岸一郎は、今も生きている!
与方藤士朗
1955年のたった2箇月が、すべてを変え始めた。
第1話 岸一郎は、今も生きている。
岸一郎氏が阪神監督になったのには、
当時のフロントに建白書ともいうべき手紙を送っていたことが理由。
それまでのダイナマイト打線を押し出すよりも、
広い甲子園を活かした投手中心の守りのチームを作るべきであると。
岸氏はわずか2カ月程度で解任された。
しかし、彼が監督時に起用した若手は、
ことごとくその後の阪神の主軸となっていった。
それは投手だけでなかった。
吉田義男・三宅秀史の三遊間も程なく確立された。
正にこれぞ、投手中心の守りの野球である。
その後、早稲田大学の後輩となる藤本定義が阪神に招聘され、やがて監督に就任。
藤本阪神のベースはまさに、岸氏が提唱した方向のそれであった。
そして、1年明けて2回セリーグ制覇。日本一はどちらもかなわなかった。
それから21年後。
かつて岸監督が起用した吉田義男が2度目の監督就任。
ここで、21年ぶりのリーグ制覇と38年ぶりの日本一。
そのチームは確かに、38年前のダイナマイト打線顔負けの打者がそろっていた。
吉田氏は守備においても攻めの守備を提唱するような選手であった。
しかし、そんなチームであっても基本は守りの野球であったという。
そこからまた、38年後。
再度監督に就任した岡田彰布。
彼は老練な野球人。かつての藤本氏の監督最終年次よりも既に年長。
しかも、岸・藤本両氏同様、早稲田大学出身である。
リーグ制覇、プレーオフも難なく制し、38年ぶりの日本一。
そのチームカラーはまさに、38年前のそれよりもむしろ、
岸一郎元監督の提唱した方向性に似たものであった。
その翌年、甲子園100年の今年・2024年。
何と、39年前と同じ曜日の同じ時期に、甲子園での巨人戦。
2024年4月16日。
その1戦目。9回までに追いついた阪神。
このとき、甲子園に雷鳴がとどろき、大雨も到来。
審判団は、延長に入ることなくコールドゲームを宣告。
そしてその翌日、4月17日。
あのバックスクリーン3連発の日と同じ日の同じ曜日。
3連発こそなかったが、3連打のワンチャンスをものにし快勝。
その日の夜。23時過ぎ。豊後地方で地震が発生。
翌18日も巨人に勝利、その後の中日戦も連勝。
あの雷の後は、何と、甲子園で4連勝!
本塁打は、さほど出ない。
しかし、
広い甲子園を使った投手中心の守りの野球で勝ち進み始めたことは、
明らかである。
奇しくもこの2024年2月4日。
わんだふるぷりきゅあの初日。
発売日を前にして、私のもとに一冊の本が届いた。
そこで、岸一郎氏の命日が判明した。
1969年4月3日
私が生まれる5カ月前である。
もう一つ、この事実には衝撃のデータがある。
後の阪神監督、金本知憲。
彼の誕生日が、1968年4月3日。
どういうことであろう。
金本氏が1歳の誕生日を迎えたその日、かつての監督が鬼籍に入ったのである。
これも間違いなく、何かの因縁と言えはしないだろうか。
岸一郎氏は投手出身で、野手についてはさほどの見識もなかったように言われる。
しかし、金本氏は外野手として連続イニング出場記録を打ち立てた。
彼の出身地は広島。プロ入り時も広島。
その広島で連続試合出場記録を樹立したのは、牛若丸吉田義男と同郷の、
京都出身の鉄人・衣笠祥雄であった。
甲子園を締め切っての打倒沢村特訓を提唱したのは、松木謙治郎。
福井県敦賀市出身。何と、岸一郎と同郷の人物であった。
その時阪神監督として猛人たちを率いたのは、広島出身の石本秀一。
元広島商業監督。後の南海監督・鶴岡一人の師匠でもあった。
岸監督のチーム統率は、確かにベテラン選手の反感を招いた。
反発したのは、誰か。
同郷の後輩・松木謙治郎氏の監督時代の選手たちがその中心であった。
その元締は、広島出身の藤村冨美男であった。
彼もまた、監督となって後程なく、排斥運動を起こされてしまった。
岸一郎監督に反旗を翻したのと同様に、
ベテランの後輩ばかりか、若手たちにもそっぽを向かれたのである。
確かに、岸一郎という人物が来る前と去った後で、
チームが変わってしまった言われても仕方なかろう。
だが、長年の紆余曲折をへて、
岸一郎の建白内容は、タイガースと名乗るチームにしっかりと馴染んでいったのではないか?
阪神の野球は、なんと、福井県敦賀市によって作られていた!
ダイナマイト打線の松木謙治郎スタイルか、
投手中心の岸一郎スタイルか。
打のタイガースと言われたチームを投手中心の守りのチームの土台を作り、
わずか2箇月で去った、かつての早稲田のサウスポー。
その土台を継承したのが、これまたかつての早稲田のエース・藤本定義。
戦前は巨人監督として、タイガースに何度も苦杯をなめさせた老獪なる監督。
そして、現在阪神を率いているのは、これまたかつての早稲田の主砲・岡田彰布。
彼自身は、ダイナマイト打線の一角をなした選手であった。
しかし、彼は前回に引続き今回も、投手の整備を眼目に置き、守りのチームを築いている。
そのことは、あの巨人3連戦を見れば明白である。
今年2月、岸一郎の命日が世に知れ渡った。
程なくして、没年不明の記述がWIKIPEDIAから消えた。
無論、没年月日まで正確に記された。
かの出典となった書籍名とともに。
やがて3月、北陸新幹線敦賀開業。そして、プロ野球開幕。
岸一郎は、今も生きている。
間違いなく、彼の思想は甲子園に根付いた。
ただ一つ、言えることがある。
現監督岡田彰布氏は大阪出身。有力な後援者の息子。
藤本定義監督とともに優勝パレードのオープンカーに乗せてもらったという。
その少年が今や、彼以上の年齢となって阪神を再度率いている。
かくして、敦賀から生れたふたつの野球は今、
「大阪」の野球として、
しっかりと甲子園に根付いているのである。
そう。
岸一郎はいまなお、
甲子園に生きているのである。
・・・・・・・ ・・・・・ ・
参考文献
村瀬秀信 虎の血 ~阪神タイガース、謎の老人監督 2024 集英社
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