マリオネット




「おはようございます」

「おそよう」


 『花音かのん』店の地下一階の宿泊施設内の一室にて。


 善嗣よしじが眠りに就いてから一日半後の事である。

 漸く目を覚ました善嗣よしじに、けれどそのまま身体を横にしておくようにと言葉を紡いだ日埜恵ひのえは部屋から出て行った。


「夢じゃ、なかった、か」


 日埜恵ひのえの言うように、身体を横にしたままにしていた善嗣よしじは布団の外に出ていた、それはそれは小さな手を見て、言った。


「夢じゃ、」


 ぱたり。

 少しの間腕を上げて小さな己の手を見つめていたが、糸が切れたマリオネットのように、急に力が入らなくなった腕は布団へと落ちた。


「夢だったら、どんなにか、よかったか」


 身体はこれでもかと若返ったのに、心は実年齢よりもずっともっと年老いてしまったらしい。

 泣き喚いてしまいたいのに、涙は出てこなかった。

 一滴たりとも。


善嗣よしじ。胃に優しいもん作ってもらったから食べな」


 一旦、両手に持っていたお盆を寝台の傍らにある円卓に置いてのち、善嗣よしじの上半身を起こすのを手伝った日埜恵ひのえは、布団の上に直接お盆を置いた。

 お盆には、コーンスープの入った椀とスプーンが乗せてあった。


「あ~んしてやろうか?」


 寝台のベッドボードと大きな枕に背を預けた善嗣よしじは、コーンスープを凝視していたが手を全く動かさなかったので、動かす力がないのかと思い日埜恵ひのえはそう提案した。

 一時思案するかのように無言だった善嗣よしじは、やおら口を開くと自分で食べますと言って、腕を動かし、スプーンを手に取って、椀を手に取って、ゆっくりゆっくり飲み始めたのであった。


「美味しい、です」

「そっか」

「はい」











(2024.6.12)



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