第2話 クラック

 俺が中学二年になった頃には、あのどこまでも青かった空も、風船が作った天の川も、そして自分が書いたメッセージの事も、完全に胸の奥底に沈んでいた。

 毎日が宿題や部活、新しく発売されたゲームの事で頭がいっぱいになって、少しずつ周りも自分の事も見えなくなっていた。

 それでも、自分が昔と変わったなんて思った事もない。そんな自覚なんて全くない。身体が大きくなってきて、成長しているとは思った。大人になってきているとも思った。

 現に、何人かの先生の身長よりも、俺の方が高くなっていた。

 だけど、そんな先生たちが、なんでこんなに俺だけ怒るようになったのか分からなかったし、そんな大人たちへの理由のない苛立ちだけが募っていた。

「おいカケル、ちゃんと掃除しろ!」

 まただ。担任の禿げカッパが俺にだけ注意をする。

「なんで俺だけ。女子もやってないヤツいんじゃんか」

「お前はまた……いつからそういう事を言うようになった!」

 カッパが詰め寄ってくる。

 床掃除のために後ろに下げられ、机の上に乗せられた椅子。俺が悪いんじゃない。俺の目の前にあるこの椅子が悪いんだ。心の中で呟く。

 天井に向けて伸びている四本の脚のうち一本を掴む。冷たくて、細くて、少し錆びついてザラザラした椅子の脚。ちゃんと力を加える方向に人がいない事を確認した。俺は冷静なんだ。

「うるさい!」

 カッパに向かってそう叫んで、思いっきりブン! と腕を振り、椅子を転がす。誰もいない、箒で掃いたばかりの床に、椅子は転がるはずだった。

 それなのに、聞こえる予定もなかった女子の悲鳴が、俺の耳と胸を刺した。

「痛い!」

 椅子の背もたれが後ろに置いてあった机にぶつかり、俺の意図した方向から九十度それて跳ね上がった。その椅子が、箒で床を掃いていた女子の背中に音を立てて激突した。

 みんなの視線が俺に集まる。

 うずくまった女子の様子を一瞥した後、カッパが目を剥いて俺の方に向かって来た。たまらず俺は教室を飛び出した。カッパが俺の名前を叫んでいる。待て、と叫んでいる。

 わざとじゃないのに。カッパのヤツが俺だけ叱るから。「廊下は走らず、右側を歩きましょう」と、下手な絵と共に描かれた手書きのポスターを、走りながら手に引っ掛けて破り捨てる。

 少ししか走っていないのに、酸っぱい心臓が口から零れ落ちそうだった。

 校舎を飛び出し、グラウンドを横断し、テニスコートの横の破れたフェンスを抜けて、法面の草むらに滑り込むようにして寝転がった。

 五十センチほど滑って、開襟シャツに緑色の筋が付く。どうでもいい。

 遠くに見える海からは、船の汽笛が聞こえる。海鳥の鳴き声も。それよりも大きく聴こえる心臓の音は、耳の後ろに小さな心臓ができたみたいだった。

 別に学校が嫌いになったわけじゃない。むしろ中学生になって、より学校が楽しくなった。

 友達とふざけあうのも、部活も、気になる女子と何気ない話をするのも。

 イライラするのは大人たち……あいつらがいるからムカついてくるんだ。

「おい、カケル! どこだよ!」

 グラウンドの方からタカシの声が聞こえる。

「こっちだよ!」

 俺が声を出すとフェンスの穴をくぐってタカシも降りてきた。

「あれマズいって。マキ泣いてたぜ」

「あいつ、ちょっとした事ですぐ泣くじゃんか」

「そうだけどさ、結構な勢いでぶつかったんだから、早めに謝った方が良いよ。他の女子からも印象悪いぜ」

 謝るなんて、したくない行動の三本の指に入る。

 でも、罪悪感はあった。その証拠に、さっきからずっと胸の辺りがモヤモヤしている。

「俺さ、そんなに変わったか?」

「思春期だろ、思春期。男は筋肉が付いてがっしりとし、女は丸みを帯びて……ビバ! 第二次性徴!」

 そう叫んでタカシは俺の股間を掴みあげて逃げ出した。

「おい反抗期の少年! ホームルーム終わったんだからカバンぐらい自分で取りに戻れよ!」

「うっせえ!」

 謝る……か。

 謝っても許してもらえるとは限らない。余計に責め立てられるかもしれない。謝るなんて事をするよりも、このまま忘れてくれるまで顔を見せない方が良いんじゃないだろうか。マキだって大げさにしたくないはずだ。泣いたのだって恥ずかしいと思っているに違いない。

 俺は謝りたくないわけじゃないんだ。他の方法を選んだ方が良い事だってある。そう思った。そう思い込む事にした。

 定期テスト前で、部活が休みで良かった。俺はしばらく法面に伸びた雑草の匂いを嗅ぎながら、空を旋回するトンビの羽根の白い斑点模様を目で追っていた。


 一時間以上経ってから教室に戻ると、カッパも、マキも、誰もいなかった。そして机の横に掛けてあったカバンもない。

 カバンはきっと職員室にあるはずだ。でも、そんなの取りに行く気が起きるはずもない。

 九月も終わろうとしていたのに、教室の中はまだ夏をとどめていて暑かった。教室の窓は全部閉められ、ほとんどの生徒が帰ってしまった学校は、空気の重さを肩で感じられる程に静かだった。

「帰ろうかな……」

 大した事は何もしていないのに、なんだか今日は疲れ切っていた。

 廊下に誰もいないのを確認して教室を出る。職員室の前を通らないように遠回りをしていつもとは反対側の階段を降りる。昇降口では音を立てないように下駄箱の踏み板を避けて、靴下に砂が付くのも構わずコンクリートの上を歩いた。

 学校の敷地外に出ても、ズボンのポケットに両手を突っ込んで俯き、自分のつま先だけを見て家へと向かう。

 道に転がる小石を蹴りながら歩くが、すぐに石は横のミカン畑へと逃げてゆく。

「何やってんだろ」

 何をやっているんだろう。こんな事をしていたら、明日も学校に行きにくくなるって分かっているのに。

「知らね」

 もう知ったこっちゃない。しばらく休んでも、何かきっかけが出来ればまた行けるだろう。もしかしたら、カッパの方から言い過ぎたって謝ってくるかもしれない。

 そう、俺は悪くないんだから。


 次の日、俺は頭が痛いと言って学校を休んだ。

 ゲームをするのにも飽き、ただベッドに横になって天井を見て過ごす。不思議なもので、ずっと寝ていると本当に頭が痛くなってくる。

 身体を起こすと、「ぐわぁん」と頭が鳴る。このまま明日も休んだら、一生起きられなくなるような気さえした。

 喉が渇いてリビングに行くと、お婆ちゃんが心配そうな顔をしていた。

「頭はどんな?」

「まだ痛い。喉乾いた」

 お婆ちゃんの目を見ずにそう言って、冷蔵庫を開けてスポーツドリンクを出す。コップ一杯を一気に飲んで、水筒にも注いで冷蔵庫にあったゼリーと一緒に部屋へ持ち帰った。

 水筒とゼリーを机の上に置いて、ベッドに転がる。

「あ、スプーン忘れたな。ま、いっか」

 少し眠ろう。そう思って目を閉じると、うずくまるマキの背中ばかりが思い浮かんでくる。瞼の裏のその残像を消そうと、何度か寝返りを打っていると、ほんの少しだけ眠れた。

 ノックの音と、お婆ちゃんの声で起きた時には、時計の短針が随分下まで降りていた。

「カケル、タカシ君」

「んー」

 ベッドに横になったまま返すと、タカシが俺のカバンを持って部屋に入ってきた。

「サボりだろ? 今日」

「ああ」

 タカシは溜息を吐いた後、俺が寝転がっているベッドに座って、ふてくされた俺の横顔を見ていた。

「明日は?」

「多分休む」

 その答えを聞いたタカシが立ち上がると、足の裏で俺の腰辺りをグリグリ揺さぶりだした。

「いじけてんなよ。ホントに行きにくくなるぞ、学校」

「分かってっからやめろよ!」

 そう言って俺が勢いよく上半身を起こしたら、タカシが大きくよろめいた。

「あ、あぶ……」

 何とか態勢を立て直したタカシが俺を睨みつけた。

「お前もちっとは学習しろ!」

 本気の怒りを感じた俺は、思わずビクッと固まった。

「ごめん……マジで、ごめん」

 頭が割れるようだった。顔をしかめて、片手で頭を押さえる俺に、タカシは盛大な溜息を落とした。

「いいよ。カッパには、まだ熱が高くてしんどそうだったって言っとくから」

「わりぃ」

 もう背中を向けて帰ろうとしていたタカシに掛けた言葉は、部活で鍛えられてデカくなったタカシの背中に跳ね返される。まだ自分だけが子供のようで、酷く情けなかった。


 目覚ましが鳴る。七時だ。普段はすぐに起きられないのに、今日はすぐに目が覚めた。それもそのはずだ。昨日からずっと起きては眠りを繰り返している。

 余韻を残して最後の音を響かせる目覚まし時計を、ベッドに寝転がったまましばらく見つめる。五分――十分――、十五分が経った時、部屋のドアがノックされた。

「カケル、起きてる? 朝ごはん食べられる?」

 お婆ちゃんだ。話こそするけど、最近はちゃんと目を合わせていない。図体ばかりが大きくなってきた俺に、お婆ちゃんは少し緊張して話しかけるようになった気がする。

 そんな、少しビクビクしているようなお婆ちゃんの顔を見て話すのは、ちょっと辛い。

「うん、今行く」

 俺はベッドから抜け出して両手を組んで背伸びした。

 組んだ両手を上にグッと伸ばす。つま先立ちをする。伸ばした膝がちょっと痛い。成長期に膝が痛むのはよくある事らしい。頭は痛むというよりも、フラフラした感じだ。

 踵を降ろして、手は上に伸ばしたまま深呼吸をした。ちょっと前まであんなに高かった天井が、もう少しで手が届きそうだ。

 そうやって、天井を呆然と見ていると、不意にあの日飛ばした風船が、青空に色鮮やかな帯を作った光景が目に浮かぶ。ずっと忘れていたその景色を思い出した理由を考えようとしたが、意味がないように思えてすぐに止めた。

「大人になりたくねぇな……」

 思い出しかけた願い事を再び胸の奥に押し込めるように、声に出してそう呟いた。


 俺の家の朝食はいつもパンだ。

 トーストに目玉焼きにコーヒー。それだけ。

 いつものように、半熟の黄身をフォークで突き、滑らかに溢れてくるオレンジ色の黄身をチュッとすする。その後マーガリンを塗ったトーストの上に目玉焼きを乗せて、一気に食べる。

 朝食にかかる時間はたったの五分。その間会話はなくて、テレビもろくに観ずに、テーブルに置かれたマーガリンの容器に書いてある成分表を、読むわけでもなくじっと見つめる。視線をどこかに固定していないと、何となく不安だったからだ。

 特に昨日から学校をサボっている今、学校よりも居心地が悪くなってしまいそうな家族の前に、意識を向けるのが怖かった。

「今日も休むのか?」

 俺の気を知ってか知らずかそう聞いてきたお爺ちゃんは、最近しばしば怒る時がある。父親の代わりなんだからって一生懸命なのが分かってしまうくらい。だから、お爺ちゃんを怒らせてしまった時は逆に気の毒になってしまう。

 休むと言ったら怒るのだろうか。でもやっぱりまだ行きたくない。

「今日も……行きたくない」

 マーガリンに視線を落としたままで俺の口から出された言葉を聞いたお爺ちゃんは、怒りもせずただ俺の顔を見ていた。ただの沈黙さえ辛い。

 お爺ちゃんはしばらくして立ち上がると、受話器を取り、プッシュボタンを押した。

 ピッ、ポッ、と押される音は、その音だけで電話をかける先が学校だと分かった。昨日の朝に聴いた音と全く同じ音階だ。

 電話口でお爺ちゃんが今日も休ませると伝えている。そして、明日は行けると思いますとも言っている。

 明日行ける自信なんてないのに、なんで勝手にそんな事を言うのかって思いと、これで明日にはちょっと行きやすくなるのかなって思いが行ったり来たりした。

「丁度担任の先生が出た。休むとは言ったが、病気じゃないって先生には分かってるようだぞ。……カケル、何があったか話せないか?」

 さすがに、これ以上黙っているわけにはいかない。これ以上進めば……、いや、これ以上留まれば、二度と前には進めなくなりそうな事ぐらいは、俺にも分かった。

 お婆ちゃんの方をふと見ると、俺とお爺ちゃんの間で、心配そうに視線を動かしていた。でも、やっぱりお婆ちゃんはすぐに目を逸らした。

 別に悲しくなんかなかった。ちょっと嫌だな、とは思った。ちょっとだけだ。

 だけど、なぜだか俺は泣いてしまった。

 いつ以来だろうか、二人の前で泣くのは。泣きたくなんかないのに、悲しくなんかないのに、勝手に涙だけがぽろぽろ零れ落ちた。

 腕で拭っても、拭っても、涙は止まらない。心はカラッポなのに、身体だけが泣いていた。

 後ろから頭を撫でられている。誰の手だろう。小さくて、固くて、温かい。

「泣かなくても良いのに。話したくなかったら話さなくてもいいって。お爺ちゃんだって、そんなに怒ってないよ」

 お婆ちゃんのその声に、俺はとうとうしゃくりあげて泣いてしまった。

 結局何も話せないまま自分の部屋に戻って、ベッドに横になる。

 まだ胸の辺りが誰かに押さえつけられているようで、呼吸も意識しないとできなかった。

 吸って。

 吐いて。

 吸って。

 吐いて――。

 大きく息を吸い込もうとすると、横隔膜が震えて上手く息が吸えなかった。

 鏡を見なくても、自分が今酷い顔をしている事は分かる。

 なんだか悔しくて、恥ずかしくて、ベッドに横たわったまま、手足をマットに叩きつけた。

「くそっ! なんなんだよ!」

 どうしてこうなってしまったのか、自分に何が起きているのか、思春期のさなかにいた俺は、自分ではどうしようもなかった。

 泣き疲れたのかいつの間にか眠ってしまっていたようだ。泣き疲れて寝るなんて、赤ちゃんじゃあるまいし。

「カケル、ドア開けるぞ。郵便だ。封筒が届いてた」

 目が覚めてからノックとその声が聞こえたのか、ノックと声で目が覚めたのか分からないけど、お爺ちゃんの声がした。

 郵便?

 俺宛に郵便が届くなんて、まずない。せいぜい年賀状ぐらいだ。

 なんだろうかと思いつつ返事をすると、大きめの茶封筒を持ったお爺ちゃんがいた。

「岐阜県可児かに市、森川もりかわ夕夏ゆうか……知ってる人か?」

 知らない。知らない……けど。

「多分、風船。風船拾った人だと思う」

 今朝、低くなった天井を見て思い出した、青空と無数に広がる色の粒。

 なぜ今まですっかり忘れていた風景が今朝浮かんだのか。きっと今日、これが送られてくる事を、神様か誰かが教えてくれたに違いない。

 そう一瞬考えて、バカらしくなって笑った。


 自分の変化に対して途方に暮れていたこの時、天から俺を見ていたかのように送られてきた手紙は、それから何度も贈られ続けてくるプレゼントと共に、俺の一生の宝物になっていった。

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