第138話 Another Night(1993年)Real McCoy

平成7年12月24日早朝


 動き出した冬の朝の街


 俺(橘恭平)は、長岡駅からバスに乗っていた

 早朝の青白い光の中で、バスは信濃川の堤防を上り、長生橋を渡っていく

 音楽の教師の母親から聴いた曲を思い出した


 母は大学でロシア語を学んでいたらしい


アムール河の波、という曲だった


Красива Амура волна,

И вольностью дышит она.

(赤い太陽が昇り、水兵はアムールを歌う)


俺はどうしてこの歌を思い出したか、わからない

懐かしさだけだったのか、荒涼とした冬の信濃川を見てからだろうか


 ◇◇◇


 平成7年12月23日 21:10 国会記者会館


 私(星夏美)は、政治家に取材した内容をまとめ、カセットレコーダをイヤホンで再生しながら、原稿をパソコンで打っていた。

 だいたい仕上がった

 フロッピーディスクに保存し、記者クラブにいた同僚に渡す

 「ちょっと出かけてくる」と言った

 「どうしたんですか?出かけるなんて」

 「逢う約束をしている人がいる」

 「取材ですか?」

 「違います」

 「友人かな」

 「まあね」

 「原稿は大丈夫?」

 「まあなんとか。後はお願い」

 「しょうがないですね。星さんなら完璧なはず。まあいいでしょう。私が見ておきますどちらへ」

 「東京駅」

 「そうですか、すぐ近くですね、ああでももう直帰していいかな。何もなければ」

 「ゴメン、恩にきるわ」

 もうすぐ新潟行きの最終新幹線が出るはず。彼がそれに乗るはずだが、今から出たんじゃ、絶対に間に合うはずはない

 一縷の希望、それは彼が待っていること

 もしかしたら、そこに行けば、彼が残した駅掲示版にメッセージがあるはずだ、と思ったから。私はそれを読むだけでもいいと思っていた


 同僚記者も「まあ、星さんが、こんな時に出て行くって、相当訳ありなんだろうから。このフロッピーの原稿、俺も見ておく。手直しっていってもキミの原稿は殆ど直すとこないからね」と言った。


 「そうだ、俺はパソ通の仕方がよく分からないから、FAXで送っておく。追ってキミが通信で送れば朝のニュースに間に合うはず?。でも、俺も見よう見まねでやってみていたから、少し俺もやってみようか、試しに」

 そう言って、行ってらっしゃいと、私を送り出した


 私は国会記者会館の前でタクシーを拾った。

 東京駅に着いた頃は、新潟行き最終新幹線の発車時刻のわずか2分前だ

 クロノグラフの残り時間表示が無情にも迫っている


 今からでは、彼に会えるはずもないのは分かっている


 彼はもう新幹線の座席に座っている時間だ


 翌日には修士論文の審査とかいう試験で、大学に戻らなければならないことを知っていた

 なんて私はバカなんだろう。こんな大事な機会を逃すなんて


 しかし、かすかな希望を抱いて、私は待ち合わせ場所の「銀の鈴」へ走る

 駅の時計は、すでに新幹線の発車時刻を5分すぎていた


 もしかしたら、もしかして、彼は待っているかもしれない


 人気ひとけもまばらになった、「銀の鈴」の下のベンチに、書類を持って見つめている、見覚えのある後ろ姿の男性がいた

 高校生の時に彼が着ていたのと同じ、キャメルの色のダッフルコートが見えた


 ◆◆◆


 俺(橘恭平)は、もしかして、もしかしたら、夏美は、列車の発車時間を過ぎても、やってくるかもしれない、と思っていた

 でも無理か。カノジョはとても忙しいもんな


 駅のベンチで野宿か、明日の朝一番の新幹線じゃ、9時に大学に間に合わない

 俺はどうすりゃいい?


 最初の副主査教授の口頭試問がその時間開始だ。

 俺は卒業を棒に振るのか?

 せっかく就職も決まったのに……


 しかし、どうしても、しばらく逢っていない夏美に逢いたかった

 

 修士論文の原稿を握りしめて、俺は悩みあぐねていた


 最終新幹線の発車時間だ

 万事休す……


 「恭平さん」

 

 その時、俺の名前を呼ぶ女性の声がした


 ◆◆◆


 恭平ってホントにバカな男だ


 私なんか、私なんかを待っているなんて

 明日は大学の大事な試験があると言っていたクセに


 バカだ、バカだ、どうしようもないバカだ

 この田舎者!


 ここで、遅れてきたことを素直に謝ろうか

 しかし素直になれない自分がいる


 「あなたは誰を待っているのですか、学生さん」

 「な、夏美!どうして?来た?」

 「どうしてって失礼ね。あなたとの約束でしょ。会いに来たのよ」

 「おい、2時間半も遅刻しやがって……よくまぁ、しゃぁしゃあと…」

 「2時間も待って帰らないオバカさんの顔を見たかったの。あなたに逢いたかった」

 「相変わらずだな、お前は。なんでそんなに高飛車なのか。さあ、あなたはどこの誰でしょう?俺はこんな美人の知り合いなんていないぞ。俺に声をかけてくるなんて、怪しい宗教の勧誘だろ。でも、夏美、ホントに綺麗になったな」


 綺麗になったと言われて悪い気はしない

 しかし私の心の天邪鬼あまのじゃくはまだ元気だ


 「ねえ、なんで私が来ると思ったの?」

 「じゃ、お前はなんで発車時間が過ぎていると分かっていて、ここに来たんだ?」


 「イイ女を置いて立ち去るなんてことはしないもんね」

 「はぁ、良く言うわ。田舎の貧乏学生なんて、サッサと捨ててしまえばいいのに。都会に染まって、田舎を捨てた女のクセに」


お互いに素直になれない、悪口の言い合いの会話が続いている


 「でも、あなたは絶対に待っていると思ったから来たのよ」

 「俺も夏美は絶対に来ると思っていた。だからキミを待っていた」


 「明日の試験はどうするつもり?」

 「これから一緒に新宿に行こう、そこでムーンライトの夜行列車がある。俺のじいさんが出稼ぎから帰ってくるとき、急行佐渡の夜行列車で帰ってきたことを突然思い出したんだ。そうか夜行があったか、って」

 「バカだから、待っている間に指定席を取ってないんでしょ?腰が痛くなるわよ」

 「そのくらい仕方ない。でも、お前は仕事は大丈夫なのか」

 「まあちょっとはね。同僚がやってくれるってさ。一緒に新宿に行こうか?私が案内するわ」

 「たしか桂花ってラーメン屋を噂に聞いていた。そこに行きたいと思っているんだが」

 「それなら知ってるわよ。それならムーンライトに間に合うでしょう」

 「しかし、高そうな服を着ているな。豚骨ラーメンだと匂いがつくんじゃない。それとなんだ?その時計、オメガか?めっちゃ高いだろ。俺なんか1万ちょっとのG-Shockだぜ」


「どれどれ、G-shockとやらを私に見せて」

 

 私は、恭平の手をつかんで「恋人つなぎ」をした

 

 「おい、恥ずかしいだろ!」

 「いいじゃない。久しぶりなんだから。トンコツラーメンを食べに行きましょ」



 私は新宿駅のホームで橘恭平を見送った


 これが、恭平と、恋人として逢った最後だった


 ◆◆◆


 俺は新宿駅から出発する急行ムーンライトのデッキの窓から、夏美に手を振った


 そういえば、夏美が状況する時に、佐野元春の「Someday」のカセットを渡した覚えがある


 冬の乾いた寒い新宿駅のホームに立つ夏美の姿

 笑顔で俺に手を振っている


 夏美を、恋人として見たのは、これが最後だった

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