27

 泣いて抱き合っている両親を見ながら兄が言った。


「ねえおばあ様、一つ提案なんだけど。俺はどうしても獣医になる夢を捨てたくない。卒業まで6年はかかるし、そこからも研修医として経験を積む必要がある。だからあと10年の時間が欲しい。おばあ様に第一線で10年頑張ってほしいとは言わないよ。だから10年ほどは会長としてご意見番役をやってくれないかな。その間に見極めてもらってっさ、この夫婦じゃ無理だと思ったら、柏原さんにワンポイントリリーフを頼むって言うのはどう? 俺が帰るまでの間だけの」


 ばあさんが顔を上げた。

 私は心の中で『鬼ババア』と呼んでいたこの人の、こんな顔は初めて見た。


「10年……長いね。私を幾つだと思ってるんだ」


「おばあ様はまだ若いさ。だってまだ70でしょ?」


「69だよ」


 兄が楽しそうな笑顔を浮かべた。


「69なんて今どき現役じゃないか。満田会長なんてもうすぐ80になるんじゃない?」


「会長は81だね……あと10年か……優紀さん、お前が獣医になりたいという夢を持っているのはわかったよ。でもその先はどうするんだい? 辞めて戻って来るのかい?」


「辞めないよ。この家の近くで開業する。そうだ、近所の良い物件があったら抑えておいてよ。俺が開業するまでは倉庫として使っても良いじゃない?」


「倉庫……確かに今のままでは手狭だから探してはいるけれど。優紀さん、二足の草鞋が履けるのかい?」


「大丈夫さ。きっと洋子も手伝ってくれる。ね? 洋子ちゃん」


 私はギロッと兄を睨んだ。


「こんな時だけ『ちゃん付け』とかずるいよ? この際だから私の夢も言っておくね。おばあ様、私は学校の先生になりたいの。できれば高校の先生が良いなって思ってる。そのためにも

京都にある女子大に行きたいと考えています」


 ばあさんが驚いた顔をした。


「洋子……お前までここを出て行くって言うのかい?」


「出て行くんじゃないよ。勉強をするためにちょっとの間、離れるだけ。戻って来るよ? だって私はこの家が大好きだもん」


「帰ってくるつもりはあるんだね?」


 私はコクコクと何度も頷いた。

 ばあさんは目を丸くしながら、口をポカンと開けている。


「何もかも……思い通りにはならないねぇ」


 私はパンッと手を叩いた。


「ご飯にしましょう! 今日はお兄ちゃんの合格祝いだから、約束通りステーキです!」


 私は勢いよく立ち上がった。

 さっきまで泣いていた母が顔を上げる。


「そうね……準備しようか。洋子も手伝って」


「うん、着替えてくる」


 リビングを出てドアを閉めた。

 勢いで宣言したが、まだ心臓がどくどくと跳ねている。

 父さんと母さんにそんな秘密があったなんて……多感なお年頃としては、なかなかハードな経験だった。


 準備をしている間にばあさんが入浴を済ませ、兄に声を掛けている。

 そのまま部屋に向かうのかと思ったら、冷蔵庫を開けてビールを取り出した。


「洋子、コップを三つ持ってきて」


 ビールグラスをお盆に乗せてリビングに行くと、ばあさんと父さんが向かい合って座っているではないか! スワ、カマクラ! と緊張したが、どうやら違うようだ。

 父さんの前に置いたグラスに、ばあさんがビールを注ごうとすると、瓶を取り上げて父さんがばあさんに継いだ。


「いろいろ心配をかけました」


 今度はばあさんが父さんに注ぐ。


「どうも私たちは言葉が足りてないみたいだね」


 二人は少しだけグラスを持ち上げる仕草をして、ビールをごきゅごきゅと飲んだ。


「どうやら時代が変わったみたいだ。私はもう口は出さない方が良さそうだね」


「違いますよ。確かに時代は変わったけれど、変わっていない事もたくさんあるし、変えちゃいけない事もたくさんあります。間違えていたのは私の方です。てっきり恵子に嫌われているとばかり……」


 ばあさんが突っ立っていた私に声をかけた。


「恵子を呼んでおいで。後は洋子だけでできるだろ?」


 後は肉を焼くだけの状態までできているので、私は頷いて台所にいる母さんを呼んだ。

 暖簾の隙間から覗いていると、母さんが父さんの横に座るのが見えた。

 そんな些細なことで安心した私は、思わず拳をグッと握ってしまった。

 風呂上がりの兄が、髪をタオルで拭きながら台所に入って来る。


「なにごと?」


「シッ!」


 口の前で人差し指をたてて、目線でリビングを示す。

 兄妹で盗み聞きとは、なかなか穏やかじゃない。

 父さんが母さんにビールを注いでいる。

 私がニマニマしていると、兄が真顔で言った。


「もう十分だ。肉はまだか」


 イエッサー! グレートブラザー!


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