4. 普通の兄妹


「ん、んん……」


 傍らで鳴り続けるアラームによって強制的に目覚めさせられ、一日は始まる。


「ふぁぁ……」


 半身を起こし、大きな欠伸をする。

 時刻は八時過ぎ。隣ではまだお兄ちゃんがすやすやと気持ちよさそうに寝息を立てていた。


「ふふ、かわいいなぁ……」


 いつ見ても飽きない寝顔。整った顔立ちに丸い輪郭、どことなく私と顔が似ていながら幼さを感じる。好奇心で頬を突いてみるが、とても柔らかかった。指が頬に沈んでいく感触が癖になってしまい、お兄ちゃんを起こしてしまう程に。


「あ、ごめん。起こしちゃった?」

「……ううん」


 片目を優しく擦りながら首を横に振る。その仕草が可愛すぎて、つい魅惑されてしまう。


「おはよ、お兄ちゃん」



 ―――



 季節は少し肌寒くなってきた頃。

 あれから、私とお兄ちゃんの間には適切な距離感が保たれていた。それこそ、普通の兄妹としての距離感。

 一緒にご飯を食べて、別々にお風呂に入って、お互い個人の時間を過ごして、時々一緒に寝て。

 どこにでもいる、仲のいい兄妹の距離感に。


 そんなある時、お兄ちゃんから「一緒に出掛けないか」と誘われた時には心底驚いた。

 お兄ちゃんも、変わろうと頑張っている。


「二つほど離れた街の方が知り合いに会うこともないだろうから、そこに行く?」

「……うん。なんかごめん、苦労ばかりかけちゃって」

「ううん、気にしないで! お兄ちゃんの為だもん」

「……そっか。えへへ」


 自分の為に考えてくれていることが嬉しかったのか、腕をギュッと抱きしめる。その笑顔も、外に出てから初めて見せてくれた。それに先程から私の腕に張り付きっぱなしだから、余計に小さな胸が強調される。


 邪な心を振り払いながらも、私たちは歩く。

 歩いて、歩いて、バスに乗って、電車に乗って。その間、お兄ちゃんはずっと私の腕から離れることはなく、ずっと不安そうに下ばかりを向いていた。それも無理はなく、お兄ちゃんにとっては敵地に足を踏み込む行為なのだから。


「着いたよ、お兄ちゃん!」


 そんなお兄ちゃんを少しでも楽しませようと、私だけでも明るく振舞った。


「どこから行こうか! お腹とか空いてない? ゲームとか買っちゃう? それとも服とか――」

「…………」


 でも、あまり効果はなかったみたい。それも無理はない。


「……ほんとに大丈夫? どこかで休む?」


 小さく縦に頷き、私の腕を抱きしめる力が強くなる。

 きっと、私以外の人間が怖いんだと思う。


「もう少しだけ頑張れる?」


 無理もない。学校に行けなくなるぐらい人間不信に陥って、私にだって最初は怖がっていたのだから。


「……ごめん」

「謝らないで、お兄ちゃんは悪くないよ」


 人気のない広場まで移動しお兄ちゃんを休ませるも、口から出るのは謝罪だった。


「むしろ、よく頑張ったね。えらいえらい」


 頭を優しく撫でてあげると、満更でもない表情を浮かべていた。


「なにか飲み物買ってくるね」

「わ、私も一緒に……」

「大丈夫、すぐに戻ってくるから」



 ―――



「あっ――」


 手を伸ばしても、私は妹に追いつけない。

 小さくなっていく妹の姿を、ただ眺めることしか出来ない。

 私には、現状を変えられる程の力がないから。

 結局私は、一人では何もできない無力な人間なんだ。


 また私は、一人ぼっち。


「……えっ」


 ふと視線を向けた先だった。

 誰かがこちらに近づいてくる。

 妹ではない誰か。でも私は、その人を知っていた。


「――っ!?」


 目にも止まらぬ速さで視線を落とす。動悸が止まらず、呼吸すらままならなくなっていく。


 なんで、あの人が……。

 私の、同級生が…………!


 昔の忌々しい記憶を呼び覚ましてしまい、平常心を失っていく。呼吸も、動悸も、目眩も、何もかも悪化していく。


 に、逃げなきゃ……!


 トラウマと恐怖で竦む足を引き摺るように逃げる。


 でもここで冷静になっていれば、向こうが私にに気づいていないことを見抜けていた。

 それほどに、今の私にとっては妹以外の人間が怖かったんだ。



 ―――



「お兄ちゃん、おまた……せ…………」


 ほんの数十秒。その僅かな時間しか目を離していないのに。


 なんで、お兄ちゃんがいないの……?


 咄嗟に周囲を見渡すが、お兄ちゃんらしき人影を確認することも出来ない。


「う、うそ……どこに行っちゃったの……!」


 心臓が激しく鼓動し、冷や汗が滲む程の焦りを感じた。今までにない程に。頭の中がまるで漂白されたかのように、まともな思考すらままならない。

 精神異常、事故、誘拐。その様な単語が脳裏に浮かぶ度に、冷静な判断力を失っていく。


 どうしよう、どうしようどうしよう……!


 こんな人通りも多い状況で、しかも外ではぐれてしまったら、そのうちお兄ちゃんの精神が崩壊して……。


 ――また、あの時のように……!


 止まらない焦燥感に駆られてしまった私は、冷静さを完全に失ってしまった。

 もしここで冷静な判断が出来ていれば、スマホでお兄ちゃんに連絡を取ることも出来たはずなのに。

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