名乗った女性は安心したように笑った。
「よかった。これ、音島さんのIDカードですよね? 落ちてましたよ」
「……本当だ。わざわざありがとうございます」
渡されたのは、部屋に入る直前に千波から渡されたカード。いつどこで落としたのかは覚えていないが、拾って届けてもらえて一安心だ。口酸っぱく「なくすな」と言われていたのに初日から紛失するところだった。
「早朝にお邪魔してすみません。それでは失礼します」
女性が颯爽と立ち去っていく。わたしは安堵の息をついて部屋に戻る。
「……あ」
もう一眠りするか、とベッドに潜り込んだ瞬間、借り物のスマホが震えた。発信者は千秋だ。慌てて電話に出る。
「も、もしもし」
『朝早くに何度もすまないね。さっき僕が言ったことを覚えているかい?』
「……配属先を説明するから今すぐ来い」
正解。電話先から聞こえる声に心なしか棘を感じてしまう。わたしの罪悪感がそう思わせているのだろうか。
「すぐ向かう、今すぐ向かうから」
『待っているよ。……二度寝しないでね?』
「さすがにそこまで呑気じゃない」
電話を終え、急いでベッドから抜け出す。ルームウェアと同じく千波のお金で買ったブラウスとジーンズに着替えると、駆け足で部屋を後にした。
「意外と早かったね。相当走ったんだろう?」
昨日も訪れた部屋――千波から聞いたが、ここは役員室らしい――で待ち受けていた千秋がお茶を差し出してくる。全速力で走ったせいで息を切らしていたわたしは遠慮なく受け取り、一息で飲み干した。
わたしの息が整うと、彼は「さっそくだが本題に入るよ」と切り出す。
「音島さん、君の配属先を決定した。後方支援隊、通称〈三日月〉だ」
「こうほうしえんたい」
千秋から告げられた言葉をオウム返しする。後方支援と言われても、一体どんな前衛を支援することになるのやら。
「正確に言うなら〈三日月〉の第二班だね。火力支援をメインとする班に入ってもらう」
「火力って……え、戦うの?」
「戦うとも。ここでは異能を用いた犯罪の摘発もしている。つまり、荒事は切っても切り離せないのさ」
物騒なことを言いながらも、千秋の表情は微笑のまま。発言と表情を一致させてくれ、なんて突っ込みを入れている場合ではないか。開きかけた口を閉じる。
「とはいえ、犯人と大立ち回りを繰り広げるは別の隊の仕事だ。音島さんたちは、その『別の隊』に所属する面々のパフォーマンスを向上させるのが役目」
詳しい話は隊や班の人たちに聞いてね。千秋はそう締めくくった。いくら彼が〈九十九月〉の幹部であるとはいえ、仕事内容を専門的に説明することはできないのかもしれない。
わたしは〈三日月〉の人々が職務にあたるフロアを尋ね、役員室を後にした。
千秋の情報を元に三階でエレベーターを降りる。きょろきょろ辺りを見回しながら歩いていると、背後から軽やかな足音が聞こえてきた。音と音の間隔は狭く、その人物がかなり早足であることが窺える。
「うわっ、どいてどいてー!」
ぼんやり考えていると、焦ったような声が飛んできた。足音と共に接近する声は中性的で溌剌としている。
「危ないよ、って――」
「おわ……っ」
我に返った瞬間、ドンッ、と大きな音と衝撃を認識した。わたしは背後から来た元気な人物と衝突してしまったのだ。
「い、ったた……」
「……怪我はない?」
尻もちをついたその人物に手を差し出し、怪我の有無を問う。彼――あるいは彼女――は「はい」と頷くと、わたしの手を借りずに立ち上がった。
「ごめんなさい、急いでて周りがちゃんと見えませんでした」
「わたしこそごめん。ぼーっとしてたせいで避けられなかった」
謝罪を交わして頭を上げる。わたしは気になったことを尋ねることにした。
「ところで、どうして走ってたの? 相当急いでたみたいだけど」
「あー……。実は、オレたちの班に新人さんが来るみたいで。その準備でバタバタしてたんです」
いくら急いでるからって、走ったら危ないですよね。少年――自分を「オレ」と言っているからそう呼ぶ――は気まずそうに笑った。
千秋の話では三階は丸ごと〈三日月〉のフロアのようだから、ここを全力疾走していたこの少年は〈三日月〉所属なのだろう。つまり、彼の班に入るという「新人」は……。
「……それ、わたしのことかも」
「え、じゃああなたが音島さん?」
少年は目を瞬かせながらわたしの名前を出した。頷いて「よろしく」と手を差し出す。
「オレは
わたしは少年――葵と握手を交わして〈三日月〉第二班の場所を尋ねた。彼は笑顔で案内を申し出る。
「班の人たちも音島さんを心待ちにしてるはずですよ。さっそく行きましょう!」
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