邪神退治24時 クトゥルフ・ブラッド伝

毒島伊豆守

01 邪神退治24時(1)

 冷たく硬い廊下の壁面パネルにわせていた指先から発生した軽い振動はぶるると左腕を這い上がって、「室内に生命反応あり」と伝えてきた。

 愛作あいさくは、人差し指と中指でトトンと壁をつついて壁の厚さを推測する。ぶち抜くのは可能だが大きな音をたててしまう。今耳を澄ましても聞こえるのは、十メートル後ろの廊下の端にある飲み物の自動販売機から聞こえるジジジという小さな音だけ。この静寂は維持したい。

(さあ、落ち着いていこうぜ、愛作)

 と、自分に言い聞かせ、目の前に垂れてきた黒髪に右手を突っ込んでかき上げた。束感たばかんのあるミディアムヘアの下から十七歳にしては達観した光を放つ黒い瞳がのぞいた。

 一歩進むごとに、床タイルの硬さが伝わってくる。

 ここはとあるオフィス街に建つ築浅の中層ビル。各フロアには、上場企業のサテライトオフィス、勢いのあるベンチャー企業や法律事務所、小綺麗こぎれいなクリニックなどが入っており、最寄り駅から徒歩数分という好立地もあって、賃料が高いことは間違いない。

 昼間のワークタイムと違って薄暮はくぼといった感じの明るさの中を慎重に進む。清掃業者のいい仕事ぶりのおかげでモノトーンの床タイルは光量を抑えた天井照明の光をうっすらと反射させている。

 深夜近い時間ということもあって人の気配はしない。特殊な感覚をもつ左手が教えてくれなければ本当に無人のフロアだと信じたかもしれない。エアコンが切れているせいか、壁の冷たさに比べると廊下の空気は少し湿っぽい。

 働き方改革とかいうものが残業サラリーマンの存在を相当減らしたと見え、愛作の潜入任務はやりやすくなったのだろう。

 タウンユースなインディゴブルーのマウンテンパーカー、ペールホワイトのインナー、ブラックのワイドカーゴパンツ、お気に入りのスタンスミスという今夜のコーデはオフィスカジュアルに寛容なベンチャー企業の社員と言えなくもないが、やっていることは不審者である。

 廊下の左側に並ぶ重厚なドアのうち、いちばん手前にある貿易会社のドアを目指す。この会社の中から生命反応があったからだ。あと十メートル足らず。

 愛作は、左腕が壁の向こうに感じ取った存在に思いを巡らせた。

(この中にいるのが邪神そのものの可能性はないはずだ。まあ、ウオガエルやチョー=チョー人みたいな邪神奉仕種族ヤカラの相手は覚悟しとくか。できれば人間カタギ希望だけど奪還対象あたりとは限らないし、正気度残量の少ない邪教徒はずれが待ち構えてるかもしれないな)

 邪神だ、邪教徒だと頭がおかしいと思われる言葉だが、実際に存在するものだから仕方ない。

 愛作は任務中であるにもかかわらず、頭の中で一人二役の寸劇を演じながら廊下を進む。

 愛作さんのご職業は? と聞かれたら「邪神復活の阻止を担当しています」とか答えるよな。正直がいちばんだ。相手は「じゃしん?」と首をかしげるだろうがね、普通。

 邪神とはですね。何億年か何十億年か前に、宇宙や異世界から地球にやってきた存在だそうなんですよ。召喚されたり、封印されたり、何億年も居眠りしてたりと、いろんな種族や個体があるんで簡単には説明できないです。名前も呼びづらいの多くて。クトゥルフ、クトゥルー? ハスター、イグなんてまだ言いやすい方ですよ。シュブ・ニグラス、ガタノゾーア、アトラク・ナチャ、クァチル・ウタウス、ニャルラトだかナイアルラトだかホテップ。こんなの覚えさせられてるんです。もう脳みその容量の無駄遣むだづかいでしょ。まあ、そもそも人間なんて相手にしてないくらいの宇宙的コズミックビッグな存在だっていうんですけど、『なんでもありの宇宙大怪獣』と言うとわかりやすいですかね。

 邪神奉仕種族も知りたいと。えっと、邪神を崇拝しておこぼれにパワーもらったり、ずっと眠りこけてる邪神ボスを儀式で起こそうとしたり、封印を解こうと働いてる子分って言ったらいいのかな。ああ、ミ=ゴみたいに邪神と距離置いて独自路線行ってる宇宙生物もいますね。有名なのだと、半魚人みたいな『深き者ディープワン』、どこの国にもいるチョー=チョー人っていうやつら、ヴァルーシアの蛇人間、悪魔みたいな姿のナイトゴーント、呼べば飛んでくるビヤーキーとか。トゥールスチャっていうのは緑の炎の形してるんだっけ。俺にこういう知識も任務に必要だって教えてくれる女教師がいるんですが、言うたびに説明が変わるんですよ。「神話は解釈次第だから」って誤魔化して逃げるのが得意な人です。

 で、最後が邪教徒です。これはだいたい人間です。だいたいって言ったのは、たまーに邪神の落とし子なんていうSレアみたいなやつもいるからで。人間半分辞めてるでしょ的な魔術師もいるなー。でも大半は邪神や邪神奉仕種族に仕える人間です。共通してるのは年季に比例して正気がすり減ってるってことです。こいつらがカルト作っては生贄いけにえだー、儀式だーってやらかすのを、俺がぶちのめすことが多いですね。


 そんなクレイジーな世界は実在して、そこにとらわれた人々を助けるために愛作は深夜のオフィスビルに潜入しているわけである。

 今夜の任務に邪教徒か邪神奉仕種族が出てきたらどうするか。

 愛作は、壁に這わせたままの左腕の上腕部を右てのひらでぽんぽんとたたき、「そのときは頼りにしてるから」と、伝える。

 左腕がドクンと大きく脈打ち、「任せておけ」といった反応が返ってきた。

 マウンテンパーカーのフードをつまんで目深にかぶると、「彼、結構かっこいいかも」と、本人不在の場所で言われたことのある容貌が隠れる。再び少し腰を落とした姿勢で壁に左手の指を這わせたまま移動する。

 重々しい金属製のドアの見える場所まで辿たどり着く。

「とーぜんあるよな」

 監視カメラはドアに近づく者を全てレンズにおさめている。視界の一歩外で足を止めた愛作は左手を壁から離し、五指をそろえてレンズに向けた。

「必中で頼むよ」

 中指の第一関節から先が勢いよく千切れ、弾丸のように監視カメラに向かって飛ぶ。

 不思議なことに、愛作の中指の先端だった飛翔ひしょう中に黒い粘着質のかたまりに変じ、レンズを覆うように貼りついて高価な機材を役立たずにした。

 ここの警備セキュリティがスマホのゲームかYouTubeに夢中な不真面目クンだとありがたいが、監視カメラの異常にすぐ気づくような真面目クンだった場合は、おそらく二分以内にはここへ駆けつけるだろう。急ぐに越したことはない。

 愛作はドア横の電子ロックのテンキーに左手をかざす。

 千切れた中指が短い。

 欠損箇所と同じ大きさの塊が左上腕から手首、手の甲と皮下をモコモコとうごめきながら移動し、中指の先として。爪まで元の通り。

 当の愛作は表情ひとつ変えず、テンキーの上に左の掌をスキャンするようにゆっくりとかざして動かす。

 六回ほど繰り返すと、指先から発せられた振動が何かを愛作に伝えた。

「皮脂がついたキーは四つか。押した順番までわかる?」

 左腕がぶるると振動する。

 一本の指でキーを四回押した場合、後の方に押したキーに付着する皮脂は極めて微量ながら減る。四つのキーを皮脂残量が多い順番に押していけば、それが正解のパスワードと見ていい。

 愛作は左腕の推測を受けれた。どのみち自分には解析できない。

 二十一世紀も四分の一を過ぎようかという時代の科学的なアプローチであっても、このような解析はおそらく不可能である。

 だが、彼の左腕はそんな基準を凌駕りょうがした生まれ育ちゆえ気にしても仕方ない。

 そして、愛作にとっては相棒を信じるのは当然のことであった。

 四つのキーがわかっても、その組み合わせは幾通りも存在する。左腕の超常的な感覚で分析した皮脂の付着具合でいくつかの候補を割り出す。

 二度目の操作でロック解除できたのは上出来と言っていい。

 プッシュプル型のドアノブを右手でつかみ、できる限り音をたてないように開ける。

 左手は何が起きても対処できるようにフリーにする。

 最短の時間で室内に体を滑り込ませ、ドアの開きを最小限まで狭くすると、監視カメラを目隠しする役目が終わった黒いねばつく塊が、熟しきった果実のように廊下に落下した。

 全身を蠕動ぜんどうさせてドアの隙間から愛作を追ってきたそれはピョンと跳ねて、彼の左肘辺りにくっつくや、染み込むように腕と一体化していく。

「おつかれさま」

 ねぎらいの声とともに重厚なドアは閉められた。

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