第2話

 月日が流れるのは早い。小学校はあっという間に卒業して、中学校もいつの間にか終わっていた。このまま人生が終わるのかと思えば、高校生になった途端時間の経過はゆっくりになって、何もかもが退屈に思えた。

 中学生の間にもう少し勉強しておけば良かったと思う。ここより頭の良い高校に入れたら、もう少し自分の背丈に合う友達が見つけられただろうから。周りの女の子が縛られているような女の子同士の付き合いは梨花には分からなくて、かといって孤立を選べるほどの強さもなくて、作り笑いの裏に退屈と憂鬱を押し込めた。

 浮いている、と思う。この教室にいる人たちは皆上っ面を繕うのに一生懸命で、本当の姿を見せようとしない。だけど時折本性が透けて見えて、「ああ、人間なんだな」と思う。だけど自分は繕う上っ面こそあれど、中身がないように思える。だから浮いていて、ここに居場所があるのかが分からない。

 梨花はずっとさがしものをしている。探して、求めて。手を伸ばしている間に自分の中身はあちこちに散らばってしまって、もう残されているものはない。だから教室に立つ自分に与える中身はなくて、ただ空っぽの自分を無防備なまま冷たく澱んだ場所に放り出している。

 人魚の彼とまた会えると無邪気に信じていた頃は、毎日が楽しかった。街を歩く人の姿を見つめては、あの夜の海のような瞳を探したものだ。だけど今ではもう、これだけ探しても会えないのだから無理なのだと理解してしまっている。だけど探したい気持ちも会いたい気持ちもおさまることを知らなくて、彼のことを思い浮かべるたびに、すでになくしたはずの中身が引き裂かれていくようだった。

 多分、あの人魚の彼が初恋の相手だ。あの時は恋も胸の高鳴りも知らなかったけれど、見つかるわけもない面影を探し求めて、次第に薄れていく記憶を繋ぎとめるように毎日鱗を眺めているのだ。これを恋と呼ばないのであれば、どんな名前をつけてやればいいのだろう。

「梨花、放課後付き合ってほしいところがあって」

 華とは弁当と一緒に食べる仲ではあるけれど、好きではない。多分、お互いに。

「彼氏さんへのプレゼント探し?」

「そう。もうすぐ誕生日だから」

 華は梨花を連れまわすけれど、梨花の要望を聞いたことはほとんどない。華の行きたいところしたいことを曲げたことはないし、梨花が自分のしたいことを主張したところで、華のしたいことをやってもなお時間が余った時でないと採用してもらえない。いつも華はやりたいことがたくさんあるから、梨花の希望を聞いてもらえたことは数えるほどしかない。

 華なりに梨花のことが好きなのかもしれないと思う時はある。だけど、華にとって楽しいことに付き合ってくれる人ならば誰でもいいのだろうとも思う。華くらい自分勝手だとほとんどの人に避けられるから、友達が梨花しかいないだけで、梨花以外に誰かいるならその人でいいのだろう。

 華を捨てても、他に友達はいる。教室でほんの少し会話をする程度で友達を名乗っていいのなら、梨花は孤立はしない。だけど実際には梨花には心を許せる人なんていなくて、華に振り回されるまま放課後を過ごしている。

 どうして華なんかに恋人がいるのかが分からない。それなら彼女よりいくらかマシな人格な自分の方が恋人ができそうなものなのに。梨花があの彼を探し求めている以上は、恋人なんて出来もしないのだけれど。

 身の丈にあった恋が必要なのかな。そういい加減に結論づけて、放課後のプランに梨花は耳を傾けた。


 放課後のショッピングモールは、制服のまま遊びに来た学生の姿がちらほら見える。同じ制服の人に会いたくないな、なんて下を向いてしまうのはもうクセで、なかなかやめられない。

「ねえ、梨花。これどう思う?」

 華が手に取ったものは赤の青の組み合わせの、ビビットカラーのマフラー。これから寒くなる季節だから、マフラーという選択肢は悪くない。だけど問題は色だ。そんな色が似合うファッションなんて限られている。華の彼氏がどんな服装で普段いるかは知らないけれど、華に対しては「センスがない」と言わざるを得ない。しかしこれを指摘したところで彼女は不貞腐れる。ご機嫌取りをするのは骨が折れるから、したくない。

「いいんじゃない」

 求められる回答は「イエス」だけ。ほら、私のことなんてどうでもいい。

「やっぱりそうだよねえ。梨花はセンス良いから自信つくよ」

 お会計をしている華を横目に、携帯端末を取り出す。家族からの連絡、無し。SNSの通知、無し。つまらない。

「お待たせ」

「うん。この後どうする予定?」

「今日塾なんだよねえ」

「そう」

 ほっとした。今日はもう振り回されなくて済む。

 早く帰ろうと店を出る。自転車置き場までふらふら歩いていると、華が突然「あっ」と声を上げた。

「カズくん」

 華の声が急に甘くなる。カズくんは、確か華の彼氏の名前。華が走っていった方に視線を向けると、男が一人立っている。

 自分たちより少し年上くらいだろうか。制服は着ていなくて、シンプルなシャツにスラックス、無地のパーカーを羽織っている。特段飾り立てる様子もないけれど、身だしなみに気を遣っていないわけではない。シンプルなものをファッションとして楽しんでいるようだった。

 さっき華が選んでいたプレゼント、とめておけば良かった。

「今日塾じゃなかったの?」

「そうなんだけどぉ」

「遅刻するよ。先生うるさいんでしょ」

「お母さんのところに電話行くのはヤダなあ」

 華はカズに塾まで送ってほしそうだったが、彼は用事があるからと断っていた。

「じゃあ、梨花塾まで送ってよ」

 じゃあ、ってなんだ。喉元まで出かかった言葉を飲み込む。

「私も用事あるから。一人で行って」

 華は不貞腐れたが、カズに頑張ってねと笑いかけられて渋々従った。自転車にまたがり、のろのろと去っていく。後には梨花とカズが残される。気まずくはあったがどうせ他人だ。会釈してからこの場を離れようと思ったが、彼がこちらに話しかけるほうが早かった。

「華、我がままだけど根は良い子だから。よろしくね」

 根は良い子って、彼女は彼の前でどれだけ良い子ぶっているのだろう。そう思うとじくりと胸が痛む。彼が鈍感かもしれないという可能性はさておき、彼に向けるだけの配慮を梨花にもしてほしいと思った。

「どうしたの?」

「いえ」

 今度こそ去ろうとして、彼に会釈する。顔を上げた時、初めて彼と目が合った。見られている、観察されている。そう分かるような目の合い方だった。彼の黒い瞳に、梨花が映っている。

「華から一番の友達だって聞いてた。良い子みたいで安心」

「それは、どうも」

「連絡先交換しない?」

「そういうの、いいです」

「じゃあいいや」

 彼はすぐに引いた。そして華に向けるのと同じ笑みを浮かべて、じゃあねと手を振る。その瞳がすぅと細められて、そこに映す色を変えた。

 海の色だと思った。

「あの、待ってください」

 歩いて行こうとする彼の袖を引っ張る。「なぁに」と彼は笑って、梨花を見下ろした。

「今から遊ぶ?」

 こくりと頷くと、彼は梨花の手を握った。

 もうどうなってもいい。あの人魚の彼の瞳に、この人が一番近い。もうあの人魚の彼に会えないのなら、代わりの人で良い。代わりの人で良いから、彼に触れたい。

「実は華の我儘っぷりには困ってて」

 面影を重ねて、悪いことなんてない。

「ほら、あいついつもジコチューじゃん」

 気がつかれさえしなければ、それは誠実。

「顔はかわいいんだけど、中身がねえ」

 この人だって遊んでる。こっちの遊びだってお互い様。

「ゲーセン行く?」

「ゲーセンは苦手です」

「じゃあカラオケ?」

「人前で歌うのはちょっと」

「じゃあ、家来る?」

 初対面の人の家に行くなんて、馬鹿だと思う。遊ばれていることなんか明白で、「大事にしてほしい」なんていう夢らしき夢だって聞いてもらえない。その日遊ばれて終わり。次を望めば切られるか次も良いようにされるだけ。

『あんた、そんなやつだったのか』

 頭の中に浮かぶ鱗が、軽蔑の眼差しを向けてくる。彼は梨花の純粋さを信じ切っていたようで、その目には侮蔑の他に悲しみを浮かべていた。

 あんたが私に会いにきてくれないのが悪いんだよ。でなければ、私だってこんな投げやりなことしない。あんたのせいなのに、どうしてそんな顔をするの。

「脱がすね」

 涙を流したのは梨花なのかそれとも彼なのか。脳裏に一筋の光が流れる。その痕を心のどこかで追いながら、皮膚に触れる冷たい空気を感じていた。

 華ちゃん、あんたの友達、最悪だね。彼氏も最悪だけど。

「初めてでしょ? 優しくするからね」

 こんな安い台詞に踊らされる自分は、随分とひどいと思う。少女が少女である価値なんて、血を一筋流せばなくなってしまうだろうから、ただ流されて、寂しさを埋めるためだけに価値を捨ててしまう自分が嫌だった。

「ごめんなさい」

 何に謝っているの。そう笑いかけてくる人は替えのきく宝物を壊すことに夢中で、その目の中には梨花を映してはいない。少女という肉体が少女でなくなっていく様を、その人は彼に似た瞳で見下ろしていた。

 事が済めば、もう用済みだとばかりに家から追い出された。「遅くなっちゃう前に帰りな」なんて優しい口調で言ってはいたけれど、そこに籠められたのは慈しみでもなければ労いでもない。ただ要らなくなった物を捨てるときの、少しだけ惜しむような清々しさだけだった。もう死んじゃえ。華の彼氏もクズだけど、自分も相当なクズだ。死んじゃえばいいのに。

 今更になって友人を裏切った罪悪感が込み上げてきて、古いアパートの階段を下りている間にじわじわと涙が込み上げてきた。家に帰る気にもなれず、怠い身体を引きずるようにしてふらふらと街を歩いているうちに、いつの間にか海辺に吸い寄せられていた。子どもの頃に溺れかけた海の、その浜辺。道路と浜辺を隔てる柵の隙間を通って砂を踏みしめると、靴が沈んだ。

 さく、さく。ざく、ざく。一歩足を踏み出す度に、振動で顎を伝う涙が砂に落ちる。斑に痕を残していくそれがみっともなくて、振り返って砂を蹴り上げた。ぱっと舞ったそれは涙の痕を消すだけでなく制服を汚して、余計に惨めになった。

 雫が零れても目立たないところに行きたくて、打ち寄せる波で塗れた砂の上を目指す。波の音が近くなっていく度に、冷たい水に叱られているようでほっとした。汚れたスニーカーを海水に浸し、外側についた砂を落とすと段々醜いものが落ちていくような気がして、深い場所へと身を進ませた。

 触れた水は想像よりも冷たくて、梨花の閉じた心を否定しないから心地良い。このまま沈んでしまえたらいいのにと歩き続けると、スカートが水中を舞い、足に絡みついた。

 ああ、寒くなってきた。溺れて死ぬのと凍えて死ぬのはどちらが楽だろう。そう思った時、ばしゃりと後ろから音がした。

「何してるんだよ」

 さっきまで一人だったはずなのに、後ろに人が立っていた。あまりに不自然なことに悲鳴を上げかけるも、その人物の腰に鱗がついているのに気が付くと、声はからからに乾いてしまった。

「また溺れるつもりか」

 少年は青年に変わりかけていた。子供らしかった輪郭はいくらか骨ばって、固い印象に変わっていた。伸びた背に広くなった肩は大人と大差はないのに、瞳だけがまだ子どもじみていて、夜の海のような色をそのまま残していた。

「遅いんだよ」

 やっと絞り出した言葉は再会を喜ぶものではなく、彼を責めるようなものだった。しかも本来彼に非はない。梨花の罪をなすりつけているだけだ。それでもあと少し早ければ、と思う気持ちは消えなくて、彼に当たり散らした。

「仕方ないだろ。浅瀬だと俺は泳げない」

「違う。そうじゃない、違うんだよ」

 涙が視界を覆い、彼の姿が見えなくなる。

「あんたがあと少し、私にはやく会いに来てくれたら」

 こんな想いせずに済んだのに。そう叫んだ言葉は震えていて、あまりにも弱々しかった。


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