機嫌の悪い教師

斜奪

第1話

 妻が夫婦生活を漫画にして投稿するようになった。いわゆるエッセイ漫画である。投稿先はインスタグラムで、それなりに読まれているらしい。


 槙野智史まきのさとしは不愉快だった。「あたしンち」のような、ほのぼのとした絵柄のくせに、性生活まで明け透けに描かれているのだ。もっとも、エピソードのほとんどは現実とかけ離れているため、他人事として割り切っている。


『高校教師と妻』

 

1.「ずっと期待してお留守番してたの? ここ、もうぐしゃぐしゃだけど」


2.(旦那さん、早速ドSモード……)(ドキドキ)


3.「本当弱いよね。グリグリ」(声、我慢できない……っ)

 

4.「俺より先にイクなよ」「そん、なッ、あっ」


 新作に目を通すなり、智史はため息をついた。一体これのどこが面白いのか、フォロワーに聞いて回りたいものである。


 読み手の気持ちは分からないが、妻の気持ちはうっすらと理解できる。彼女は正真正銘のドMだが、智史がその期待に答えられたことはない。智史とのノーマルなセックスでは満たされない性衝動を、彼女は創作によって発散しているのだ。智史への当てつけか、あるいは注文かもしれない。


 コメント欄もチェックする。漫画の内容よりも、こちらの方が気掛かりだった。どうか誹謗中傷はしないでほしい。彼女の性癖に答えられない夫としての負い目もある。


 しかし見事に平和なコメント欄だった。どれも夫婦仲を羨むもので、攻撃的なものは一つもない。薄気味悪いほどである。


「私もドS教師にお仕置きされたい♡」


 うんざりした。智史は三十歳で、市内の県立高校に勤務している。担当教科は体育だ。妻のエッセイ漫画に登場する「トシくん」は、青ジャージに首から笛を下げている。


 同僚と飲んだ帰りだった。アルコールが適度に回った身体は人とのセックスを求めていたが、その気も失せた。言葉責めなど、天地がひっくり返っても自分にはできない。きっと的外れなことを言って、妻をげんなりさせてしまうだろう。それに妻はぐっすり眠っている。起こさないよう、智史はそっと布団に潜り込んだ。



 職員室での朝礼で教頭から話があった。このごろ女子生徒の間で目細工というものが流行している、見つけ次第、止めさせるように。


 この学校の偏差値は48で、市内では工業高校の次に入りやすい。自主性を尊重したら何をしでかすか分からないので、生徒指導は厳しく行われている。スカート丈は膝下、ソックスは白、バイト、SNS禁止……この学校は毎年定員割れだ。


「それくらい認めてあげても良いと思います」


 森川友恵が意見した。三十四歳の独身で、いつも長い黒髪を巻き貝のようにキツくセットしている。縁なしメガネをかけた、いかにもキャリアウーマンといった風貌だ。爆笑している姿が想像できない。


「認めるわけにはいかんでしょう。化粧と一緒ですよ。高校生のうちからそんなことをしていたら審美眼が狂います」


 智史も教頭と同意見だ。つい最近も、体育の授業中、やたら瞬きをしている女子生徒がいた。聞けば、まぶたに着けた糊がゴロゴロすると彼女は言った。顔を洗ってこいとトイレに行かせたら、パッチリ二重になって帰ってきた。


 智史は時代の変化に戸惑った。自分が学生の頃は、歯列矯正中の学生は笑い者だった。それが、今は「良い親だね」と羨ましがられるのである。揶揄われるよりはよっぽど健全なのだが、一方で、「良い親」ではない学生はどんな気持ちでいるのかと新たな疑問も湧いた。結局、容姿の問題が解決したわけではなく、改善を選択しない者が不利な時代になっただけだ。目細工も、いっそ禁止してしまった方がいい。


 しかしその翌週になっても、一部の学生は目細工をしたままだっった。以前、トイレに行かせた飯島由香里という生徒に至っては、「マッキー、今日の目、いつもより可愛いと思わない?」と聞いてくるほどである。


「アイプチは禁止だって言われただろう」


 飯島は派手な生徒で、一年生なのに交際相手は三年生だ。相手の男子生徒は智史が顧問を務める剣道部の主将で、警察採用試験を控えている。


「三組は特別だもーん」


 飯島は横揺れしながら言った。ポニーテールがそれに合わせて左右に振れる。廊下にいる学生が、こちらを見てクスクスと笑っている。


「そんなわけあるか。森川先生に」


 言いかけ、ハッとした。あの女教師は注意していないんじゃないか。


「森川センセはなんも言ってませーん」


 やはりそうか。あの女教師、勝手なことを。こういうのは例外があってはならんのだ。


「森川先生が何も言ってなくてもダメなもんはダメだ。目なんか一重でも二重でも変わらない。いいから取ってこい」


「やだあ、一重になったら先輩にフラれちゃう」


 飯島は軽く言ったが、智史は動揺した。そういうこともあり得るのだろうか。アイプチをやめた途端に関係が切れるなんてことがあれば、飯島は傷つく。もしや、森川はそれを懸念しているのか。


「お前の彼氏はそんなに冷たい男じゃないだろう」


「えー、先輩結構ヒドイんだよ。ゴムつけてって言ってもつけてくんないし」


 めまいがした。受験生が一体何をしているのか。


 飯島も飯島だ。処女でないこと、下ネタが平気であることを、この学校の女子生徒はアピールしがちだ。一体なんの得があるというのか。


「そういう奴とは縁を切れ。もっと自分を大事にしなさい」


 歯の浮くようなセリフも、この仕事を続けているうちにすっかり慣れた。


「とか言ってえ、本当は受験の邪魔になるから引っ込んでて欲しいんでしょ」


 飯島は鋭いことを言い、きゃっきゃと笑いながら去っていった。


「槙野先生」


 名前を呼ばれ、振り返ると森川がいた。


「生徒の交際にまで口を出すのはどうかと思います」


 虚をつかれた。間違ったことを言った覚えはない。自分こそどうなのだ。目細工を黙認するなんて。


「交際が受験の邪魔になるなら、止めさせるのが教師の役目でしょう。今は学校生活を犠牲にしてでも将来に向けて全力を注ぐべきだ。違いますか」


「ええ、その通りです。ですが私たち教師がするべきことは、苦手分野の補填と面接指導です。生徒のプライベートにまで干渉するべきでないと思います」


 そりゃ結婚できないよな。智史は納得した。自分の妻とは真逆のタイプだ。妻は短大出の末っ子で、男に構われるのが生き甲斐で、ナンパされたら尻尾を振ってついていく。服装も森川女史と違って隙だらけだ。好かれたい体質なので、面と向かって文句を言うこともない。


 ふと思った。森川も、結局は好かれたい体質なんじゃないか。


「森川先生は生徒に嫌われるのが怖いんですか」


 森川は表情ひとつ変えず、「いいえ」とだけ言って、去っていった。

 女は愛嬌だぞ。智史は舌打ちした。ピンと背筋の伸びた背中が癪にさわった。


 放課後は部活の指導に当たった。部員の声と、竹刀のぶつかる音。道場は生命力に溢れている。智史も自然と気持ちが引き締まった。


 なんとなく飯島の彼氏、住吉春樹すみよしはるきに目がいった。リーダーシップとユーモアを兼ね添えた人気者だ。


 ゴムくらいつけろよな。心の中でつぶやく。妊娠なんかされたら進路に響くぞ。


 智史はこの学校に来て三年目。今の三年生と共に歩んだ三年だ。とりわけ剣道部員には深い思い入れがある。三年生は全員希望の進路に進んで欲しいし、その弊害となるものとは距離を取って欲しいと思っている。


「住吉、ちょっと良いか」


 部活終了後、防具を外した住吉に声を掛け、道場の外へと連れ出した。蒸し暑い。日が暮れかけても熱気が肌にまとわりついた。


 道場と体育館の間、人気のない水道の並ぶ場所で向かい合う。


 住吉の短髪からは汗が滴り落ち、右手に握った、使い込まれた手拭いはたっぷり汗を吸い込んでいる。


「一年の飯島と付き合ってるんだってな」


 住吉はサッと顔色を変えた。俯き、「はい」と認める。大人びて見えても、所詮高校生だ。智史はできるだけ口調を和らげた。


「お前は警察官になりたいんだろう。大事な時期だ。今は少し距離を置いて、採用試験に集中するべきなんじゃないか」


 住吉はしおらしく頷いた。


「それと、その……試験までは控えるとして、今後はしっかり避妊するように」


 住吉は弾かれたように顔を上げた。


「俺たち、してませんよ」


 赤い顔で否定する。


「わかった、わかった。とにかく今は試験に集中しなさい」


「俺たちのこと、変なふうに言う奴がいるんですか」


「いない。心配するな」


 住吉が背を向け、行こうとする。智史は慌てて立ち上がった。話は終わったようなものだが、それは生徒が判断することじゃない。


「住吉、待て!」


 住吉は素直に従った。足を止め、振り返る。


「……参考に聞きたいんだが、お前、目細工をどう思う」


「メザイク?」


 住吉はきょとんと聞き返す。


「アイプチとかアイテープとか、お前のクラスでもそういうの、やってる女子がいただろう」


「ああ」


「吉田先生に注意されてたか?」


「はい」


「じゃあ、もうやってる女子はいないんだな?」


「はい、たぶん」


「たぶんって、それくらいわかるだろう」


「分かりませんよ。生まれつきって言い張る子もいるし」


「吉田先生はなんて返したんだ」


「『ああそうか』って」


 吉田は中年の男性教師で、見た目に無頓着なので、深く追求しなかったのだろう。でもそれでは、真面目に言うことを聞いた生徒がバカを見たことになる。


 智史は改めて時代の変化を痛感した。学生がやる化粧といえば、色つきのリップを塗るか、ニキビをコンシーラーで消すくらいだった。それくらいなら見逃した。他の生徒の反感を買わないからだ。


「で、お前はどう思うんだ。目細工」


「あんな面倒なこと、よくやるなって」


「お前、二重にしたことがあるのか?」


 住吉は色白の塩顔で、涼しげな一重がよく似合っている。


「由香里ちゃんに『やってみて』って言われて、一度だけ」


 力が抜けた。その気軽さはなんなのだ。


「そうか……まあいい。わかっていると思うが、目細工は校則違反だ。もし飯島と話す機会があったら、お前からも止めるように言ってくれ」


「はあ、分かりました」


「行ってよし」


 住吉はペコリと頭を下げ、去っていった。根は真面目な生徒なのだ。厄介ごとからは守ってやらねば。

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