第18話

 彼女はつんけんとした声で言った。

「今、何時?」

「ええと、九時過ぎかな」

「そう、よかった」

 安堵の息を洩らす。

「親に連絡は入れない方が良かっただろ? 首吊って体調不良なんて話、聞かれたら大問題だ」

「そうね」

「まあでも、こんな遅くになっちゃったからな…。今頃心配しているだろうな」

「そんなことないわ」

 牧野は食い気味にそう言った。

「あの二人が、私のこと心配するはずないもの」

「ああ、そう」

 なるほど、家族関係か。触れない方がいい。

「それに、今はまだ、塾の時間だもの」

「塾って、そんなに長い時間やっているの?」

「うん、十一時まで」

 ということは、あと二時間ちょっとは、家に帰らなくても心配されないのか。

「ええと、どうする? 何か飲むか? と言っても、水と麦茶と…」

「要らない」

「あ、ポッキンアイスもあるんだった」

「要らない」

 牧野梨花はそう言った。

 冷蔵庫に向きかけていた僕は、ロボットのような動きで彼女の方を見る。

「じゃあ、どうする?」

「もう少し寝かせて」

 そう言うと、彼女は足元のタオルケットを手繰り寄せ、ミノムシのように体に纏った。

 それを見たとき、僕の中に、「女の子が布団の上で眠っている」という自覚が生まれ、頬が熱くなるのを感じた。

「ごめん、そのタオルケット、ずっと洗ってないから、臭いかも…」

「…うん、あんたの匂いがする」

 牧野梨花は目を閉じたまま言った。

 裸を見られたような気分になって、しどろもどろになる。

「あの、新しいやつに取り換えるから、その…」

「うるさい殺人鬼」

 タオルケットは絶対に渡さない。とでも言うように、牧野梨花は身を捩って、タオルケットをさらにきつく巻いた。

「寝かせて…、一時間後に、起こして」

「…あ、うん」

「それに、嫌な匂いじゃないから、大丈夫…」

 ボソッと放たれた言葉に、僕が「え?」と反応した時にはもう、彼女は肩を上下させながら、寝息を立てていた。

 安らかな寝顔と、自分の手を見比べた僕は、そっと、体臭を嗅いだ。シャワーを浴びたときの、ボディソープの匂いが残っていた。

「なんだよ…」

 僕は、膝に顔を埋めた。

 僕は殺人鬼だ。僕には、罵詈雑言がよく似合う。そんな捻くれて育った僕に、優しい言葉なんてかけてみろ。泣きたくなるじゃないか。

 時計を気にしながら、学校の勉強をしたり、洗濯をしたりした。

 傍で、もぞもぞ動いていても、牧野は起きる気配を見せなかった。それどころか、「うーん…」と唸り、寝返りを打った。その拍子に、はだけたポロシャツの隙間から彼女の下着が見えてしまったのは言うまでもない。その度に、僕はタオルケットを掛け直した。

 一時間くらい経って、一度肩を揺さぶったが、牧野は起きなかった。しつこく揺さぶると、「うるさい殺人鬼」と言って、タオルケットを被って丸くなってしまった。

 結局、十一時を過ぎるまで、彼女は起きることは無かった。

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