うしかい座とスピカ

星詠み💫

エマとユーリ

 エマは留守番をするのが待ち遠しかった。両親は数ヶ月に一度、夜会へ行くのだがそれが今日であった。

 

 きっちりと正装をし、足の先まで上品に振る舞うさまを見て子どもながらに大人の世界も大変ね、などと思わずにはいられない。

 

 両親を見送ると、エマは浮き足立って屋敷の中へと駆け込んだ。閉めた扉にもたれかかると深呼吸をして、胸の鼓動を少しでも落ち着かせようとゆっくり息を吐く。

 

 意識すればするほど胸が苦しくなり、それが感情的なものと一致しているのはエマ自身も自覚していた。


 待ちに待った、金曜日。二人を邪魔するものは何もない。


「ユーリ、どこにいるの?」

 

 エマは高く澄んだ声で呼びつける。彼はすぐに奥の部屋から姿を現し、こちらまで来ると恭しく頭を下げた。


「お呼びでございますか、お嬢様」

「ええ」


 エマはいつも両親の前で精いっぱい見せる主人顔を一瞬浮かべ、その必要が無いことを思い出すとすぐにありふれた少女へと戻る。


「ほら、今夜はお父様もお母様も夜会で私ひとりだから、その、寂しくて。だからベッドに入る時間まで一緒に過ごしてほしいの」


 エマは自慢のマホガニー色の瞳を潤ませ、上目遣いで見つめると大抵の者は断れないことを知っていた。彼も違わず、小さな主人の命令に従う。


「では、お嬢様がおやすみになるお時間までご一緒いたします。ですが、このことは――」

「分かっているわ」


 ユーリの言葉を遮ってエマは続ける。


「あなたはうちの使用人だから、私と親密にするとお父様やお母様はきっとよく思わないはずね。でもあなたはもう何年もうちで働いていて信頼されているし、私もそこまで愚かじゃないわ。だから大丈夫よ」


 エマは半ば自分に言い聞かせるように話す。彼と二人で過ごすのはこれが初めてではなかったし、今のところは両親にも知られていなかった。


 ユーリが使用人として家へやってきたのはエマがまだ幼い頃で、この運命的な出会いを忘れたことは一日としてない。


 十年近く経っても彼は当時と変わらぬ様子で嫌な顔ひとつせず、ワーグナー家に仕えている。エマの暮らしの中には必ず彼がいて、殆ど離れたことはなかった。

 

 いつからか彼を個人的に意識するようになり、彼のことを想うと体の奥が疼くように苦しく、それでいて幸せな夢を見ているように気持ちが弾み、体は軽やかに踊り出す。


 それを恋だと認識したのはほんの半年くらい前で、エマの初恋だった。


 思春期の少女にとって、この恋の行方はさながらロミオとジュリエットのように悲劇的であり、ヒロインと自身を重ねては嘆き哀しみ、またそれに比例して、この報われぬ恋への甘酸っぱい熱情を激しく募らせていた。


 もちろんエマはこの恋を報われぬものだとは全く思っていなかったし、そうするつもりなど甚だなかった。


 何もしないでさめざめと泣くだけの人生なんてごめんだわ。私の人生は私が決めるの――


「ねえ、ユーリ」

「はい、お嬢様」

「今夜はとても星が綺麗よ、ほら」


 エマはテラスからはしゃぐように身を乗り出し、天鵞絨ビロードのような夜空を指差した。


「すごくきらきらしているわ」


 そう言うエマの瞳も、眺める星空を映して輝いていた。


「それは地球の大気の影響で星の光が屈折して見えているからです」

「へえ、そうなのね」


 エマの瞳に好奇心の色が加わる。


「あそこに見える一番明るい星は?」

「あの星はうしかい座のアークトゥルスです」

「それじゃ、その下で光っている星は?」

「おとめ座のスピカです。またの名を真珠星しんじゅぼしともいいます」

「まあ、素敵な名前」


 彼は心地良く響く少し甘ったるい声でエマの観察の邪魔にならぬように、耳元で囁くように説明を続けた。


「アークトゥルス、スピカ、デネボラの三星を結んだものを春の大三角と呼びます。また、アークトゥルスとスピカは春の夫婦星めおとぼしとも言われます」

「夫婦星。ユーリは本当に何でも知っているのね」


 エマは尊敬の眼差しを彼に向ける。それに答えるかのように、彼の青い瞳が微かに光度を増したように見えた。


「お答えできるのは、この頭脳に蓄えられていることだけです。よって知らない事柄について言及することは不可能です」

「でも星座について、私よりはるかに詳しいわ。えっと、スピカがおとめ座ということは、こちらが女性なのかしら?」

「はい、そうです。アークトゥルスが男性です。そして北斗七星のの部分のカーブを延長すると夫婦星へとたどり着きます。それが春の大曲線と呼ばれています」


 ユーリは実際に星を指差して、一度も言葉に詰まることなく、エマの為にドラマチックな星空の解説員を務めた。


 今や頭上に広がる全ての星々は、二人を包みこむようにゆっくりと回転し、一振りの気まぐれな彗星と共に春の訪れを告げ、世界は愛と喜びで満ち溢れていた。


 エマは夜の柔らかな風を頬に感じ、ユーリの方をちらりと見た。彼は変わらず微笑をたたえている。


「あのね、ユーリ。私の話を聞いて欲しいの」

「はい、お嬢様」

「私、大人になったら地球を出てシリウスに行きたいと思っているの。お父様たちは反対するでしょうけど、そんなのかまわないわ」


 エマは僅かに語気を強めた。


「お嬢様のお考えでございましたら、それが一番良い選択かと思われます」

「ありがとう。ユーリなら分かってくれるって信じてた」

「そのように言っていただけまして大変光栄です」

「もう、いいのよ、かしこまらなくても。と言ってもそれがあなたらしさなのだものね。――あのね、もう一つだけあるの、もう一つだけ。あなたに伝えたいことが」

「はい、何でしょうか?」 

「私――」


 エマは視線を逸らし、胸の上で両手を握り締めていたが、ついに決意を固めると顔を上げた。


「私、あなたのことが好きなの。こんな気持ちになったの、生まれて初めてよ。あなたのことを想うとすごく嬉しくて切なくて、心の中があたたかくなるの。ずっとあなたのそばにいたい――あなたと一緒に生きてゆきたい」


 最後の言葉を言い切ると、エマは彼を真っ直ぐに見つめた。胸は張り裂けんばかりに高鳴り、両の目は今にも泣きそうに潤んでいたが、決して泣くまいと口元をぎゅっと噛み締める。


 ユーリは言葉の意味を思索するように、しばらく動かなかった。


「急に驚かせてしまってごめんなさい。でもこれが私の気持ちなの」


 エマは徐々に落ち着きを取り戻す。ようやく彼はゆっくりと口を動かした。


「お気持ちは大変嬉しいのですが、お嬢様。わたしはワーグナー家にお仕えするために存在しているのです」

「それは分かってるわ! 今のあなたの身分じゃ何も自由に選べないことも。でも地球を出ればあなたも私も同じ、平等な第一市民になれるのよ。自分の人生を誰にも邪魔されずに自分で決めることが出来るの。それってとても素晴らしいことだと思わない? あなたはあなたのままでいられるの。ねえ、私と一緒に行きましょう、自由を手にするために。そしてあなたをずっと愛すると星に誓うわ」


 彼の手を握るエマの手はとても温かい。その時、彼は初めて強い衝動が湧き上がるのを確かに感じた。


 エマの嘘偽りのない言葉が彼の心の表層を拭い去り、自分には決して許されない、愛に対する渇望の殻をつき破らせたのだ。 


 仲間たちも自分と同じように感じたりするのだろうか?

 誰かを想うのだろうか?

 

 いや、こうして考えていること自体、もう仲間たちとは違うのだ。彼は素早く思考を切り替える。


「さあ、私の話はこれでおしまい。そしてこの気持ちは決して変わらないわ」

「お嬢様、わたしも――」

「なに? ユーリ」


 彼は少しの間迷ったように黙っていたが、エマの瞳を見つめながら言葉を続けた。


「わたしも、お嬢様と生きてゆきたい、そして、お嬢様をお守りしたい、と思っております。これが、わたしの気持ち、と呼ばれる感情です」


 彼は一語ずつ慎重に言葉を選んで、それが自らの口から発せられたことに驚きを隠せないように青い瞳を見開いた。


「まあ! ユーリ、私、すごく幸せよ。世界で一番の幸せ者に違いないわ!」

「お嬢様――」


 彼はそっとエマを抱きしめる。すると彼の中でカチリ、と何かが動く音がした。 

 

 それは解放の合図だった。


「ああ、ユーリ、このまま時が止まってしまったらいいのに――」


 エマは目を閉じ、体の芯から痺れるような恍惚の余韻に浸る。溶け合うように互いの体温を感じ、まるでひとつの意識となって産まれ変わるようだった。


 彼もエマを感じ、意識の深淵に燃える愛の片鱗を見出す。


 ずっとこうしていたかったが、夜も半ばになり風が冷気を帯びてきた。


「ですがお嬢様、そろそろおやすみにならないとお体にさわります」

「ふふ、ユーリったら本当に真面目なんだから。お願い、あともう少しだけ、こうしていたいの。そうしたらちゃんとベッドに入るから――」

「はい。わたしも、もう少しだけ、こうしていたいのです」


 彼は愛おしそうにエマを見つめた。二人は微笑みながら、永遠に続く幸福の一片の淡い輝きを分かち合うように体を寄せ合う。


 どこまでも続く満天の星は、彼らのためにきらりと瞬いた。


 ♢♢♢


「ねえ、ユーリ、どこにいるの?」


 翌朝、エマが呼んでも彼は姿を現さなかった。


 エマは訝しむ。今まで彼女が呼べば、屋敷のどこにいようとか彼はすぐにやって来たというのに。


「ユーリ? ねえ、ユーリったら――」


 その時、玄関の扉をノックする音が響いた。間を開けてもう一度。


 エマは周りを見渡し、誰もいないのでしぶしぶ扉を開ける。そこには見知らぬ小太りの男性が、愛想のよい顔をして立っていた。


「あの、どちらさまですか?」

「わたくしはアースター社のものでございます。こちらをお届けにあがりました」


 男性は白い封筒をエマに差し出した。


「手続き完了の正式な書面でございます」

「何の手続きですか?」

「YUR-5の契約期間が満期になりましたので、昨日さくじつ本体を回収致しました。そちらの手続きに関するものでございます」

「YUR-5、ですって?」


 エマは怪訝な顔をして男性を見遣る。男性は事務的な笑顔を貼り付けたまま、てきぱきと答えた。


「はい、YUR-5は当社の製品で、主に家事や子守りをするために作られた自立型機械ロボットです。ワーグナー様とは十年一括契約で自動更新を承っておりますので、本日、最新モデルのものを一緒にお持ちいたしました。今すぐご覧になられますか?」


 エマは胃の中に冷たいものが下りてくるのを感じ、思わず身震いした。


「ねえ、もしかしてユーリのことを言っているの?」

「はあ、ユーリ、ですか? ああ、YUR-5の愛称ですね。そう呼ばれる方も多いとお聞きします。しかしただの機械に名前を付けられるのはあまりお薦めいたしません。ほら、愛着が湧きますからね。実際、引き取りの際に泣き出すお子様もいらっしゃるのですよ」

「彼をどこへ連れて行ったの?」


 エマは男性の話を無視してせき立てる。男性はエマの態度を不審に思ったが表情には出さず、あくまでも笑顔のまま話し続ける。


「回収後の所在につきまして詳しくお話することは出来ません。いわゆる企業秘密というものです。ですが大まかなことはそこらの家電製品と大差ありません。分解し、あらゆるものをリサイクルします。それは迅速に効率よく行われます。わたしたちは環境に優しいのです」


 エマに戦慄が走った。


「迅速に分解って……まさか、もうしてしまったの?」

「そうですね、引き取り後十ニ時間以内にリサイクルの工程は完全に終了いたします」

「つまり、彼を――殺したのね?」


 エマは男性を睨みつけた。男性はその言葉に驚き、目を丸くする。


「いえ、そのような表現は些か不適切かと。あれらはただの機械でございます」

「いいえ、彼は生きていたわ! 私と同じように笑ったり話したり、色々なことを感じたりしていたのよ!」

「それは意識の模倣にすぎません。人間の行動パターンを真似するよう高度にプログラムされているだけなのです」

「違う! 彼は人間そのものよ!」

「YUR-5がですか? 確かに機能的には人間の動作とほぼ一致しています。ですがアンドロイドならともかく、あれは誰が見てもただの動く金属とシリコンの塊です。どうぞお気を悪くなさらないでください」


 エマは信じられない、というように首を振る。


「どうしてそんなひどいことを言うの? 彼はいつも私のそばにいてくれた! 優しくしてくれた! 愛してくれた! 彼は自分の人生を勝ち取りたいと思っていたのよ! それなのに惨たらしく殺してしまうなんて――こんなのってあんまりだわ!」


 エマは激情のあまり、喘ぐように荒々しく呼吸をしながら叫んだ。


「どうか、落ち着いてください、お嬢様――」

「やめて! あなたなんかに呼ばれたくない! ユーリだけが私をそう呼んでいいのよ!」


 取り乱すエマを何とかなだめようと、男性が彼女の肩に触れようとする。


「触らないで! この人殺し!」


 エマは男性を振り切るように、屋敷の中へと逃げ込んだ。


 玄関からエントランスホールを抜け、階段を駆け上がると寝室の豪奢なベッドに項垂れ、さめざめと泣き崩れる。

 

 そこにはもう、優しくなだめてくれるYUR-5ユーリの姿は無かった。


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