〜闇医者は入梅に焦がる〜

于静

春香ははじめての飛行機にはしゃいでいた。

「フェン見て、下、雲だよ!」

「うんうん、せやな」

春香に肩を揺すられるフェンガーリンは気のない返事をする。景色より機内で視聴できる映画にご執心だ。

「なに観てるんだ?」

大吉は機内販売で買ったコーヒーをちびりとすする。

「『THE超ぞんびぃ』むっちゃ面白いで」

「B級臭がすごいな」

「もぉ、フェン、せっかくなんだから景色楽しもうよ」

「そないなもん眺めたかておもろないわ。第一こうやって旅の道中に映画やらなんやら観るんは役に立つんやで?」

フェンガーリンが映画を一時停止し、ヘッドホンを外す。

「なんたってウチは日本に来る間に観た、『関西漫才大全』ちゅうもんで日本語マスターしたんやからな!」

「そうだったんだ」

「だからか」

ドヤるフェンガーリンを挟んで、大吉と春香は納得した。

「この映画も向こうでなんの役に立つかもわからんで? 舞台はこれから行く上海なんやから」

月光を思わせる銀髪をポニーテールに結ったフェンガーリンはうんうんと頷いてヘッドホンをし直した。

「もぉフェンったら。せっかくの旅行なのに家でしてることと同じじゃない」

春香は丸襟の水色のリネンシャツに、膝丈の黒いスカートにベージュのスニーカ―を合わせた装いだ。

「旅行ってわけでもないんだけどなぁ」

呟く大吉を乗せて、飛行機は一路上海へ向かう。


アレッシオから医者の手配ができたと報せが来たのは、五月の中旬だった。

死に瀕してフェンガーリンの血をやむなく飲んだのが四月下旬。

人間の血液とは交じり合わない吸血鬼の血を体内から抜く処置ができる医者というのは、まず真っ当な医者ではないだろう。

それをひと月かけずに手配できたアレッシオは、案外顔が広いのかもしれない。

そこからパスポートやらを揃えるのに半月ほどかかった。

問題だったのは、フェンガーリンも伴って来てほしいという医者側の要望だった。

素性を隠して生きてきたフェンガーリンに戸籍はない。パスポート発行には偽造書類が必要となり、それにもアレッシオが一役買った。

「上海だー!」

飛行機を降り上海虹橋空港に立つなり、春香は万歳して飛び跳ねた。一泊の予定なので、荷物はリュック一つと軽装だ。

「そんなに楽しみだったのか?」

「うん、だって海外はじめてなんだもん。大吉もはじめてでしょ」

「まあな」

「私の分まで旅行券くれたアレッシオさんにお礼言わなきゃ」

「言わんでいい」

あいつにどんな目に遭わされたと思ってるんだ。

「うう、機内食たべ過ぎた」

はしゃぐ春香の後ろで、ポニーテールに黒のキャップを被ったフェンガーリンはぐったりしている。

「そりゃ五食分も食えばな。というか前から思ってたけど、吸血鬼の食事は血じゃないのか?」

「今みたいに栄養価の高い食事がいつでも食えんかった時代はせやったで。もう今時血ぃ飲んどる吸血鬼なんておらんやろ。普通のめしの方がうまいもん」

「そんな感じなのか、吸血鬼。てかもうそれ吸血鬼なのか?」

フェンガーリンは普段から大食いではある。

並外れた回復力や、影に物を収納できる特殊能力を行使したりする分、人間より栄養が要るのだろうか。

その栄養を賄うために、食糧が今ほど豊かではなかった昔は人の血を吸うしかなかった、ということか。

「うぷ、もう食い物の話はせんでくれ」

「はいよ。少し休んでから移動するか」

「あ、お土産屋さんがある」

「待て春香。土産は帰る時にしろ」

先走ろうとする春香の首根っこを捕まえて、ひとまず空港内で座れる場所を探した。


霧雨が降っていた。

日本も上海も梅雨入りの季節である。

タクシーで上海老街へ向かう。

前方に上海の写真でよく見かける未来感のあるテレビ塔の先端が見えたところで、車は南に進路を取る。

三十分ほどで目的地に到着した。

「ほぉ、ここが例の医者の家か。なんちゅう名前やっけ?」

于静うせい。家というか、マンションだな。住所から見るに、ここの最上階に住んでるみたいだ」

「十四、五階はありそうやなぁ。うへぇ、セレブかいな」

「いやな顔するなぁ」

「大吉だいきち、近くに豫園っていう有名な庭園があるみたい」

「うん、あとでな」

ここまでの道中もずっときょろきょろしている春香である。

大吉は二人と一階ホールへ入り、エレベーターを呼ぶ。

てっきり他にも住民が住んでいると思ったが、集合ポストを見るに住んでいるのは于静一人のようだ。

このマンション自体が于静の持ち物なのだ。

「お、エレベーター来たで。ウチいっちばん乗り」

「して何になるんだよ」

エレベーターの扉が開く。

フェンガーリンが真っ先に乗り込もうとして、立ち止まる。次いで春香が、ひぇっ、と喉を引き攣らせ、大吉もエレベーター内のものに目を疑った。

「なんだ、これ」

「落とし物、かな」

「んなわけあるか」

エレベーター内に、白い片腕が落ちていた。その腕が、丘に打ち上げられた魚のようにピチピチと跳ねている。

固まる三人。

「申し訳ありません」

そこへ、一人の女が現れた。

エレベーターホールの隅には階段もあり、そこを急いで降りてきたのか、女の緑青色の髪は乱れている。ただ呼吸が乱れている様子はない。

淡黄色の襦に萌黄の袴。中国古来の民族衣装に身を包んでいた。

その左袖が、頼りなげに揺れている。エレベーター内でピチピチしているのも、左腕だ。

「そちらは私の腕です。エレベーターを降りる時に落としてしまい」

「「ほんとに落とし物だった!」」

大吉と春香の声が重なった。

その横でフェンガーリンが息を飲んだ。

「ゾ、ゾンビや。ザぞんびぃや!」

「まさか、んなわけ」

大吉は、ないですよね、と目で窺う。

幸薄げな陰と儚い華を合わせた趣の顔立ちをした女は、ええ、と頷き返す。

「ゾンビではありません。私、キョンシーです」

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