第19話 再生の唄
結局、あの日の翌日、レムはしわだらけの同意書にサインして1階窓口へ提出しに行った。
あまりに紙の状態が悪かったので、結局替えの同意書にサインしなおすことを求められた。
ぐしゃぐしゃの同意書については職員から「こちらで処分しますよ」と言われたが、なんとなく持っておきたくて引き取った。
生きると決めた。生きなければいけない、と思った。
では、自分はどうするべきなのか。
病室に戻ったレムは、貰ってきた同意書をサイドテーブルに広げベッドの上で足を伸ばしながら思考を巡らせる。
すべきことは、すぐにわかった。
じきに失われてしまう、何より大切なひとつの魂――せめて最期、その輝きに報いるべきであろう。
そうしなければ前には進めないだろうとレムは確信していた。
ルミネに対して何も心の整理を付けないまま、手術を受けて転院してというわけにはいかない。
それでもいいと、きっとルミネは言うだろう。
だが、レム自身がそれを許さなかった。
では、何をすべきなのか――それが大いなる問題だった。
レムは見えない答えを手繰り寄せようと、今までのルミネとの暮らしを想起する。
思い出として消化してしまえば、ルミネは過去のものになってしまうような気がした。
だからルミネが死んでしまうとわかってから今までは、あまり過去のことを思い出さないようにしていた。
けれどもう、そんな心配はいらない。
目を瞑り、深く息をする。
そうしてルミネのことを思えば、心の奥底から染み出るように、ひとりでに記憶が溢れてくる。
ルミネと何を話したか、何について笑い、悲しんだか。
鮮明に浮かんでくるそのひとつひとつを丁寧に、腑分けするように思い起こしてゆく。
儀式のような静寂さの中、意識の筆で丁寧に記憶をなぞる。
「そうか。そう……それしかない。よね」
数分の瞑想の後、レムは小さく呟く。
そして、目を開く。
ベッドのへりから外へ足を投げ出し、サイドテーブルを引き寄せる。
レムの手には、看護師の一人が置き忘れて行ったボールペン。
くしゃくしゃの同意書の裏に、乱暴とすら言える勢いで線を引き、言葉を書き連ねてゆく。
思い出を噛み締め、ルミネを見送るという覚悟ができたとき。
レムがすべきことも、おのずと決まっていった。
同意書の裏は、線と記号、言葉、そしてその上を走る取り消し線で瞬く間に埋まった。
看護師に白紙を無心する手間すら惜しみ、床頭台の収納に押し込んでいたチラシや案内プリントの裏紙を引っ張り出す。
頭の中に浮かんでくる想い、熱意、感情。
良いも悪いも、あらゆる情念全てを浮かび上がってくるままに任せた。
そして、その一切を言葉と記号に圧縮し、紙の中に投射する。
レムは陽が落ちつつある中でも、手を動かすことに没頭し続けた。
部屋の明かりを点ける手間すら煩わしく思い、読書灯の光だけでペンを走らせ続けるほどだった。
やがて、完全に陽が落ちた。
窓から差し込む夜闇がレムを包む。
だがレムの右手はルミネへの情動を糧に、淀みなく動き続ける。
もはや、レムは暗闇さえも恐れなかった。
これから一寸先すら見通せない、希望の見えない闇の中ですらも前に進んでいかねばならないのだから。
◆
真夜中。
レムはひとり、病院のはずれにある小高い丘の上に立っていた。
かつてルミネと一緒に連れ立ってのぼった、一本だけ木の生えたあの丘だ。
レムが言葉や記号と格闘し始めてから、2日経過した。
嵐が突如かき消えたかのように、レムの戦いも唐突に終わりを告げていた。
レムは自分の所在を示す目印になるよう、丘の上の木にランプ型の電燈をぶら下げる。
病室の道具ケースの中にしまっていた、魔法がなくても唯一使える道具だった。
スイッチを点けると、電燈は黄色みがかった光で一帯を照らした。
戦いを終えたレムは、ルミネをこの丘の上へと呼び出していた。
月明りは良く出ていたが、病院もとっくに消灯している時間で、明かりなしで丘をのぼってくるには足元が心もとない。
レムは木に背中を預けながら、ルミネがやってくるのをじっと待つ。
西の病棟の向こうには、満月が浮かんでいる。
晴れてくれてよかった、と思った。
涼やかな夜風が、足元を吹き抜ける。草木が擦れてざわざわと音を立てた。
目を瞑り、肌に触れる冷たい風を感じる。
そうしてこの小さな丘に意識を沈めて一体になっている限り、緊張とは全くの無縁でいられた。
ルミネには「見せたいものがあるから」とだけ伝えて日時を指定していたが、不安は全くない。
必ずルミネは来てくれる――信頼にも似た確信があった。
そしてルミネは確かに来た。
足元を伺うように地を左右する懐中電灯の光とともに、草を踏む足音が聞こえる。
姿が見えなくても、それがルミネのものだとわかった。
小さな歩幅で確かに地を踏むその韻律は、レムが何度となく隣で感じてきたものだからだ。
ひょっこりと軽やかな足どりで姿を現したルミネは、丘を照らす電燈の範囲下に入った。
こんな胡乱な呼び出し方をしたというのに、いつものように屈託なく笑いながらレムの隣へとやってくる。
「待った?」
「ううん、ぜんぜん」
暖かさを含んだ電燈の光が、レムの隣に立つルミネを包む。
少しの間、レムはその姿を見つめる。
光の中に浮かび上がるその横顔を、美しいと思った。
「あのさ」
ルミネに呼び掛ける。ルミネがレムの方を向く。
話を切り出そうとして思わず言葉が詰まる。
言いたいことも、するべきことも決まっていた。
それでもいざルミネを前にすると、確かな緊張が走る。
向かい合った二人の間に僅かな静寂が流れた。
大いなる前進には、勇気が要る。
それをわかっているのか、ルミネは何も言わないでいた。
張りつめた緊張が、光の中に馴染んで消えてゆくのを、ただ待っている。
そのおかげで、レムは呼吸を落ち着けて話し出すことができた。
「転院、することになったんだ。来週ね。手術のために。同意書にサインしてきた」
「あのぐちゃぐちゃになったやつ?」
「うん。そしたら結局新しいのに書き直しさせられたけどね」
ふふ、と笑うルミネ。
一呼吸おいて、その後に小さく言った。
「良かった」
短い、けれども確かな実感のこもった言葉だった。
染み入るような安堵が、小さな声となって零れる。
ルミネのただひとつの願い――レムに、自分の死をも過去にして生きてほしい。
その願いはレムの決意を以て、今ここに果たされたのだ。
「もう少しで、ルミネには会えなくなる」
「うん」
だが、まだ果たすべきものは残っている。
「前にした約束、覚えてる? 復帰したらあなたに私のパルスオペラを見せるって」
決意を秘めた眼差しを、ルミネへと投げかける。
「うん、でもそれは……」
間に合わない。運命が許さなかった。
レムが回復し、魔法を取り戻し満足にパルスオペラを演じることができるようになるまでには、かなりの時間を要するだろう。
それまでにはルミネの命が尽きる。それはどう足掻こうと覆せない現実だった。
「わかってる。でも、だからってこのままお別れして、約束をなんてなかったみたいなフリをするってイヤだから。だから、せめて何かできないかって考えたの」
レムはその現実を良しとはしなかった。
他ならぬルミネと交わした約束だ。
決して叶えることができなかったとしても、自分の言葉には責任を持ちたかった。
この残酷な世界の中で、それでも前を向いて生きるためにできること――その第一歩として自分ができることは何か。
考えに考え抜いて、レムは自分なりにひとつの答えを出した。
「だから、歌を作ってきたんだ」
「う、歌?」
ルミネは驚きで目を見開く。
その答えはルミネにとっては予想外のものであったようだ。
「うん。私と……ルミネのための、ね」
レムはそう言ってから、少し恥ずかしそうに肩をすくめて見せる。
歌、そしてそれに合わせた曲。
ここ2日での、ペンを握ったレムの奮闘による成果。
確かに歌はパルスオペラを構成する主要素ではあれど、そのものたりえない。
例えるならば、皿の上に乗ったイチゴを指して、ショートケーキと強弁するに等しい。
だが、レムは紛い物のパルスオペラを披露することを恐れはしない。
レムの作ってきた歌は、この世界の誰もが見向きせず価値がないものと見做すかもしれない。
だが今この瞬間ここに立っているふたりにとってだけはそうではない。今のレムにはそれで十分だった。
ルミネに出会うまでは、この世界の価値基準に囚われてパルスオペラをやってきた。
名声と評価。
『この世界に認められること』だけを求めて苦しんでいた。
それだけが自分の全部だと、思い込んでいた。
だが、そうではない。
生きる意義は世界に求められるのではなく、自分で決めなければならない。
そうして見出したものだけが、何ものにも奪われないものとして導きの星となる。
他ならぬルミネが、それを教えてくれたのだ。
目に見えるものが、全てではないと。
ルミネとの別れに際して何ができるか――それを考えた時一番に思い浮かんだのは、彼女にパルスオペラを披露するという約束だった。
運命は巡らず、約束はついに果たせないままになってしまった。
だが約束をしようと思ったレムのパルスオペラに賭ける熱と意志だけは、確かなものだったのだ。
故にこの熱、そしてルミネへの想いだけは、夢幻にはしたくはない。
「だから、聴いてくれる?」
歌に変えて己の魂の裡に刻み、永劫の存在証明とする――それが、レムの決意だった。
「うん」
意図や意味も尋ねることなく、ただ小さく頷くルミネ。
その瞳には輝きが宿っていた。
レムの決意を、理屈ではなく魂の奥底に響くもので直感しているようだった。
ルミネの意を受けたレムは、その場で一歩二歩と後ずさり、レムから距離を取る。
樹上のランプの温かい明かりが、レムとルミネを結界のように優しく包んだ。
光に照らされたこのちっぽけな空間は、間違いなくふたりだけの世界だった。
レムは大きく深呼吸をして、春の冷たい夜風を胸の中に仕舞いこむ。
草木のざわめく音のほかは、何も聞こえない。
演目前にスイッチを入れる意識は、久しく味わっていなかった。
だが、その懸念も杞憂に終わった。
感じていた一抹の不安は、冷たい空気と一緒に胸の中に吸い込まれて消えてゆく。
頭で忘れても、肉体が覚えていてくれた。
レムの声は彼女の身体の奥底で、解き放たれる刻をずっと待っていたのだ。
もはや迷いや恐れはない。
レムは心地良い風と光の中、たった一人の観客を前にして高らかに歌い始める。
発するべき言葉と音は、既にレムの心の中にある。
ただ肚の奥底から湧き上がってくる熱と情動に身を任せればよかった。
レムはふたりだけの小さな世界を埋めつくすように、旋律に力強い声を乗せる。
その詞や旋律は、ルミネを喪う悲しみを感じさせることは決してなかった。
奔流のように溢れ出るルミネへの想いが、レムによって唄の形を成してゆく。
その技はまさに天才的と言ってよい。
感情の高揚が、時折音程の揺らぎとなって現れる。
だがその微妙なズレすらも、感情の機微を表す音へと表情を変える。
1オクターブにつき12音。
そんな理屈は、世界が勝手に決めたことに過ぎない。
音と音の間に存在する無限の世界を攫うように、レムの透きとおるような高音と響くような低音が通り抜ける。
病に罹り、入院生活を余儀なくされた。
パルスオペラへの迷い、いずれルミネを喪う苦しみ。
いくつもの試練に整理をつけたレムは、図らずしもこの境地に至っていた。
レムだけの音色が、ルミネの想いと意志を受け継ぎ生きてゆくという強い決意と覚悟を浮かび上がらせてゆく。
この唄が心の中にある限り、意志の強さに限りはない。どんな運命にも負けはしない。
そうする間に、レムの唄はついに終局へと差し掛かる。
『未来なんて見えない。それでも私はあなたに言うんだ。《また明日》って。』
この数か月のあいだルミネが幾度となく言っていた「また明日」という言葉。
何があっても前を向き続けるという、ルミネの意志を体現した言葉でレムの唄は締めくくられた。
歌い終えたレムは、息を大きく吸って、吐いた。
吸い込んだ冷たいと歌い終えた後の熱の残り香が、一緒になって出てくる。
張り詰めていた緊張が、一気に解けるようだった。
「レム」
ルミネは一歩二歩とゆっくり歩み寄って、両手でレムの手をやさしく握った。
儚ささえ感じさせるような小さな白い手。
そこから感じる温かさは、じきに消えてしまうものかもしれない。
「……わかったよ、レム。あなたの気持ち、ちゃんと伝わった」
「ほんと」
「うん」
レムはルミネの顔を覗き込んだ。
いつものような、穏やかで全てを包み込んでくれるような柔らかな笑顔。
その瞳の奥には、いつか見た時と同じ燃えるような命の火が煌々と輝く。
その火がじきに消えてしまうのだとしても。
この瞬間、この想いを忘れない限り、ルミネの意志はレムの中で永遠に輝き続ける。
「レム。私、とっても幸せだった。本当にありがとう」
ルミネからは、もはや死に際しての一切の恐れや憂いも感じられなかった。
逝ってしまっても、自分の意志はレムの中にある――そう確信しているようだった。
苦難続きだったルミネに訪れた、レムとの出会い――そして充実の日々。
束の間の幸せだったそれは、レムの唄の下で永遠の僥倖になったのだ。
旅路を終える者と、旅路を進み続ける者。
もはや死すらも、このふたりを分かつことは決してない。
記憶の中の唄を辿れば、その中にはふたりで手をとり合って歩んだ軌跡が、確かに息づいている。
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