忌子

一昌平

第一話 祭りの約束

「キコ! あした、お祭りで踊るのって何時から?」


 八乙女やおとめ忌子いむこは高校のトイレで手を洗っていると、後ろから中園なかぞの美友紀みゆきの声が聞こえてきた。


「お昼の一時くらいかな。神楽自体はもう少し前から始まるけど、私の出番は少ししてからだから」


 指を一本ずつ丁寧に洗いながら、鏡越しに美友紀の顔を見て答える。


「それとお父様がいる前でキコって絶対に言わないでよ」


 毎年のことだからわかっていると思うが念のため伝えておく。


「わかってるって」


 美友紀のあまり気にしていない様子を見て心配になる。


「この名前だって……」


「ちゃんとした意味が込められてるんでしょ。わかってるって」


 美友紀は呆れたようにうなずきながら答える。


「それにキコの父親には一度こっぴどく怒られてるから。あだ名で呼んだだけなのに。ああ! 思い出しただけで腹が立ってくる」


 たしかにあのとき父親である八乙女やおとめ清司せいじはキコと聞いただけで烈火のごとく怒り出した。だからこそ美友紀には気をつけてほしかった。


「ごめんね」


「いや、キコが謝ることじゃないでしょ」


 笑いながら答える美友紀の表情を見てほっとする。視線を洗っている手に戻し、右の爪先を左の手のひらを使って洗い、その後は肘の近くまで洗っていく。反対の手も同じように洗っている間、美友紀は鏡を見ながら肩まで伸びている茶髪を整えていた。トイレにも冷房つけてほしいくらいだよ。そんな文句が美友紀の口から漏れる。


 白いハンカチで濡れた手と腕を拭き、腰まで伸びた黒髪を一本に結び直した。トイレを出て、美友紀と先ほどのテストの答えを確認しながら教室に戻っていく。


「キコの踊りは一時からだって」


 美友紀は教室に残っていた岩野いわの晴雄はるお田島たじま秀俊ひでとしに声をかける。期末試験期間中だから外はまだ昼下がりだが、すでに教室にはふたりしか残っていなかった。土日を挟んで週明けにも試験がまだあるから、あまりこうやって残る生徒は少ない。


「そっか。じゃあいつも通り昼前に神社に集まるか。昼飯も屋台で適当に食べればいいし」


 晴雄は座っていた机の上から勢いよく降りながら答える。


「秀俊は行けそう?」


「う~ん」


 美友紀の質問に秀俊は考え込む。中学生の頃から毎年三人で祭りに来てくれていたし、去年高校に入ってからもそれは変わらなかった。だから秀俊の反応は忌子にとって意外に感じる。


「なんだ? 祭りに来ないのはないだろ」


 晴雄が後ろから秀俊に肩を組むと、勢いに押されて秀俊がよろめく。


「おい。運動部パワーをもっと抑えろって」


「おまえはもっと鍛えた方がいいな。俺の体重を使って筋トレでもしてみろ」


 晴雄がふざけながら秀俊に体重を預ける。おいやめろって。そんなことを言いながらふたりがふざけあう。


「やっぱり今年は難しいの?」


 晴雄を背中に乗せて腰を曲げている秀俊に対して美友紀が問いかける。


「いや。まだ試験期間中じゃん。それにテストが終わったら夏期講習もあるから、そっちの準備も必要だし」


「あの隣駅にある予備校の? あそこはエグいとこで有名じゃん! なおさら今のうちに息抜きしとかないとだめだろ。祭りの方が大事大事!」


 晴雄が秀俊の背中から降りながら彼の背中をたたく。


「まあ、それもそっか。岩野の懇願に免じて参加するよ」


 その言葉を聞いて忌子はほっとする。せっかくの晴れ舞台を見てもらえなかったら困る。安心して美友紀の顔を見ると、秀俊を誘った割には浮かない表情なのが気になった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る