(三)-1

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 嘉永五年(1853年)夏、容堂は国元に帰国した。吉田東洋を引見し、大目付に抜擢した。

 意思の疎通は前年すでに済ませていた。悪人とも大政治家ともいわれ評価が二分されている北条泰時について論ぜよという課題を江戸から出し、それに東洋は返信を送ってきた。

 泰時の悪なくしてその善を行うものをや。

 文中のその一節を目にして、思わず口元がほころんだ。

 問題のある人物を起用するか否かと迷う時点で、すでに答えは出ているのだ。

 初対面の時には初めて会うという気がしなかった。そのいかにも頑固そうな面差しを目の当たりにした時に胸中に涌いたのは、むしろ懐かしさだった。そして自分はきっと、もっともっとこの男を好きになる。

 その感情が向こうにも伝わったのか、抜擢を言われもしないうちから、東洋の表情はひどく柔和なものになっていた。二十七歳の主君と、三十八歳の家臣の邂逅であった。

 おりしも江戸湾には黒船が来航し、日本は未曽有の激動期に入っていた。

 東洋は基本としては開国論者だが、現実主義者でもある。外国と仲良くするのはいいが、完全な開国はまず国力を養ってからというのが主な意見で、それは容堂も同意だった。東洋はこの年のうちに参政に昇進した。

 しかし翌年、東洋は早くもしでかした。

 江戸の土佐藩邸での酒宴で、容堂も見ている前で、山内本家出身で旗本となった人物に頭を殴られ、その頭を殴り返したのだ。

 もともとその旗本は立場に傲り、酔うと人の頭を叩く悪癖があった。そのため家中ではひそかに快哉をさけぶ声もあったが、これは罰しないわけにはいかない。

 容堂の心中は二分されたものになった。東洋は相手を殴る前に、自分への侮辱は殿への侮辱だと怒鳴った。本家筋の人間への遠慮をかなぐりすて、しがない分家出身の自分を無二の主君と思ってくれたことの証だ。正直なところでは泣けてくるほどうれしい。

 しかし忌避感も同時に生まれる。どれほど理があろうと、これほど容易に暴力沙汰に及ぶようでは若いころと気性がまったく変わっていないということになる。

 どちらにしてもこのまま捨て置くことはできない。容堂は東洋の職を解き、国元での謹慎を命じた。

 復帰までにはその後実に三年を要したが、江戸にいる容堂もその間無風ではなかった。

 外国に負けない強い日本を造るためには強い将軍が必要という理由で一橋慶喜を推す斉彬に賛同し、容堂も政治活動をおこなった。そのためにはやはり優秀な家臣がどうしても必要だ。

 処罰から三年目、ほとぼりがさめたと容堂が判断し、東洋の謹慎を解いたのと皮肉にも入れ違いになるようにして、容堂は反一橋の井伊直弼ににらまれ、藩主引退と 江戸での謹慎を余儀なくされることになる。

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