桑乃瑞希 ⑯

-7月19日 PM9:40 -


体力には自信がある。

中学時代に所属していた演劇部が、いい演技にはまず体力、という方針だった。高校では入院する父のことや家事があって部活には入らなかった。それでも休日や空いた時間で、運動は続けていた。

陽衣菜も使用人の仕事と学校を両立しているだけあって、十階近い階段を走り上る持久力を発揮した。

最上階の扉。

開くと、春香の目に血塗れの大吉の姿が飛び込んできた。

「大吉!」

飛び出していた。大吉が目を剥く。

「くるな!」

「邪魔だ」

視界の右側で、赤い布が翻る。女の子だと認識した瞬間、大吉の背中が間に割って入った。

「浮気すんなよ、お前の相手は俺だろ」

大吉がツーブロックにしたショートの女子の手首を掴んでいる。爪が、まるで肉食の獣のように鋭く尖っている。

大吉があと一歩遅ければ、その爪は春香に届いていた。

大吉の前蹴り。女の子は手首を掴む大吉の腕ひ飛びつくようにして躱す。だけでなく、大吉のこめかみめがけてつま先で蹴り返す。

大吉は飛び蹴りを掻い潜り、女の子を突き飛ばす。両者の距離が空いた。

「来ちまったもんは仕方ない。春香、一人か?」

大吉は背中を向けたまま言う。

「束早と陽衣菜も来てる。束早は下の階で警備の人を引き付けてくれてる」

「束早もか。波旬の力があるからって、無茶してなきゃいいが」

束早が波旬の翼を使えることを、大吉は知っているようだ。

「春香」

大吉が肩越しに振り向く。目と目が合う。

「わかった」

春香は頷き、入口へ戻る。

「春香さん、瑞希ちゃんが」

「うん、私たちで瑞希を助けよう」

瑞希は部屋の奥のベッドにいた。

血みどろになりながら闘う大吉を見守っていたのだろう。顔色は青白く、肩が小刻みに震えている。それでも踏ん張って立っていた。

「大吉がなにかするつもりみたい。その隙に、私たちで瑞希をここから連れ出そう」

「なにかって、なんですか」

「わからない」

詳しく聞く余裕はなさそうだった。春香にも、この場が血の匂いと緊迫した空気で満ちているのは感じる。

だから大吉も、言葉でなく目を通じて伝えてきたのだ。

「あの女の子、すごい動き」

「大吉さんもすごいです。戦闘の専門家プロの羽子相手に、互角です」

羽子というらしい赤いポンチョの女の子は、縦横無尽な軌道で大吉に襲い掛かる。陽衣菜は互角と言うが、大吉はその攻撃を凌ぐのでやっとに見える。

「傷がなくなってる?」

陽衣菜が大吉の異常な回復能力に気付いたようだ。春香も、血塗れな割に傷口がないことには気付いていた。

「またフェンの血を飲んだんだ」

大吉がここへ来る前に隠れてフェンガーリンと会っていたのは、血を貰うためだったのか。それは定かではないけれど、大吉が再び吸血鬼の回復スキルで死闘を繰り広げているのは確かだった。

「陽衣菜、準備はいい?」

大吉が、右手になにかを握った。どこから出したのかはよく見えなかった。小さなスプレーのように見える。

羽子も、それに気づいた。

「芸がねえ。またスタングレネードか」

警戒したのか距離を取った。

部屋の中央で、大吉はそのスプレー缶からピンを引き抜き、放り投げた。

缶から煙が噴き出した。大吉と羽子は紫色の煙に巻かれる。

「陽衣菜」

「はい」

煙を吸い込まず、羽子に気取られないためにも、身を引くした。服の襟で鼻元を覆い、壁伝いに瑞希の元へ向かう。

「春香。ごほごほ、陽衣菜も」

「しっ。瑞希、こっち」

ベッドの上の瑞希に手を差し伸べる。瑞希はシックなベストのポケットからハンカチを取り出して口元に当て、付いてくる。

煙中を脱した。

「ごめんね瑞希ちゃん、来ちゃった」

「ばか」

瑞希が陽衣菜を抱きしめる。

「二人とも、今のうちにここを離れて」

羽子が窓を割ったのか、煙が流れてきていた。闘う二人のシルエットが、うっすらと見えはじめていた。

「春香は」

「私はここに残る。大吉と後から降りるから、大丈夫」

Vサインをして春香は言う。陽衣菜が瑞希の隣で眉をハの字にしている。

「命令したの、大吉に。ここから私を連れ出しなさいって。その私が大吉を置いて先に逃げるなんて」

「ふふ、じゃあ帰ったら文句言う?」

「文句?」

「大吉がちんたらしてるから、先に勝手に帰っちゃったわ、って」

春香が瑞希の真似をして言うと、瑞希は表情をくしゃっと歪め、それから泣きそうに笑った。

「そうね。そうするわ」

陽衣菜と瑞希、二人の小柄な背中が階段を降りていく。

視界を妨げていた煙は、ほとんど晴れていた。

「だいきち!」

これ以上傷つかないで。闘わないで。死なないで。

伝えたい想いを凝縮し、春香は叫ぶ。

「がんばれ!」

「おう!」

目を合わせただけで大吉の思惑が感じられたように、自分の想いも、その一言で大吉に届いたはずだ。

大吉は、剣道の試合ですら攻め気を見せないほど、闘争が嫌いだ。

そんな大吉が、中学まではよく喧嘩をしていた。

今年の春には美食家を名乗る外国人とも闘った。

家族を守るために。孤独だった吸血鬼を守るために。

「いつもそう。そうやって誰かを守るために、辛そうに拳を振るう」

春香は胸の前で両手を結ぶ。

見守ることしか、祈ることしかできない。

春香にとって、これ以上にもどかしいことはない。

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