『霧香』というどこにでもいるような普通の女の子

「え……?」


 僕は下冷泉霧香が残した日記の文字に目を奪われた。

 いや、目だけじゃない。動揺する心すらも奪われていた。


 今の月は1月だったものだから、最初のページを開いてみたけれども、そこに記されていたのは信じがたい内容であった。


 下冷泉霧香は僕が男だという事実を知っている。

 しかも、それは今日という日ではなく、去年の3月の時から。


 その時期は僕が死んだ祖父の遺言で百合園女学園に通う事になってしまったという時期と余りにもタイミングが合い過ぎていた。


「……これって、どういう……?」


 日記とは個人の記録が詰まった大切な記録だ。

 それを書いた本人の許しを請う事もなく勝手に読むだなんて、人として最低な行為だっていうのに、僕は記された日々を遡る手を止める事が出来やしなかったのだ。




━╋━━━━━━━━━━━━━━━━━╋━




 3月。


 10数年ぶりに親友だったわか姉と再会した。


 とっても美人になっていて、こうして生きてまた会えただけでも本当に嬉しい。


 だけど、今回は再会してしまったというべきだろうか。


 編入試験を受けに来た私の苗字である下冷泉に危機を覚え、そして私の名前である霧香からもしかして、と察知してくれた彼女が私の編入試験担当になってくれた。


 ここまでは読み通り。

 だけど、自分の弟があんなことになっている彼女が落ち込んでいるのは予想はしていたが、あんなに物凄く落ち込んでいたというのは少々予想外。


 自分の身内があんなに落ち込んでいる中で女装という自分の事だけを考え続ける所業に彼が打ち込めるだろうか。


 普通に考えてそんな事は無理だ。

 心優しい彼は自分の事よりも、落ち込んでいる自分の姉の方に意識が向かい、周囲の目の事なんてきっと考えない。


 であるのであれば、私はわか姉に正直に告白する。


 信頼できる仲間がいるというのは、わか姉にとって精神的支柱になるのと同時に、唯さんが自分の事だけを意識を割けるのに必要不可欠な行為だ。


 私の提案を受けたわか姉は、幸いにも私の事を信じてくれた。

 これで唯さんが実際に女装する際には暗い表情を見せずに、わか姉は唯さんの助けになってくれるだろう。


 何なら私が味方になってくれると考えただけでも心が安らいだと泣き出してしまった。


 全く、この人は孤児院の時から泣き虫なのは本当に変わらない。


 だけど、私はそんなわか姉が大好きで。


 そんな良い姉がいる唯さんの事が大好きだった。


 猶更、彼たちを守らねばと、私は決意した。


 だって、2人とも、私の大好きな大切な人なのだから。

 これぐらいの苦労はさせて欲しいというものだ。




━╋━━━━━━━━━━━━━━━━━╋━




 4月。


 大好きな唯さんと再会した。


 心の底から嬉しい。

 嬉しすぎて、私の事を覚えているかだなんて聞いてしまった。


 反省、反省だ。


 そんな事を聞いちゃいけないというのに、聞いてしまった。

 

 あの人はこれから想像するだけでも大変な目に遭う。


 だから、誰かがあの人の気を引き締めないといけない。

 誰かが彼の女装の練習役をしなければならない。

 私という練習相手で出来ないのに、本番で出来る訳がない。


 だから、私は彼の気を引き締める役をやる。

 私を警戒する事で、彼の女装のクオリティを上げさせる。


 私という敵を用意する事で、私という恐怖に晒す事で、彼はいつまでも気を緩めないだろう。


 そうしないといけない。

 そうしなければいけない。


 頭では分かってる。

 覚悟も決めた。

 

 だから、私は彼を女性として接し続け、しかも変態的な言動を取るキャラクターで彼の女装のクオリティを上げさせ続ける。


 呼称は前々から決めておいた『お姉様』。

 

 年上なのに年下をわざわざそんな的外れな呼称で言い続ける……そういう名目において、彼は私に注目せざるを得ないだろう。


 だから、どうか、私を嫌ってください。


 お願いですから、私を嫌ってください。


 本当は嫌われたくないけど、私を嫌ってください。


 気持ち悪いって言われたくないけど、気持ち悪いって言ってください。


 ……あぁ、でも。

 大好きな人にそういう事を言われるって、心が苦しい。

 大好きな人に警戒されるって、本当に苦しい。


 私はここにいるんだよって、私の事を覚えてないのって、貴方の事が大好きだよって、無責任に欲望のままに叫びたい。


 でも、頑張らないと。

 大好きな彼の為にも、彼以上に自分を殺して頑張らないと。


 彼の為なら、私はどんな苦労だってしてみせる。

 私の苦労が彼の為になるのなら、私の苦労なんてあって無いようなもの。


 頑張ろう、頑張り続けよう、大好きな人を守る為にも。 




━╋━━━━━━━━━━━━━━━━━╋━




 4月。

 

 前々から考えていたファンクラブ運営活動に本腰を入れる。

 同時に彼がいる寮の同じ屋根の下で一夜を過ごした。


 彼には女体の経験が無い。

 それは以前から私がやってきた行動で看過済みだ。


 だからこそ、私は彼に無理やりに女性経験を植え付けるべく、彼の入浴中の御風呂に侵入した。


 彼の男性器が見えないように予め入浴剤を入れておいてから、彼はお湯の中に座り込んでいればいいだけ。


 私は彼に性的なトラウマを植え付ける覚悟で、彼に本当に拒絶される覚悟を有して、彼に自分の女体を擦り付けた。


 いつもいつも変態的な発言をしているだろうから、きっと唯さんに言っても信じて貰えないだろうけれど、第二次性徴以降、こうして異性とお風呂に入ったのは始めて。

 

 誰かに自分の大きな胸を擦り付けるのも初めてで、大好きな人に胸を触らせるのも初めてで、私は顔から火が出そうなぐらいに真っ赤だった。


 だから、あの時、唯さんが私に背中を向けてくれて助かった。


 あんな赤面を見られたら、きっと私が嘘をついてるってバレただろうから、見てくれなくて助かった。


 だけど、本当に彼から嫌われたらどうしよう。


 可笑しい話だというのは分かっている。

 自分から彼に嫌われようと、警戒されようとしている癖に、嫌われたくなくて気づいて欲しいだなんて、それこそ自分勝手だ。


 だけど、本当に大好きだからこそ、本当に嫌われたくなかった。


 あぁ、私はなんて臆病者なのだろう。

 貴方の秘密を知っていて尚好きだって、だから貴方も私を好きになってくださいって、貴方に協力してあげるから私を好きになってくださいって、無責任に卑怯な事を言いたい。 


 ……やだ、そんな事だけは死んでも言いたくない。


 彼に好かれる為にこういう事をしたんだって思われたくない。


 そんな下心で近づいてきたんだって絶対に思われたくない。


 私は、本当に彼の為だけを思って、自分を殺すつもりで、彼を助けようと決心した。


 まだ4月で、1週間も経っていないっていうのに、私の心がボロボロになっているのを感じてはいる。


 だけど、まだ無理は出来る。


 彼の為にも、彼を助け続けないと。


 この私だからこそ、出来る事はきっとまだまだある筈だ。




━╋━━━━━━━━━━━━━━━━━╋━




「――せん、ぱい」


 気が付けば、僕は去年の3月の記録から今年の1月の記録まで食い入るように見入ってしまっていた。


 最後に記されたページにはレシピ帳の事が即に書かれており、書かれていた内容をまとめると『孤児院時代に食べた料理の記憶を、唯さんたちと一緒に食卓を囲んだあの日を思い出してしまって泣いてしまった。どう言い訳すればいいか分からない。感づかれたらどうしよう。折角今まで頑張ってきたのに全てが無駄になったらどうしよう』と記されていた。


 この日記帳に記されて……いや、刻まれているのは、彼女が僕に対する愛情だけだった。


 これがもし罠だとすれば、彼女は人を騙す天才なのかもしれない。

 そう思うぐらいに、この日記帳には純粋な愛情だけが、秘められた感情が赤裸々に記されている。


「……何で、何で、何で……本当に、何で……?」

 

 茉奈と和奏姉さんが僕の女装を手伝ってくれるのは、家族だからだ。

 家族だからこそ、こんな非現実的な事を手伝ってくれていた。


 じゃあ、下冷泉霧香は?


 下冷泉霧香が僕の女装事情を手伝ってくれるのは一体全体どうして?

 日記に記されているように、僕が初恋の人だから?


「……僕は、先輩の事をずっと忘れていたのに……⁉」


 酷い話だ、酷すぎる話だ。


 日記の内容を全て信じるのであれば……いや、こんなもの信じないといけないに決まっている。


 彼女は今までずっと、僕に対して無償の愛を与え続けてくれていた。


 今までの理由なき奇行の全てに理由が現れて、文字通り殴られた気分になってしまう。


 そう、彼女が今までにやってきた行為には、その全てに好意が隠されていて、はっきりとした意図と目的があって、表面上の嘘で覆い隠されていた。


 例えば、僕が寮に起きた時に彼女が廊下で僕の部屋の前に正座をしているという奇行。


 朝の5時よりも前に早く起きてはその場に居座ったのは、クラスも、学年も、性別も違う僕を守る為だけに……


 僕がちゃんと女装が出来ているかどうか、僕が女装なんて簡単だと思わせないように、彼女は愛を以てあの場所に1人でいたのだ。


 夏であれば、まだまだ暑い朝の廊下を。

 冬であれば、心身共に凍えそうになるぐらいの廊下を。


 灯りの無い暗闇の中で、学校がある日はずっと毎日、たった1人で、僕の安全の為だけに待っていてくれたのだ。

 

 先輩はきっと誰よりも先に僕の女装を見る事で、その女装が通じるかどうかを、その女装に抜かりがないかどうかを確かめていたのかもしれない。


 そして、それをやる為だけに彼女はこの寮にやってきたとしたら――?


「……っ」


 目頭がどうしようもなく熱くなるのを感じる。

 僕は今まで、こんなにも尽くしてくれている彼女に対して、酷すぎる事を言ってきたという自覚がある。


 だけど、それは彼女を僕から遠ざける為の行いだった。


 理由はあるけれども、それでもこうして真実を知ってしまった以上、僕の良心という良心はズタズタに引き裂かれそうになっていた。


 彼女はきっと僕の為に自分を使い潰そうとしている。

 

「……っ、うぅ、うぁ……!」


 ぽろりぽろりと、瞳から勝手に涙が零れ落ちる。


 もう僕は下冷泉霧香を警戒する事なんて出来ない。


 出来る訳が無い。


 彼女がどんな奇行をするにしろ、その奇行の裏には絶対に僕の為だけっていう理由が隠されているという事実に気づいてしまった以上、下冷泉霧香が僕に望むような関係性を維持する事が、彼女を警戒し続ける事はもう出来ない。

 

 彼女は僕を騙し続けたっていうのに、こんな優しすぎる嘘を拒絶出来る訳がない。


 僕の嘘に騙され続けてくれていた優しすぎる彼女に、僕は好意という感情を向けざるを得なかった。


 ――気づけば、僕は病院に行くだなんていう予定をすっかり忘れて、健康保険証を回収した後、自室のベッドに倒れ伏し、声を押し殺しながら泣き疲れて眠ってしまっていた。

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