「好きです」

「好きです」

 そう伝えてくれた彼女の手は、コントローラー越しにわかるくらいに震えていた。

 声ももちろん震えていて、マイクが不調なのではないかと思ったほどだ。

 多分それは自分が今この状況をなんだか現実感なく受け止めきれてないからで、機器の不調だとかそういった理由付けをしてこの場をやり過ごしたかったのだろう。

「あー、えっと、ありがとう……」

 酒を飲んだせいもあって頭が浮ついていた。俺も告白されるくらいの好意を向けられることがあったのか、という驚きと喜び。けれど純粋に嬉しがれないのは、多分その下にある本当に自分なんかでいいのかという自己肯定感の低さや、結局バーチャルでの自分なんて本来の自分じゃないんじゃないかという懐疑心だった。

 けれどそんなものはアルコールですっかり酔っていた頭で分析できるものでなく、こうして寝て起きてやっと冷静になった今、ようやくわかったものだった。むしろ一日でこれをちゃんと自覚できた自分は偉いと思う。

 告白され、お礼を言って、少なからず舞い上がっていた自分は多分付き合ってみるかと判断したはずだ。それが夢でなければ。

 最早、昨日のこの出来事がすべて夢だったんじゃないか。むしろ、夢であったほうがいいんじゃないか。既に俺はそう思ってしまっていた。何故かわからない。自分の自信のなさ故だと思う。でももしかしたら他に、理由はあるかもしれない。例えば。


 例えば、他に、気になる子が、いるとか。


 確かにかわいいと思う子は何人かいる。話していて楽しい子も何人かいる。告白してくれた彼女だって、かわいいし話していて楽しい子の一人だ。だから別に嫌いではないし嫌でもない。なのになぜ、自分の心はこんなにモヤついているのだろう。特に他に好きだと思う子も思い当たらない。別にいいじゃないか。試しに付き合ってみれば。そして好きになれたなら、それでハッピーエンドじゃないか。

 気づけば届いていたおはようというDMを見ると一気に現実味が増し視界がはっきりして、昨日の彼女の震えは機器のせいではなかったと、あれは本当に俺が好きで勇気を出して告白してそうして変化してしまう関係性への不安から来たものだったのだと、そう理解した。今度は俺の手が震える番だった。何度か握っては緩めを繰り返した手のひらをキーボードの上に置き、微かに震えの残る指で、おはよう、と返信した。


 VRゴーグルを被るのに緊張したのはいつぶりだろう。まだ始めたての頃、フレンドができたての頃、少しばかり緊張していたのを覚えている。けれど今は違う。何に対する緊張なのかはっきりと掴めないまま、俺はゴーグルを被った。

 いつものメンツが集まっているところに、彼女もいる。何を話しているんだろう。俺と付き合いだしたとか話しているんだろうか。それとも普段通り、何事もなかったかのようにおしゃべりを楽しんでいるんだろうか。joinボタンを押すべきか迷ってしまった。何も迷うことなんてないだろう。別に、中互いしたんじゃなくて、むしろひとつ段階が進んだだけだ。

 何事もないフリをしてjoinボタンを押した。いつものワールド、いつものメンツ、入ったときいつも通り、お疲れ、と迎えられたことに安堵した。

 けれど今の自分の皆を見る目は変わってしまっていた。あいつは誰かと付き合ってるんだろうか、そういえばこいつは彼女がいたんじゃなかったっけ、上手くやっているんだろうか、他の人は誰か気になる人とかいないのだろうか、俺の知らないところで築かれた俺の知らない人間関係、それが気になるようになってしまった。

「どうした?二日酔いか?」

 いつもより口数が少なくなっていた俺を気遣って隣に座っていたやつが俺の頭を撫でた。

「うるせーちょっと飲み過ぎただけだ」

 冗談めかしてその手から離れる。多分他の人に俺が触られるのは、彼女が嫌がるだろうと思って。

 そうきちんと気を遣えている自分に驚く。なんだ、大丈夫じゃないか。彼女のことを気遣えているならきっと、大丈夫だ。


 寝る前少し二人になりたい、とDMが来ていたのに気づいたのは落ちようかどうしようか迷っていたときだった。危ない危ない、と思って、いいよ、と返信する。夜も更け皆がばらばらと解散していった頃、二人きりになるために二人だけのインスタンスを建てた。

「ごめんなさい、わがまま言って……」

「いやこれくらい、わがままじゃないよ」

 この言葉は本心だった。だって付き合っているなら、二人きりの時間だって欲しいだろう。その気持ちはわかる。

「振られると思ってました」

 その言葉が胸をえぐった。

「なんで?」

「なんか、あまり、特別な人、作りたくなさそうだなって思ってたから……」

「……あー」

 それはそうだ。だって皆とのあの距離感が心地よくて、できればあの関係が変わらないでほしいと思ったことはある。

「でも、まあ、」

 嬉しかったから、と言おうとして何故かつっかえてしまった。この違和感はなんなのだろう。何が自分をこんなに、不安にさせているのか。恋愛自体慣れないからだ。きっとそうだ。

「こういうの、慣れてないから、その、何かあったら、ごめんな」

 大丈夫、と笑った彼女のアバターの顔は、何故か悲しんでいるようにしか見えなかった。


 それでも思ったよりなんとかなるものだ。

 朝起きたらDMでおはようの挨拶をし、寝る前は次の日予定がある日以外は二人きりになって他愛ないことを話したり、アバター同士で頭を撫でたりスキンシップをする。気づけばもう一ヶ月経っていた。俺はインするときの緊張はもうなくなっていたし、彼女の声の震えも気づけばなくなっていた。大好き、と時折りアバターを笑顔にしていつもより少し高めの声で言われると、なんともむずがゆくて、彼女の頭をわしわしと撫でるのがいつものパターンになっていた。

「――あの」

「うん?」

 俺を膝枕しながら撫でていた彼女が、少しかしこまった声を出した。油断していた俺は、何も考えず、なーに?と彼女の顎を触ってしまった。

「そろそろ、あの、……キス、とか、」

「――――」

 今俺のアバターはどんな表情になっているだろう。ゴーグルの下の俺は目を見開いて、驚きの表情になっていた。そうか。恋人だもんな。そうか――。

「いい、ですか」

 問いかけは問いかけになっていなかった。そのまま迫ってくる手に、顔に、唇に、そのまま身を任せようと思った――のだが。

「――あ」

「いや!ごめん」

 思わず手を顔の前に持ってきてしまっていた。彼女を拒否するように、俺は腕で顔を覆った。

「ごめんタンマ」

 俺は起き上がって彼女から距離を取った。彼女のゴーグルの下の表情はどうなっているか、なんて気遣いする余裕はなく、俺は顔を覆ってしまった自分の手を見つめていた。

「はは、ごめん……」

「いえ……ごめん、なさい……」

 彼女は消え入りそうな声で謝罪の言葉を発した。その言葉は俺をすり抜けていって、空に溶けてしまった。俺の発した俺の言葉は、彼女に届く前に多分、溶けてなくなってしまっていただろう。

「ま、まだ早かった、かな。ちょっと、びっくり、しちゃって……」

「……すみません、あの、急に、しちゃった、から」

 彼女の声は少し湿っていた。急に申し訳なさが腹の底からせり上がってきて吐きそうになって、ちょっと落ち着いてくる、と言って返事を待たず直接HMDの電源を落とした。




「うお”え”、ぇっ」

 トイレでえずきはしたものの何かが口から出ることはなかった。この気持ち悪さはなんだろう。あの子のこと、嫌いじゃなかった、むしろ好きになってきていると、思っていた。

だめだ。飲もう。酒を飲もう。今から飲んだら確実に明日に残るし明日仕事だけど、無理ならもう仕事も休もう。飲もう。酔いたい。酔って何もかもぐちゃぐちゃにしたい。このせり上がってきた吐き気をリアルなものにしたい。何か物を入れて、飲んで、酔って――


 知らなかったよ、俺。


 こんなにあの子のこと、好きじゃなかったんだ。

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