10

 夏休み後数日となった頃、いつも私より早く来ている葛城が遅れてやってきた。


「どうしたの? 珍しいね。電車が遅れてた?」


「ううん、ちょっと昨日眠れなくて……」


「ああ、そういうことか。病気かと思って心配したよ。また新しい振付けの特訓かな?」


「違うの……ねえ、洋子ちゃん。今日さぁ、お勉強休まない? 私……わたし……」


 そう言うと葛城沙也が泣き出した。

 たくさんの人達が行きかっているとはいえ、ここは図書館。

 冷たいフロアタイルにぺチャッと座り、幼い子供のように泣き始めた少女と、その横に佇む私。

 どう見ても『悪役令嬢』と『ヒロイン』を想像するじゃないか。


「どうした? ケンカ?」


 見知らぬ男の人が声を掛けてきた。


「あ……いえ、違います。急に泣き出しちゃって」


「どこか痛いのかな?」


 そう言うとその男性は葛城の肩に手をかけて、顔を覗き込むようにして言った。


「大丈夫? どこか痛めたの?」


 しゃくりあげながら葛城が首を横に振る。

 困ったその男性が、私に助けを求めた。


「そこのベンチに移動させようか」


 頷いた私は、その人と一緒に葛城を両脇から支えて移動した。


「どうしたの? 葛城……何があった?」


 私の問いに顔を上げた葛城は、思い出したように大声を上げて泣き始めてしまった。

 横から伸びてきた葛城の手が、ぎゅうぎゅうと私の首を締め付ける。

 これが噂に聞く『アーム・トライアングル・チョーク』というものか?

 拙い……息が……


「こらこら、お友達が窒息しちゃうでしょ。手を離してあげなさい」


 葛城の腕が緩み、私はやっと息を吸うことができた。

 マジでヤバかった。

 ありがとう、通りすがりのお兄さん。

 私は彼のことを心の中でメシアと呼ぶことにした。


「ああ、落ち着いたみたいだね。じゃあ僕は行くけど、君は大丈夫?」


 メシアの声に頷いた私は、弾けるように立ち上がって礼をした。


「ありがとうございました。お陰さまで助かりました」


「いやいや、お役になてたのなら何よりだよ。じゃあ頑張ってね」


 床に投げ出していたカーキ色のトートバッグを拾い上げ、メシアは去って行った。


「葛城、出ようか」


 私はまだしゃくりあげている葛城の腕をとって、図書館を出た。

 まだ昼前だというのに8月の太陽は容赦なく照り付けてくる。

 こんな日は併設されている児童公園で遊ぶ子供もいない。


「あそこは?」


 私は大きな桜の木の下に設置されているベンチを指さした。

 葛城は頷いて大人しくついてくる。

 鞄から水筒を出して冷えた麦茶を注いだ。


「飲みなよ。ヤカンで煮出してるから美味しいよ」


 コクンと頷いた葛城は、一気にそれを飲み干した。


「ありがとね、洋子ちゃん」


「何があった?」


「あのね……」


 葛城の口から出てきた話は、私の想像を遥かに上回るものだった。



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